きょうのことばー『逆転の祝福』ー信仰の人モーセー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月28日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】出エジプト3:1~12
1 モーセは、ミデヤンの祭司で彼のしゅうと、イテロの羊を飼っていた。彼はその群れを荒野の西側に追って行き、神の山ホレブにやって来た。
2 すると主の使いが彼に、現れた。柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。
3 モーセは言った。「なぜ柴が燃えていかないのか、あちらへ行ってこの大いなる光景を見ることにしよう。」
4 主は彼が横切って見に来るのをご覧になった。神は柴の中から彼を呼び、「モーセ、モーセ」と仰せられた。彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
5 神は仰せられた。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
6 また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。
7 主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。
8 わたしが下って来たのは、彼らをエジプトの手から救い出し、その地から、広い良い地、乳と蜜の流れる地、カナン人、ヘテ人、エモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のいる所に、彼らを上らせるためだ。
9 見よ。今こそ、イスラエル人の叫びはわたしに届いた。わたしはまた、エジプトが彼らをしいたげているそのしいたげを見た。
10 今、行け。わたしはあなたをパロのもとに遣わそう。わたしの民イスラエル人をエジプトから連れ出せ。」
11 モーセは神に申し上げた。「私はいったい何者なのでしょう。パロのもとに行ってイスラエル人をエジプトから連れ出さなければならないとは。」
12 神は仰せられた。「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ。あなたが民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で、神に仕えなければならない。
【説教】
きょうはモーセという人物に焦点を合わせます。モーセの一生は、映画『十戒』で御存じかと思います。先週は、ヨセフがエジプトの総理大臣にまで上り詰めたことを語らせていただきました。飢饉を逃れてエジプトに移住してきたイスラエルの人々は、はじめは70人ぐらいでした。それが増えに増えて次第にエジプトを脅かすほどになったのです。これに危機感をもったエジプトは、それまでは優遇した民族を、こんどは圧政をもって支配するようになり、生まれてくる男子を皆殺しにします。神はイスラエル民族を憐れまれ、一人の男の子を救いだされました。これがモーセです。モーセはエジプトの王女にひろわれ、王女の子として宮殿で最高の教育を受けながら、しかも、実母を乳母として育てられます。モーセのその後の歩みから、恐らくは、実母から授乳を受けるたびにイスラエル民族の宗教的な影響をも受けていたでしょう。
モーセは、一生をエジプトの名宰相として送ることもできたのです。しかし、自分がユダヤ人の血筋であることを知ってからは、決してそれを忘れなかった。そして、過酷な使役に苦しむ同胞を何とか救おうとしていた。あるとき、痛めつけられている同胞を救おうとしてエジプト人を殺してしまいました。
モーセは追放され、荒野をさまよった末に、ミデアンの地で羊飼いをすることになります。エジプトの王子としての地位にあったモーセが、一転羊飼いに。何という落差、違いでしょうか。自分には権力もあり、何でもできるという自負心に満ちていたモーセは、ミデアンで一介の羊飼いとして老境を迎えます。
このままで一生を終えるのかというときになって、神様は、ホレブ山でモーセに現れます。ホレブ山はシナイ山ともいわれ、一説にはシナイ半島の先端にあるジェベル・
私たちが人生を送る時に、幾たびか決断をし、さまざまな選択をしてきています。ホレブ山で神様の顕現に出会うまでのモーセもそうだったでしょう。もしあのとき無理をしてまで同胞を助けていなければ、エジプトでの多くの特権を棒に振ることはなかっただろうに。自分の判断がそれで良かったのか、イテロの羊を飼いながら、モーセは幾たびも自問自答し悶々としていたに違いありません。悔やんだときもあったでしょう。しかしそのようなときに神様は神様の側からモーセに現れてくださいました。モーセはこのとき齢80でした。そして、主は仰せられた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを確かに見、追い使う者の前の彼らの叫びを聞いた。わたしは彼らの痛みを知っている。」
あなたの気持もわたしは全部知っている。さあここから大逆転があるのだと神様は仰るのです。
5節で、神様は、神様の仕事に当たろうとする時に次の心構えを命じます。「ここに近づいてはいけない。あなたの足のくつを脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
神様の働きを為そうとするときには、自分は今、きよい神様の御前にあるのだということを認識しておくべきです。「足のくつを脱げ」とは、「ひれ伏しなさい」ということです。これは神様のしもべになることを表わします。
自分の生涯がこれで良かったのかを真剣に自問するとき、神様はまるでそれを待っていたかのように御自身を現わし大逆転をしてくださいます。
最近、内村鑑三を扱った番組を観ました。彼が、神の前における自分の心のきよさ、正しさ、即ち神の前における義を求めようと自分を突き詰め内省していたとき、彼を指導していた方が、「内村くんはあまりに内省的すぎる。あなたの義のために十字架につけられたお方を仰ぎ見ること、それが義なんだよ」と導かれたそうです。番組の解説員の方が、これを聴いて、いままでは一方方向からしか見ることができなかったことを、視点を変えて反対の方向から見ることができるようになったと言っていました。私たちが神に扱われるというのはこういうことだと思いました。
モーセは、80歳になるいまもってただの羊飼いかと無念であったかもしれない。絶望していたかもしれない。中途半端ではなく、徹底的に自分の人生に絶望するとき、不思議にも、まるでその時を待っていたかのように神様は、燃える柴に現れてくださった。神様は、私たちにも同じ経験を与えてくださいます。アブラハムのときにも、モーセのときにも、そして私たちにも、神様は、自分が自負していたものがくだかれ、絶望し十字架を見上げたそのときにこそ、新たなビジョンを与え、あなたにこう仰るのです。
「わたしはあなたとともにいる。これがあなたのためのしるしである。わたしがあなたを遣わすのだ」
※この説教はICレコーダーをもとに起こし、読みやすくするために、内容に忠実に約半分に編集しております。聴き間違いがある場合もあります。お気づきの点はご指摘いただければ有難く思います。文責:中ぶんな
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