きょうのことばー『砕かれる恵』ー信仰の人たちに学ぶー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょう5月19日はペンテコステ、聖餐式がありました。そして午後からは先ごろ亡くなられた兄弟の納骨式がありました。ペンテコステの説教は来週になります。きょうは2013年5月12日の國光勝美牧師の説教です。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】詩篇23:1~6
1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。
4 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。
5 私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油をそそいでくださいます。私の杯は、あふれています。
6 まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追って来るでしょう。私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。
【説教】
ようやく5月らしい暖かさを覚える穏やかな日曜日に、皆様方とともに礼拝を持つことができ感謝しております。
ここのところ旧約聖書に登場するアブラハム、ヤコブ、ヨセフ、モーセといった人物たちの信仰から学んでおります。彼らに共通しているのは、神様によって砕かれるという経験を持っていることです。偉大な人物には大きな出来事が数多くありますから、その中のどれを捉えるかということになります。
ここでアブラハムから、「イサクの献納」のときのできごとを取り上げてみます。神様はアブラハムに、子孫を星の数ほど多く与える、あなたによってすべての国民は祝福されるとおっしゃいましたが、彼にはなかなか子どもが与えられませんでした。そしてようやく授かったのがイサクでした。ところが神様は、イサクをいけにえとして捧げるようにと命じます。彼はいくらなんでもこれは空耳だろう、神様がそんな理不尽なことを命じるはずがないと悩み抜きます。しかし神様ははっきりと、あなたの愛するひとり子をいけにえとして捧げなさいと命じられます。これは実はアブラハムを試みるためでした。アブラハムは、死人をもよみがえらせることのできるお方を信じて、ほんとうにイサクを捧げようとします。ところがまさにそのとき、神様は、待て、あなたが神を畏れていることがほんとうにわかったと、イサクの身代わりにする子羊を与えてくださいました。
神様は私たちにもこのような試みをなさいます。そして、私たちが自分の願望を優先させるのか、それとも神様が喜ばれることを優先させるのかを見ておられる。そこで、それまでは気付かなかった自分の心の中にある愛着や意外な自分の本質を知らされることになる。私たちは、このような試みを受けることによって、砕かれることを学んでいきます。
ヤコブという人物も、ペヌエルで神様と格闘します。自分の我を通すか、それとも全面的に神に従うのか、夜を徹しての争いでした。ヤコブはなかなか砕かれません。もう夜も明けようというときに、やっと彼は神によって砕かれました。ヤコブは、「私を祝福してくださるまではあなたを去らせません」と神様にすがりつきます。自分の力で何とかできると思っているうちはだめです。神様にすがりつく以外に方法は何もない、どうしようもない。これがわかり、砕かれたからこそ、ヤコブはヤコブとなりました。
モーセという人物も、何とか自分の力で同胞を救おうとしましたが、うまくいきませんでした。そしてエジプトでの特権の座をおりて羊飼いをしながら、自分の在り方を見つめたときに、神様が現れてくださったのです。神様は絶体絶命となったその人にご自分を現わしてくださいます。人のピンチは神のチャンスです。神様はそこで、モーセを指導者として立てることをモーセに告げました。モーセは、とても私にはできないとしり込みしました。しかし彼が神様に砕かれて立ちあがったときに、これはもう神の業なのだとモーセは知っていたでしょう。
イスラエルの民は、うなじがこわい民だと神様は仰いました。だれにとってもうなじを砕かれるのは嫌な事です。アブラハムにしても、ヤコブ、モーセにしてもそうです。人から拒絶されること、無視されること、反抗されること、みな心を引き裂かれるような辛いことです。でも神様は、これらを通して、ほんとうに見上げるべきお方を見つめ、見上げるように導いてくださる。
この教団を創立した蔦田ニ雄先生を思い出します。先生は、戦争中に宗教弾圧で拘置所で過ごさなければならなかった。どのような獄中生活であったかは、網走に資料館があり、それによって想像することができます。先生は最初は久松警察署に捕まりました。手首を縛られて省線、これは現在の山手線でしょう、省線で巣鴨の拘置所に連行されます。その時に、先生は、ああイエスさまもこのような辱めをうけたのだと実感しました。福音のためにこのような事態になっているのだと、そのことを一層深く知ったと述懐している先生の記述があります。
蔦駄先生は中田監督のもとにあって、福音のために全力で働いていたときに拘束されました。それまで労していた東京日本橋教会の方々や家族からも強制的に隔絶されてしまった。神様なぜですか? そのとき、自分が行ってきたことのすべてを主の前に思い起こして悔い改めたそのときに、「神われらとともに在す」というおことばが与えられました。もし出獄したなら、この福音の核心を述べ伝えようと決意されたのです。先生に、もし神様に砕かれるという経験がなかったなら、このインマヌエルという群れは存在しなかったでしょう。
詩篇23篇をご覧ください。この4節にある「死の蔭の谷」を蔦田先生も通りました。そして神様にあつかわれたわけです。羊飼いは時にはむちと杖をもって私たちをあつかいます。そして、それが「わたしのなぐさめ」となったというのです。羊飼いは先頭の羊を、むちや杖で行くべき方向に向かわせます。この詩篇はダビデが晩年に書きましたが、彼は言うのです。「それが私の慰め」だと。このようなときに、私たちもこのようなときにこそ、ふだんは学ぶことができないことを学ぶのです。そして追々その意味がよくわかってくる。
これはイエスさまご自身がゲッセマネの園で神様から受けた事と同じではないでしょうか。イエス様も誤解され、人から捨てられ、辱めを受けるという苦悩のことごとくを受けながら、「それが私の慰めです」と学んでいかれたのです。砕かれるとき、私たちは、眼に留めるべきお方をはっきりと知ることができます。ゲッセマネで、イエス様は、父なる神を思い、自分の前に置かれている栄光をしっかりと見つめました。
ヘブル書12:2に「
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とあります。どうか砕かれて、見るべき方をのみ見上げましょう。他のものに目を留めるから信仰がおかしくなるのです。イエス様のみを見上げるときに、ほんとうの祝福が私たちに訪れるに違いありません。
※説教は約半分の長さに編集しております。文責:中ぶんな
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