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きょうのことば 『御前を歩む』ー信仰のひとに学ぶー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月7日の國光勝美牧師の説教です。

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【聖書引証】創世記1718

1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

 

【説教】

 きょうは、創世記171の「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」という御言に心を向け、神様の前に、私たちがどうあることを期待されているのかを心に留めたいと思います。

この創世記171のおことばは、アブラム(後にアブラハムと改名)が99歳になったときに、神様がアブラムに現れて仰せになったおことばです。遡って、アブラムに関する記述があるのはこの13年前です。創世記1616にありますが、ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだそのときで、アブラムは86歳でした。86歳から99歳までの記述はありませんが、この13年間、アブラムはどんな想いでいたのでしょう。

神様は、アブラムの正妻サラから子どもがうまれると約束なさいました。ところが、待てども待てどもサラにそのような気配がなかった。ついにサラは、自分に仕えている召使のビルハに命じて、アブラムとの間に子を得させます。当時はそれが当たり前のこと、人から非難される筋合いもなかったでしょう。しかし、神様の約束の子どもはサラとの間の子どもです。約束の子を待てなかったアブラムには、神様に対する後ろめたさがあったと思われます。ビルハの子イシマエルを得てからは、神様との親密な関係が失われてしまっていたでしょう。13年も経ってから、神様はアブラムに現れた。それまで神の現れはなかったと考えられます。

私たちと神様との関係も、このアブラムの13年間のようである場合があります。神を否定するつもりはさらさら無い。しかし、神様との交わりが希薄になってしまっている。私たちも、この世の中で生活しているうちに、聖書にある神の約束を待ち切れずに、社会の一般的な常識に妥協して目的のものを手に入れてしまうことがある。たとえ世間から非難されることはないとしても、自分の心の奥底には神様への後ろめたさがある。これがアブラムの13年間です。それでも重要な節目には、神様の側から現れてお取り扱いくださいます。神様は祝福の宣言とともに、アブラムをアブラハムと改名されました。

もし私たちが、何かで落ち込んでいる、後ろめたさを覚えているとしたならば、それはそのまま福音につながります。神様はつい見かねて、神様の側からお声をかけてくださるからです。アブラムには真っ先にこう仰いました。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

「全能」、これはヘブル語で「エル・シャダイ」。昔のインマヌエルの丸の内教会でのメッセージだったと思いますが、これを「たらちねの」とも訳すと聞いた記憶があります。お母さんが赤ちゃんを育てるためにおっぱいをあげるという意味合いでしょうか。東北聖会のとき、仙台青葉荘教会の島隆三先生は、「エル・シャダイ」を、「すべてのものを供給する」と解説しました。エル・シャダイの神が、あなたに必要な命のかて、必要なすべてのものを供給してくださるというのです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

さて、ここにある「わたしの前を歩み」の「前」の意味は、これは、英語では face と訳されます。神様と顔を合わせて、神様の眼をしっかりと見て歩みなさいと仰っている。アブラムは13年の間、神様と顔を合わせないわけではない。しかし、神様の眼をしっかりと見ることができなかった。そこに神様は「わたしの前を歩み」と仰せられている。

 神様の顔を、眼を避けたものたちが、聖書にも書かれています。ニネベ行きを命じられながら、タルシシへ向かったヨナ。罪を犯してしまい隠れたアダムとエバ。罪を持っていると、神様と顔を合わせられなくなる。 

詩篇168には、「 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。ここに出てくる「前」も「face」です。クリスチャンにとっていちばん大切なことは、神様と眼と眼を合わせ、顔と顔を合わせて神の御前を歩むことができるかどうかなのです。子どもが、親の言いつけに背いてしまったとき、親と眼を合わせない、顔を背けてしまいます。アブラムも同じでした。 

神様はアブラムに、私たちに仰います。「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

ダビデも失敗をしました。顔を背けていたときがありました。しかし、そのようなときにこそ、神の前にしっかりと顔を向けたときに、私の足りないところに、いつでもイエスさまの十字架が示されているのです。

第一ヨハネ177 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

私たちが神様の御顔を見るとき、いつでも、イエス様の十字架を見るのです。イエス様の十字架の贖いを通して、恐れることなく神様の前に顔を向けることができます。足りないところ、失敗もあるでしょう。すぐに十字架の血潮を仰いでください。神に顔を合わせることができます。 

最後に、「全き者であれ。」とは。

私たちは往々にしてこの言葉を、律法的に完全でなければならないのか、それは無理だと早とちりしがちです。しかしここで、エル・シャダイの神、必要なもののすべてを供給してくださる神様と顔を合わせ眼を合わせてください。ここにこそイエスの罪の贖いの十字架が示されています。神はここで言います。なぜ私に期待しないのか、私が全能の神である。落ち度がなく失敗がないことを完全というのではない。私を全的に愛し従っているもの、自分の落ち度を認め十字架を仰ぎ血潮のゆえに赦されているもの、神の御顔を仰ぎ見ることを喜びとする性質、これこそが完全ではなくていったい何でしょう。

神様に期待することです。あなたの石を取りのけなさい。

※前回の復習や引証のいくつかを割愛しております。文責:中ぶんな
 

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