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きょうのことば 『試みから祝福へ』ー信仰のひとに学ぶー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月14日の國光勝美牧師の説教です。日常まざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】創世記22:1~14

1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言った。
6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

【説教】きょうはイサクの献納の場面である創世記22章から、試みが祝福へと変えられることをお伝えしたく願っております。

 神様は私たちが試みにあうことで、私たちの本質、実態をあぶり出し晒してくださいます。平穏に過ごしているときにはわからないことを教えてくださいます。

 1735年、ジョン・ウェスレーは燃えるような伝道の想いをもって、イギリスからアメリカに行く途中に、船が大嵐に巻き込まれます。多くの者たちが怖れおののいている中で、モラヴィアンと言われるクリスチャンたちは平安を保ち賛美し祈り合っていました。ウェスレーはその姿に感動しました。ウェスレーは、自分の信仰が頭だけの信仰であることを知らされました。 この違いは何なのか 。試みにあったときに、真っ先にどういう在り様を選択するのか。

 ロボットには、機能として備えられた以外の選択はできません。しかし私たちには自由意思があります。従うことのできる自由があると同時に、従わないこともできます。ここでどちらを優先させるのか、ここに神様の試みがあるのです。どういう時間を過ごすのか、或いはどういう付き合いをするのかは私たちに委ねられています。果たして私たちは何を最も大切なものとして位置づけ、従い、選びとっていくべき者なのか。信仰の試練とは、実は、これを学びとっていくという要素が強いのです。

 創世記22章で、神様はアブラハムに、待ちに待って与えられた最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じます。たとえささげないとしても、一般常識では非難されるところはないでしょう。むしろ従う行為の方が非常識であるとみなされる局面です。しかし神様はささげよと命じられる。神様はここでアブラハムを試み、そしてアブラハムに学ばせようとしておられる。

 ヘブル579には7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、とあります。

 イエス様でさえ、試みから従順を学ばれました。イエスさまは、「できるならこの苦い杯を自分から取り去ってください」と祈られた。罪のないお方ですから十字架に架かることを拒んで当然でしょう。しかし、父なる神の御心が何であるかをわかっておられ、十字架に架けられることを選択したのです。イエス様はそこで学ばれ、試みで学ぶべきその模範を示して下さいました。

 アブラハムもそうでした。神の約束の後継者であるイサクをささげなければならない理由などどこにもないと思われても、そしてそれがいかに辛く苦しくとも、アブラハムは神に従い学ぶことを選択しました。

 私たちにも、日々の信仰生活の中で学びとるべき従順があります。たとえ失敗することがあっても、直ちに神様の御顔を仰いで、イエス様の十字架の御姿にしっかりと焦点を合わせて選びとっていくことです。

 ヘブル1211にはこうあります。

11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 試みは決して心地よいものではありません。そうでなければ試練とはいいません。しかし、それをしっかりと受け入れていくときに、実は学ぶべき学課として、試練が栄光に変わることを私たちは知っています。イエス様は十字架を経て、栄光を受けられました。聖書の中で、試練といえば、よくヨブの例が引かれます。ヨブが多くの試練を耐え忍んだとき、神様は、ヨブに、それまでに倍する祝福を用意してくださいました。

 ヨブのように試練を耐え忍んだ人物として、ヨセフがいます。彼は兄弟から妬まれエジプトに売り飛ばされます。エジプトで誘惑に遭ったときにも、まっしぐらに神様を見上げて、この誘惑を退けました。彼は誘惑という試みから従順を学んだのです。理不尽な扱いもついに耐え抜き、エジプトの大臣にまで引き上げられました。

ヤコブ124を見ましょう。

2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。3 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 2節に試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とあります。この「思いなさい」は、思想が先行しているかに思われます。しかし、ロマ書にも使われていますが、これには「計算しなさい」という意味があります。喜びであるとは到底思われないことを、これは「喜びである」と計算することによって忍耐もできます。計算が忍耐を生じます。試練、これは一種のだまし絵でもある。視点の在りかでいかようにも見えてしまう。霊的な意味において、試練は祝福の変形であります。試練が必ずやこの上ない喜びに、祝福に変わることを、経験させていただきましょう。

※説教は約半分に編集しております。またこれは教会からの依頼ではなく、自主的に行っているものです。文責:中ぶんな

 

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