きょうのことば 『御前に歩む人』ー信仰の人ヨセフー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月21日の國光勝美牧師の説教です。この日、私は、自治会関係の集まりがあり欠席しましたが、CDに録っていただき、起しました。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。
【聖書引証】創世記50:20
20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。
【説教】
すでに桜が咲いたという報道もありましたが、今日は、雪の中を八幡平から駆けつけた兄姉もおられます。寒さに見舞われはしましたが、皆さまが体調も守られ、このように集われましたことを心から感謝しております。
ことしは、旧約聖書にあるヤコブのベテルにおける経験から御言をいただき歩ませていただいておりますが、クリスチャンにとって、イエス・キリストの系図のはじめに出てくる人物たちが、神様の御前にいったいどのような扱いをうけたのかは興味深いことです。この朝は、その中から、ヨセフという人物に心を向けるべく導かれております。
ヨセフは大変数奇な人生を歩みました。ヨセフが一体どのような信仰をもって主の前に歩んだかを学ばせていただきましょう。
ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルから生まれた子で、ヤコブは、息子たちの中でいちばんヨセフを可愛がりました。それが他の兄弟たちには不愉快でならない。それに加えてヨセフは、自分の見た夢をありのままに語ったりしたものですから、兄弟たちは益々ヨセフを嫌いました。その夢というのは、お兄さんたちの麦の束が、僕の麦の束に向かってお辞儀をしたとか、お父さん、お兄さんたちが、僕を礼拝したなどというものでした。兄弟たちの妬み、憎しみは極まりました。羊の番をしていたお兄さんたちに弁当を届けに来たヨセフを穴に落とし、終いには通りかかったキャラバンに売り飛ばしてしまったのです。ヨセフが自分からお父さんに取り入ろうとしたわけではなく、親の方がヨセフを溺愛したのです。夢のことにしても、悪意から話したわけではありません。それでも、兄弟たちから酷い仕打ちを受けてしまうのです。
ヨセフはエジプトに売られ、パロの高官ポティファルに仕えます。有能で手腕がありましたから、主人の信頼を得、仕事全般を任せられるようになります。ところが、ポティファルの妻が、魅力的なヨセフを執拗に誘惑しました。ヨセフに、主の前に罪を犯すことはできないと撥ねつけられ、ポティファルの妻は腹いせに、ヨセフが自分を誘惑しようとしたと嘘をつきます。主人は激怒し、ヨセフを牢屋にたたきこみました。
そこでもヨセフは、投獄された人々の夢を解き明かしました。ヨセフが言ったとおりにその人は後に釈放されることになったのです。もし釈放されたなら、ヨセフの釈放を計らうと約束していたはずが、忘れられてしまいました。仕方なく牢屋で過ごすうちに、パロが夢を解き明かせる人物を探し始めたところで、ヨセフは引き出されます。パロの夢は、大豊作の後には大飢饉がくるという意味であることを解き、備蓄を勧めます。果たして、その通りとなり、こうしてヨセフは、パロの宰相にまで出世することになります。
大飢饉はヨセフの親族が住むユダヤの全土をも襲い、ヨセフの一族も飢饉を逃れてエジプトの地に移住してきます。彼らはそこで優遇されて増え広がっていくことになるのです。
凡そ、ヨセフは私たちが通る苦しみをすべて経験した人物でした。これはイエス様が受けられた試練とよく似ています。私たちも、故なくして妬みや悪意を持たれ、或いは、誤解され不当な扱いを受けて苦しむことがあります。しかし、ここで、創世記39:1、2をご覧ください。
「1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。2 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」
ヨセフが主に祝福されているようすを、ヨセフの主人に言わせるほどに、ヨセフは神様の前に歩むということができていた人物だったのです。
創世記39:9、10「9 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。」
誘惑に対して、人は、石や木のようにまったく反応しないわけではありません。それに感応するものがあるからこそ誘惑なのです。イエスさまが誘惑に遭われたときもそうでした。しかし、このような試練を経験することによって、自分の弱いところはどこであるのか、鎖でいうのなら、どこが強度が弱い部分であるのかが明確になってきます。
また、ヨセフが牢に置き去りにされたときもそうですが、人から無視されたり、忘れ去られたりしてしまうことほど大きな辛いことはないでしょう。しかし彼は、このような時にも、神様の時を待ち続けたのです。試練の一つ一つを、信仰によってプラスと捉え、次つぎに祝福へと変えていった。神の前に歩むとは、こういうことであり、これに尽きるのだろうと思います。
はなしを締めくくりますが、飢饉を逃れて、お兄さんたちがエジプトにやってきました。お兄さんたちがいちばん恐れたのは、ヨセフに仕返しをされるのではないかということでした。しかし、ヨセフは赦しました。世の中一般では、赦しても、それが必ずしも受け入れることではない場合があります。しかしヨセフはお兄さんを一目見たときに、お兄さんが自分に対して行った悪事もたちどころに赦しました。
創世記50:20「 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。」
神様はすべてのことを相働かせて益としてくださいます。ヨセフからこの信仰のあり方を学び、私もそうさせて下さいと是非祈らせていただきましょう。
※説教は約半分に編集してございます。文責:中ぶんな
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