きょうのことば 『石を取りのけよう』ーイースター講壇ー
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年3月31日のイースターの説教です。
【聖書引証】ヨハネ伝11:30~44
30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
【説教】
イースターおめでとうございます。キリスト教会では、イエス様が十字架に架けられ埋葬され、三日後に復活されたできごとをイースターとして記念しております。きょうは、「石をとりのけなさい」という御言(おことば)から語らせていただきます。
上記に掲げましたこの場面に至るまでのいきさつを簡単に申し上げます。イエス様を慕っていたマリヤ、マルタ、ラザロという実の兄弟姉妹がおりました。両親はすでになかったのでしょう。3人が肩を寄せ合って暮らしていたのです。イエスさまは、このような家を心の安らぐ場としておられた。3人もイエス様をもてなすことを何よりの喜びとしていました。ところが、この家に悲劇が起こりました。弟のラザロが病気になってしまったのです。姉妹たちは、イエスの力を知っておりますから、イエス様が一刻もはやく来て下さるように願い、今か今かと待っていたのです。しかし、イエス様には何かお考えがあったのでしょう。ラザロの深刻な病状を知りながらも、直ぐには駆けつけなかった。その間に、ラザロは亡くなり、葬られて、墓はすでに石で塞がれておりました。
当時のユダヤ社会の慣わしでは、死後三日間は蘇生する可能性があるということで、3日以内には葬らず、4日を経てから葬っていました。イエスさまは4日目に来たのでした。これには意味があります。しかし、2人の姉妹は「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。どうしてもっとはやく来てくださらなかったのか、はやく来てさえいたなら弟は死ななかったものを。これが姉妹たちの思いだったでしょう。
イエス様は、墓の入り口をふさいだ「その石を取りのけなさい。」と仰います。石とは何でしょう。それは、私たちの常識や理性ばかりを働かせて、つい神の全能を制約してしまう不信仰のことです。今すぐにでもたちどころに御業をおできになる神様の全能に期待をしないこの不信仰の罪のことなのです。
35節に「イエスは涙を流された。」とあります。同情と悲しみの涙であったでしょう。そして、人間にとっての死の残酷さ、死の前にある人間の無能力さへの涙でもあった。しかし、イエス様が涙されたのは、これらのことばかりではない。他の人々よりも身近にいたマリヤ、マルタが、なぜ自分を信じられないのか。38節の「憤り」は、あってはならないことに対する強い憤りを表わす言葉です。ここでイエス様はマリヤ、マルタに動揺し、苛立ち、怒っておられる。今の私たちに対しても、イエス様は同じ思いでおられます。39節「四日になります」とはどういうことですか。だから今さらどうしようもない、たとえイエス様でもどうにもならない、そういうことでしょうか。しかしイエス様は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と仰っているのです。それなのに、あなたは、どうして信じることができないのか、わたしがこう言っているのに、なぜ信じないのか、イエスさまはそれを嘆いておられる。
私たちは、イエス様の復活を信じている者たちです。マリヤ、マルタよりも、イエ様の復活の事実を、聖霊によって知っているはずです。その私たちに、なぜあなたは、“石”を取り除こうとはしないのか。
主が復活した朝、イエス様の墓に封印された石は、女たちが駆けつけたときには、すでに除けられていました。これは神が転がして除けたのです。しかし、ラザロの墓を塞いでいる石を、イエス様は私たちに取り除くようにと言います。これはあなたの責任であり、あなたの為すべきことだと仰る。これは、私たちへの厳命です。命じなさったということは、主はご自身に対する私たちの信頼を期待しておられるのです。
これからの教会の働きを為していくとき、また一人一人の信仰生活を送ろうとするとき、無意識のうちに、神様の全能を制約し、不信仰になってはいませんか。あの柔和なイエスさまが、マリヤ、マルタに、憤られたとすれば、まして、私たちはイエス様の復活を知っている者たちのはずです。
どうかイースターのこの朝、もし今私たちの心の中に、この不信仰の石があるならば、不信仰のゆえに閉ざしてしまっているものがあるなら、イエス様はそのあなたに、こう仰っるのです。
「私が道であり真理でありいのちなのです。
だから、さあ、今、わたしを信じなさい」
※説教は約半分に編集しております。文責:中ぶんな
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