きょうのことばー『感情と信仰』ー信仰の人モーセー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年5月5日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】出エジプト33:12~16
12 さて、モーセは主に申し上げた。「ご覧ください。あなたは私に、『この民を連れて上れ』と 仰せになりました。しかし、だれを私といっしょに遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身で、『わたしは、あなたを名ざして選び出した。 あなたは特にわたしの心にかなっている』と仰せになりました。
13 今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、どうか、あなたの道を教えてください。そうすれば、私はあなたを知ることができ、あなたのお心にかなうようになれるでしょう。この国民があなたの民であることをお心に留めてください。」
14 すると主は仰せられた。「わたし自身がいっしょに行って、あなたを休ませよう。」
15 それでモーセは申し上げた。「もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、私たちをここから上らせないでください。
16 私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか。」
【説教】
モーセという人物を色々な角度から思い巡らしているうちに、私は、モーセがなにも私たちとかけ離れたスーパーマンのような存在ではないことに気付きました。そこで、モーセがイスラエルの民を導くという大事業を、どのような信仰を持ち、どのような感情をもって進めていったかに焦点を合わせてみました。
イスラエルの民は、エジプトでパロの圧政に苦しんでおりました。これを憐れんだ神様は、指導者モーセを立てて、イスラエルの民をエジプトから脱出させ、約束の地カナンへの旅をさせます。紅海を二つに分けて渡らせ、そして、結果的には彼らは40年間荒野を旅し、ついに約束の地カナンに到達します。
私たちは東日本大震災を通っていますが、これを体験した者として、紅海をわたるという出来事をもう一度見なおしてみたいと思います。眼前には海が広がり、背後からはパロの軍隊が追い迫ってくる。絶体絶命のこのときに、神は紅海を二つにわけるという奇跡を起こして、イスラエルを助けてくださった。これは尋常ならざる異常な経験です。エジプト脱出前の、神がエジプトに下した10の災いや脱出も異常なことでした。彼らは短期間にこのような超自然的な経験を次つぎにしているのです。このことは、彼らに大変な高揚感をもたらしたでしょう。彼らは疲れていても疲労感を覚えないほど異常興奮していたはずです。
去年、釜石で被災した教会の先生にお会いしました。被災して後のイースターの辺りから、信徒の方々や教会のための奉仕に全身全霊で当たっておられたそうです。それが、1年経ち、2年経ちするうちに、このストレスが重く堆積していったということでした。津波の第一波は、あの甚大な被害をもたらした3・11であるけれども、その後に、教会で中心となっていた人々が釜石を去ってしまうなどの第2波、第3波があったということです。そして復興、復興と叫ばれる中で、それが次第に風化してきているという事実。その被害、ストレスがどれほどのものかを率直に証ししておられました。このお証しに、私は、モーセもこのようなところを通ったであろうと思いました。いったいこれをどのようにモーセは乗り越えたのか、こういった角度から、モーセの信仰、そしてモーセの精神的な営みを探りたく思いました。
さてイスラエルの人たちが直面した課題を聖書から見てみましょう。
エレミヤ2:6 彼らは尋ねもしなかった。『主はどこにおられるのか。私たちをエジプトの国から上らせた方、私たちに、荒野の荒れた穴だらけの地、砂漠の死の陰の地、人も通らず、だれも住まない地を行かせた方は』と。
彼らは、まるで死の世界のような荒野、食べ物も水もないようなところを放浪しなければならなかった。モーセに率いられて乳と蜜の流れる地に行くはずだったのが、あまりにかけ離れている現実に彼らはつぶやきはじめます。
出エジプト15:22 22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
出エジプト16:2 そのとき、イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。3 イスラエル人は彼らに言った。「エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。」
この二つの引証部分は、人のつぶやきの本質を見事に表わしています。彼らはエジプトで、ムチ打たれ牛馬のごとくにこき使われ、ろくに食べ物も与えられてはいなかった。にも関わらず、脱出させたモーセに、何で余計な事をしてくれたのかと言わんばかりに詰め寄り、モーセを拒絶してしまったのです。モーセはどんな思いになったでしょう。
イスラエルの民はうなじがこわい民だとしばしば出てきます。
出エジプト33:1~5
主はモーセに仰せられた。「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。
2 わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
3 乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。あなたがたはうなじのこわい民であるから、わたしが途中であなたがたを絶ち滅ぼすようなことがあるといけないから。」
4 民はこの悪い知らせを聞いて悲しみ痛み、だれひとり、その飾り物を身に着ける者はいなかった。
5 主はモーセに、仰せられた。「イスラエル人に言え。あなたがたは、うなじのこわい民だ。一時でもあなたがたのうちにあって、上って行こ うものなら、わたしはあなたがたを絶ち滅ぼしてしまうだろう。今、あなたがたがの飾り物を身から取りはずしなさい。そうすれば、わたしはあなたがたをどう するかを考えよう。」
イスラエルの民は、神様からそっぽを向かれ、神様から愛想を尽かされるような民だった。それでもモーセは、「神様、どうか彼らを赦してください。そしてどうかあなたご自身が私と一緒に行ってください。あなたご自身が一緒に行ってくださることこそ私たちの存在意味なのですから、どうか見捨てないでください」とモーセは切に祈りました。
どうでしょうか。モーセのように、自分がよかれと思ってやっていることが、ことごとく否定されるとしたら、どういう感情になるでしょう。「もうやってられない!」、こう思っても当然でしょう。しかしモーセは自分のことを「モーセは地上の誰にもまさって謙遜であった」といっています。神様にお委ねすることです。自分がどう言われようと、どう評価されようと捉われないことです。うなじが砕かれているなら謙遜になれるのです。モーセは神様のまえにくつを脱ぎ扱われ砕かれておりました。ですからこのようなイスラエルを導く使命を放り出すことはしませんでした。感情には支配されずに寧ろとりなしの祈りをしている。
もっとも彼の生涯にたった一度だけ、感情を爆発させたときがあります。神様が水をわきださせようと、モーセに「岩に命じなさい」とおっしゃったのに、モーセは民にあきれ怒り、思わず杖で岩を2度打ってしまった。神はこれを見とがめられました。それぐらい怒ったっていいじゃないかと私たちには思われます。しかし、それでモーセはカナンの地に入ることは許されませんでした。
皆さん、地球ゴマをご存じでしょう。回っているこの地球ゴマのように、神に従え、という思いが絶えず私たちの中で回っているなら、私たちは感情をコントロールすることができます。できないとすれば、これが回っていないのです。十字架を見上げて、イエス様の贖いの愛に心を癒していただき、こんな者をも神様はお赦しくださったという恵のうちにコマがある。自分のことばに態度にトゲが出てきてしまったとき、そのときは、絶えずイエス様の贖いの愛を仰ぎ、十字架にしっかりと自分をつないで回転を続けるなら、私たちはモーセのように、どんなに困難な中にあっても、主にあって感情を治めながら信仰を進めてゆくことができるようになるのではないでしょうか。
※先週の復習は割愛しています。また約半分の長さに編集しております。文責:中ぶんな
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