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昭和6~37年の盛岡市の弦楽四重奏団の流れ

   不来方弦楽四重奏団が、村井正一先生らが守ってきた盛岡弦楽四重奏団という名称を1962(昭和37)年にバトンタッチさせてもらい開いたのが、昨日述べた盛岡市の高校会館でのコンサートだった。村井氏は、この時点に至るまでの盛岡市のカルテットの流れを交えた一文を昭和37年6月23日(土)の岩手日報に寄せている。
 これは、このほどプログラムが手に入ったお陰で、この記事の掲載月日を37年6月と特定することができ、やっと、きょう図書館で資料を得ることができた。このプログラムに出会うまでは、私は、村井先生の寄稿は昭和51年ごろと誤算していたのです。ほんとうに有難いことでした。
 以下にご紹介します。(青字部分)

一九二九(昭和六)年頃、盛岡弦楽四重奏団結成。第一回、玉置、梅村(保)、茅場、村井。第二回、寺崎、原、梅村保、村井。原、梅村両先生がいたのでコチコチになり、パート練習の時には完全に弾けても、いざ合奏となると、どうしても合わない。ついに、原先生がたまらなくなり、犯人はチェロだと決めつけた。私は絶対に正確に弾いたつもりだったので、メトロノームに合わせて正確に弾いてみせたのだが、やはり間違っていない。実は原先生が間違って弾いておられたことがわかり、あとで大笑いしたことがある。第三回、玉置、千葉、梅村保、村井。第四回、岩崎、佐々木(一)、松坂、村井。第五回、嵩、佐々木(一)、松坂、村井。第六回、多田、佐々木(一)、松坂、村井。第七回、工藤、多田、松坂、村井。第八回、松坂、内藤、梅村重光、村井。第九回、小柳、鶴田、内藤、村井。第十回、小柳、内藤、松坂、村井。三十年間で十回の編制替えをし、その後、不来方弦楽四重奏団にバトンタッチ。板谷栄紀、成田浩、鈴木真、斎藤敬。第一ヴァイオリンの板谷栄紀君は、四重奏に最も大切なすべてのバランスに細心の注意を払い、またよき指導者でもある。第二ヴァイオリンの成田君も、必要以上の誇張もなく、よく気をつかって弾いている。ヴィオラの鈴木君は、持ち前の耳のよさが何と言ってもこのカルテットにプラスだ。アレンジャーとしてもよい人。チェロの斎藤君は、技巧も最近相当に進み、情熱的な努力は好感が持てる。なほレッスンは三年間休みなく続けたという。四人の精進は頭がさがる。私はいつか彼らの練習を聴いたが、とにかくひたむきな練習をしていた。正直いって、ひたむきこそ彼らのすべてと言いたい。この不来方弦楽四重奏団が、こんど、盛岡弦楽四重奏団と改名して、その記念発表会を二八日に開く。楽団では数少ない四重奏団だけに、大きく育ってもらいたいと願っている。四十五年の歴史を誇るカルテットの都盛岡に、新しい生命がつながれたことを心から感謝したい。


※村井氏がいうカルテットの45年の歴史には、大正時代の弦楽四重奏団太田カルテット(梅村保、赤澤長五郎、佐々木休次郎、館沢繁次郎)を含めての45年であると思われます。

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