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2013年4月

天沼三津子第12回七宝に遊ぶ展 に滑り込みセーフ

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 春うらら。天沼さんの七宝ジュエリー展に行ってきました。独自の作風を創り出しては定着させ、多くの方々の個性を演出してくださっています。インテリアとしてお薦めの七宝の壁掛けもありました。2点だけをご紹介いたします。実は5点撮ったのですが、映りがよくないので残念ですが2点だけとします。

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            ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 台所におりましたら、NHKTV、歌謡チャリティーショーが盛岡だよと呼ぶ声がしたので、一応そちらに移動したところが、伴奏は山形交響楽団でした。TVですから、団員の面々をアップで映し出してくれます。ステージ上で遠くから拝見したことはありますが、構成メンバーを初めて間近にしました。作曲家木島由美子氏のブログによくお邪魔しているので、山響の演奏会報告は一通り読んでいるわけです。私としてはこれが一つの見どころでした。そしてもう一つ新しい発見が。それは、民謡歌手福田こうへいさんの登場でした。後で新聞の番組紹介を見ますと、福田こうへいさんのお名前は載っていませんでした。しかし、この方の真っ直ぐな清々しい歌声が心の隅々にまで響き沁みとおりました。後でユー・チューブでも聴いてみましたが、きょうのは会心の響きであったように思います。時間の都合で番組の途中まででTVを消しましたが。歌曲であろうとフォークであろうと民謡であろうと、心のこもった良いものは良い、そういうことかと思います。

 きょうで4月もおしまい。庭の桜も青空のもとで一気に開花。新緑が清々しくまぶしい一日でした。

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立川ゆかり氏の『是空の作家・光瀬龍』連載第17回ーSFマガジン6月号(早川書房)ー

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いわての文芸誌『天気図』を率いる編集長、立川ゆかり氏の『是空の作家・光瀬龍』連載第17 回(SFマガジン6 月号 早川書房)が出ました。
 
立川氏の躍進は、即ち『天気図』同人の躍進にもつながると、毎号応援してい
。ご紹介します!

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今回では、70年代の世相を背景に、1975(昭和50)年に神戸市で開かれた第14回日本SF大会を紹介している。テーマは「SFの拡散と浸透」であった。小松左京の『日本沈没』が大ベストセラーになっていたときだ。SFアニメ『宇宙戦艦ヤマト』、SF映画『スター・ウォーズ』も台頭し、SFの位置は盤石となった。ちょうどその時期に、光瀬龍原作のSF漫画『百億の昼と千億の夜』、『アンドロメダ・ストーリーズ』が単行本化されヒットする。性漫画家たちが光瀬SFを好んだのは、ロマンティックな作風だというばかりではなく、当時のウーマンリブ(女性解放運動)にも合致していたからだと立川さんは解く。男性が主人公となるSFが多い中で、光瀬SFには、強くて賢い美少女を扱った作品が少なくないとし、その代表作を挙げている。

 仕事にも家庭にも恵まれるうちに壮年を迎えた光瀬は、1981年の中島梓との対談でこう語っている。「人間の挫折だとか、情熱とか、そういうものがもはや私のものではなくなったんだな」。 

 世間に名を知られるようになった光瀬に、岩手の疎開時代の同級生千葉明との再会があり、これを機に光瀬は再び懐かしい奥州市前沢の地を踏むことになる。岩手を舞台にした作品として、『暁はただ銀色』、まったくSF色のない初の少女小説『ゆく春のうた』―これは5年後に大幅改作され『吹雪の虹』として新聞連載され、さらに集英社から出版されているーを紹介している。

 光瀬先生の一関中学校時代の交友には、後に『子育てごっこ』で直木賞作家となる三好京三がいた。三好先生とは、北の文学の合評会でお目にかかることがあったので、興味深く読ませていただいた。三好先生も一度は作家への夢を諦めかけたときがあったようだ。それが、光瀬先生との再会がきっかけで再燃している。また三好先生がスキャンダル渦に巻き込まれ、しかも材を失うという窮地に立たされたときに、光瀬から時代小説のアドバイスを受け助けられたようだ。スキャンダル渦にあっていちばん辛い想いをしている三好先生に友人として一番先に手を差し伸べたのは光瀬先生だったという。

 2008年に、立川さんは、光瀬の妻千歳さんとともに、光瀬ゆかりの地、岩手県奥州市前沢を訪れている。また一関市にある「文学の蔵」や前沢町にある光瀬の定宿「半田屋」も写真入りで紹介されている。 

 誌を紹介するというよりも、合評会でお会いしていた先生方がどのような文学の道を歩まれていたものかを、私がいかに知らずにいたかに呆れながら、今も、川さんの筆になる評伝の断片を記させていただきました。


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きょうのことば 『御前に歩む人』ー信仰の人ヨセフー

日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013421日の國光勝美牧師の説教です。この日、私は、自治会関係の集まりがあり欠席しましたが、CDに録っていただき、起しました。日常さまざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】創世記5020

20 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 

【説教】

 すでに桜が咲いたという報道もありましたが、今日は、雪の中を八幡平から駆けつけた兄姉もおられます。寒さに見舞われはしましたが、皆さまが体調も守られ、このように集われましたことを心から感謝しております。

 ことしは、旧約聖書にあるヤコブのベテルにおける経験から御言をいただき歩ませていただいておりますが、クリスチャンにとって、イエス・キリストの系図のはじめに出てくる人物たちが、神様の御前にいったいどのような扱いをうけたのかは興味深いことです。この朝は、その中から、ヨセフという人物に心を向けるべく導かれております。

 ヨセフは大変数奇な人生を歩みました。ヨセフが一体どのような信仰をもって主の前に歩んだかを学ばせていただきましょう。

 ヨセフはヤコブの最愛の妻ラケルから生まれた子で、ヤコブは、息子たちの中でいちばんヨセフを可愛がりました。それが他の兄弟たちには不愉快でならない。それに加えてヨセフは、自分の見た夢をありのままに語ったりしたものですから、兄弟たちは益々ヨセフを嫌いました。その夢というのは、お兄さんたちの麦の束が、僕の麦の束に向かってお辞儀をしたとか、お父さん、お兄さんたちが、僕を礼拝したなどというものでした。兄弟たちの妬み、憎しみは極まりました。羊の番をしていたお兄さんたちに弁当を届けに来たヨセフを穴に落とし、終いには通りかかったキャラバンに売り飛ばしてしまったのです。ヨセフが自分からお父さんに取り入ろうとしたわけではなく、親の方がヨセフを溺愛したのです。夢のことにしても、悪意から話したわけではありません。それでも、兄弟たちから酷い仕打ちを受けてしまうのです。

ヨセフはエジプトに売られ、パロの高官ポティファルに仕えます。有能で手腕がありましたから、主人の信頼を得、仕事全般を任せられるようになります。ところが、ポティファルの妻が、魅力的なヨセフを執拗に誘惑しました。ヨセフに、主の前に罪を犯すことはできないと撥ねつけられ、ポティファルの妻は腹いせに、ヨセフが自分を誘惑しようとしたと嘘をつきます。主人は激怒し、ヨセフを牢屋にたたきこみました。

そこでもヨセフは、投獄された人々の夢を解き明かしました。ヨセフが言ったとおりにその人は後に釈放されることになったのです。もし釈放されたなら、ヨセフの釈放を計らうと約束していたはずが、忘れられてしまいました。仕方なく牢屋で過ごすうちに、パロが夢を解き明かせる人物を探し始めたところで、ヨセフは引き出されます。パロの夢は、大豊作の後には大飢饉がくるという意味であることを解き、備蓄を勧めます。果たして、その通りとなり、こうしてヨセフは、パロの宰相にまで出世することになります。

大飢饉はヨセフの親族が住むユダヤの全土をも襲い、ヨセフの一族も飢饉を逃れてエジプトの地に移住してきます。彼らはそこで優遇されて増え広がっていくことになるのです。

凡そ、ヨセフは私たちが通る苦しみをすべて経験した人物でした。これはイエス様が受けられた試練とよく似ています。私たちも、故なくして妬みや悪意を持たれ、或いは、誤解され不当な扱いを受けて苦しむことがあります。しかし、ここで、創世記3912をご覧ください。

1 ヨセフがエジプトへ連れて行かれたとき、パロの廷臣で侍従長のポティファルというひとりのエジプト人が、ヨセフをそこに連れて下って来たイシュマエル人の手からヨセフを買い取った。2 がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。3 彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。 

ヨセフが主に祝福されているようすを、ヨセフの主人に言わせるほどに、ヨセフは神様の前に歩むということができていた人物だったのです。

創世記399109 ご主人は、この家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥さまだからです。どうして、そのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことができましょうか。」10 それでも彼女は毎日、ヨセフに言い寄ったが、彼は、聞き入れず、彼女のそばに寝ることも、彼女といっしょにいることもしなかった。 

誘惑に対して、人は、石や木のようにまったく反応しないわけではありません。それに感応するものがあるからこそ誘惑なのです。イエスさまが誘惑に遭われたときもそうでした。しかし、このような試練を経験することによって、自分の弱いところはどこであるのか、鎖でいうのなら、どこが強度が弱い部分であるのかが明確になってきます。

また、ヨセフが牢に置き去りにされたときもそうですが、人から無視されたり、忘れ去られたりしてしまうことほど大きな辛いことはないでしょう。しかし彼は、このような時にも、神様の時を待ち続けたのです。試練の一つ一つを、信仰によってプラスと捉え、次つぎに祝福へと変えていった。神の前に歩むとは、こういうことであり、これに尽きるのだろうと思います。

はなしを締めくくりますが、飢饉を逃れて、お兄さんたちがエジプトにやってきました。お兄さんたちがいちばん恐れたのは、ヨセフに仕返しをされるのではないかということでした。しかし、ヨセフは赦しました。世の中一般では、赦しても、それが必ずしも受け入れることではない場合があります。しかしヨセフはお兄さんを一目見たときに、お兄さんが自分に対して行った悪事もたちどころに赦しました。

創世記5020 あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。 

神様はすべてのことを相働かせて益としてくださいます。ヨセフからこの信仰のあり方を学び、私もそうさせて下さいと是非祈らせていただきましょう。

※説教は約半分に編集してございます。文責:中ぶんな

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失礼をお詫び申しあげます

 

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 きょうは大平しおりさんを囲んでの集いに参加。詳しい内容は、プロ作家ともなると各方面の意向もあり、公開は差し控えた方がよさそうだ。何れ若き作家の誕生である。このブログには、プロ作家を書いたことはほとんどない。これは自分の任ではないという自覚からである。
 ただこういった集まりには、さまざまな専門の方々がいらっしゃり、同じテーブルに着いた場合には話を聞く機会にも恵まれ、教えられることは多い。
 しかし、今回、個人的に大きかったことは、さもないことがきっかけで失礼していたり、ご無沙汰していたり、ひと言なりともご挨拶したいと思っていた方々にお会いできたことである。かつてはお世話になりながら、ただ単純な気後れが理由で挨拶すべきときにしないでしまった方に、それをお詫びすることもできた。
 お開き後はコーヒーコースの方々にご一緒した。職業、職歴、家族のことなど、十人十色の状況、環境の中での弛まない執筆のようすなどを聴くことができた。

 家族が早い目に帰省するという連絡があり、受け入れの準備のため、きょうのブログは写真一枚で済ませようと思ったが、きょうの集まりで、一日3行でも毎日継続していると書く力を維持できると言われたことを思い出し、あ、そうか、3行なら容易いと記してみた。

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いわてのチェロ奏者 村井正一氏の生家 を見つけぁんした

『もりおか物語(参)ー材木町かいわいー』
 昭和49年8月20日発行
 盛岡の歴史を語る会

 この著書91ページにはこうある
「材木町の村定洋品店さんは、肴町の村治洋品店さんなンかとご親類なようで、明治初年に材木町にお店を出されて、初めには油とか砂糖とか食料品なども売っておられたようですよ。それから和洋小間物や化粧品なども売られあンして、当時この町内ではハイカラなお店でござンした。こちらのお店は、何といっても早くから蓄音器とレコードを扱われたことでしょうな。いまのレコードのことを種板(たねいた)なンていってなッす。まず村定さんといえば蓄音器というほど、盛岡では有名でござンしたからなッす。
 それからいまの東山堂支店のすぐ北隣には村井瀬戸物屋さんがありあンしたが、こちらは村定さんの分家でござンして、あの県民オーケストラのセロ弾きの村井正一さんは、ここのお方なンですな。」

そしてこの著書の巻末には次の地図が

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下の並びの左から13軒目の村井庄吉(せともの店)が村井正一氏の生家です。村庄と呼ばれていたようです。

 

 それにしても、村庄が村定の分家ということで、村井正一氏の音楽的な背景がかなり見えてきました。

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たつ子像制作への想いー舟越保武ー

 一芸術家の制作への熱い想いが、田沢湖に照りかえる日差しのようにきらきらと光る一文を見つけました。岩手日報。
 
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 ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 撮っておけばブログの更新に便利と撮りおいた写真も底をついた。盛岡城跡公園やら、高松の池周辺にでもいけば、あっという間に2、30枚は撮れるだろうが、桜の見ごろにはまだすこし早い。山野草の小さな花々もまだまだ。
 大型連休がやってくる。息子たちや姉一家も来盛予定。小岩井に行きたいらしい。連休も盛岡周辺で、もしかすれば自宅の庭で、つまりは、ほとんどいつも通りのパターンで、息子たちと過ごすことになるのかどうか。息子は息子で帰省中の同級生らと既に予定を立てているらしい。ゆったりといわて
満喫してほしいものだ。


 

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花はどこへ行った?

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 20日午後4時から、高校の同期会があった。ほんとうに楽しかった。22日になってメールが入った。欠席の葉書に、高校時代の校舎が懐かしいと書いてくださったNさんが、同期会のその日に亡くなられたことを知った。いま外では風が吹き荒れている。なにかこの風の赴くままに自由にそこいらじゅうを駈け巡っているのではないか、そんな気がした。懐かしいあの古めかしい木造校舎の、木漏れ日が落ちる机に頬杖などして、いつ醒めるともなくうたた寝でもしていて欲しい。 

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花・花・花

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 きょうは一日庭仕事。一旦やり始めると際限もなく続けてしまい、昼は家の中に入ったものの、ついに夕方まで土いじり。それでも春の花が一段落したころになると、もう草に圧倒されてただ眺めているだけの時間が長くなる、これが毎年のパターン。

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第7回 佐藤明子 ポストカード展 立ち寄ってみました

 きょう図書館へ行き、3時間の時を費やすも、目的の収穫は無し。時間を無駄にしたような気分になったものの、まあこんなものでしょうと引き揚げて帰る途々、佐藤明子さんのポストカード展に立ち寄ってみました。    

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カードのことばは
    

    感謝
    素直
    思いやり


 どうぞ1枚ずつお持ちくださいと置かれていたカードです。佐藤さんがパソコンで作られたものです。
 これは佐藤さん自らが公開しているのですが、佐藤さんは19年前、ご主人に先立たれ、その後、ご自分も病気と闘われ、今それを克服してのポストカード展を開催中です。喫茶サン(盛岡市r中央通り 朝日新聞盛岡総局となり)で、今月末まで。佐藤さんが撮った写真には、癒しのあることば、励ましのことばが記されています。ほっとするひと時をどうぞ。

 展示してあった 「人生無駄なことはひとつもない」これを読んで、収穫のない3時間も何かの足しにはなっているだろうと考えを改め、そしてよくよく気付いてみれば、埋もれたものを探し出そうとすれば、考古学であれば、まずどこにありそうかを想定し、多くのスタッフを動員し、埋もれていそうな近くから、少しずつ少しずつ、大変な時間と労力を投じて掘り出すだろう、何事もそう簡単にいくものではないと思わせられたことです。

 図書館で、昔の新聞から副産物というか、まるせい呉服店さんの新聞広告を見つけたのでコピーして、帰りにお届けし、村井正一先生のはなしなどするうちに、村井先生と一緒にトリオをやっていた内藤さんの奥様がご存命で、よく、まるせい呉服店さんにいらっしゃることが判りました。もうこれは佐藤明子さんの言うとおり、「人生に無駄なことはひとつもない」、図書館の3時間は実に有益であったと素直に認め感謝したことです。

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きょうのことば 『試みから祝福へ』ー信仰のひとに学ぶー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月14日の國光勝美牧師の説教です。日常まざまなことを考えるうえでも、何らかの参考になればと願っております。

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【聖書引証】創世記22:1~14

1 これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。
2 神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」
3 翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクとをいっしょに連れて行った。彼は全焼のいけにえのためのたきぎを割った。こうして彼は、神がお告げになった場所へ出かけて行った。
4 三日目に、アブラハムが目を上げると、その場所がはるかかなたに見えた。
5 それでアブラハムは若い者たちに、「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」と言った。
6 アブラハムは全焼のいけにえのためのたきぎを取り、それをその子イサクに負わせ、火と刀とを自分の手に取り、ふたりはいっしょに進んで行った。
7 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」
8 アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。
9 ふたりは神がアブラハムに告げられた場所に着き、アブラハムはその所に祭壇を築いた。そうしてたきぎを並べ、自分の子イサクを縛り、祭壇の上のたきぎの上に置いた。
10 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。
11 そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」
12 御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」
13 アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。
14 そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある」と言い伝えられている。

【説教】きょうはイサクの献納の場面である創世記22章から、試みが祝福へと変えられることをお伝えしたく願っております。

 神様は私たちが試みにあうことで、私たちの本質、実態をあぶり出し晒してくださいます。平穏に過ごしているときにはわからないことを教えてくださいます。

 1735年、ジョン・ウェスレーは燃えるような伝道の想いをもって、イギリスからアメリカに行く途中に、船が大嵐に巻き込まれます。多くの者たちが怖れおののいている中で、モラヴィアンと言われるクリスチャンたちは平安を保ち賛美し祈り合っていました。ウェスレーはその姿に感動しました。ウェスレーは、自分の信仰が頭だけの信仰であることを知らされました。 この違いは何なのか 。試みにあったときに、真っ先にどういう在り様を選択するのか。

 ロボットには、機能として備えられた以外の選択はできません。しかし私たちには自由意思があります。従うことのできる自由があると同時に、従わないこともできます。ここでどちらを優先させるのか、ここに神様の試みがあるのです。どういう時間を過ごすのか、或いはどういう付き合いをするのかは私たちに委ねられています。果たして私たちは何を最も大切なものとして位置づけ、従い、選びとっていくべき者なのか。信仰の試練とは、実は、これを学びとっていくという要素が強いのです。

 創世記22章で、神様はアブラハムに、待ちに待って与えられた最愛の息子イサクを全焼のいけにえとしてささげるよう命じます。たとえささげないとしても、一般常識では非難されるところはないでしょう。むしろ従う行為の方が非常識であるとみなされる局面です。しかし神様はささげよと命じられる。神様はここでアブラハムを試み、そしてアブラハムに学ばせようとしておられる。

 ヘブル579には7 キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。8 キリストは御子であられるのに、お受けになった多くの苦しみによって従順を学び、9 完全な者とされ、彼に従うすべての人々に対して、とこしえの救いを与える者となり、とあります。

 イエス様でさえ、試みから従順を学ばれました。イエスさまは、「できるならこの苦い杯を自分から取り去ってください」と祈られた。罪のないお方ですから十字架に架かることを拒んで当然でしょう。しかし、父なる神の御心が何であるかをわかっておられ、十字架に架けられることを選択したのです。イエス様はそこで学ばれ、試みで学ぶべきその模範を示して下さいました。

 アブラハムもそうでした。神の約束の後継者であるイサクをささげなければならない理由などどこにもないと思われても、そしてそれがいかに辛く苦しくとも、アブラハムは神に従い学ぶことを選択しました。

 私たちにも、日々の信仰生活の中で学びとるべき従順があります。たとえ失敗することがあっても、直ちに神様の御顔を仰いで、イエス様の十字架の御姿にしっかりと焦点を合わせて選びとっていくことです。

 ヘブル1211にはこうあります。

11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

 試みは決して心地よいものではありません。そうでなければ試練とはいいません。しかし、それをしっかりと受け入れていくときに、実は学ぶべき学課として、試練が栄光に変わることを私たちは知っています。イエス様は十字架を経て、栄光を受けられました。聖書の中で、試練といえば、よくヨブの例が引かれます。ヨブが多くの試練を耐え忍んだとき、神様は、ヨブに、それまでに倍する祝福を用意してくださいました。

 ヨブのように試練を耐え忍んだ人物として、ヨセフがいます。彼は兄弟から妬まれエジプトに売り飛ばされます。エジプトで誘惑に遭ったときにも、まっしぐらに神様を見上げて、この誘惑を退けました。彼は誘惑という試みから従順を学んだのです。理不尽な扱いもついに耐え抜き、エジプトの大臣にまで引き上げられました。

ヤコブ124を見ましょう。

2 私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。3 信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。4 その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な者となります。

 2節に試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。」とあります。この「思いなさい」は、思想が先行しているかに思われます。しかし、ロマ書にも使われていますが、これには「計算しなさい」という意味があります。喜びであるとは到底思われないことを、これは「喜びである」と計算することによって忍耐もできます。計算が忍耐を生じます。試練、これは一種のだまし絵でもある。視点の在りかでいかようにも見えてしまう。霊的な意味において、試練は祝福の変形であります。試練が必ずやこの上ない喜びに、祝福に変わることを、経験させていただきましょう。

※説教は約半分に編集しております。またこれは教会からの依頼ではなく、自主的に行っているものです。文責:中ぶんな

 

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同期会交歓

同期会に行ってきました。
数十年ぶりの顔に、乙女のころの面影を見つけては、ああ、○○さん、お久しぶり!

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司会者は赤いスーツ。これはもしや赤いちゃんちゃんこ? 開会のことば。乾杯。参加者62人の一人一人の挨拶。歓談。

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誰からともなくピアノの周りに集まって歌う、歌う、歌う「夏がく~れば思い出す♪」「七色の谷を~こえて~♪」。たちまちに爽やかな合唱が。

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歓談は続く、続く、続く。
笑顔、笑顔にたてつづくカメラのフラッシュ。
校歌斉唱。

そして閉会の辞。

誰一人として同じ人生はなく、みなさまが独自の道を歩まれてきて、それでも尚、むかしのままのあの方この方、やはり変わってはいない、あの優しさも。こんどはいつになるのか、ある方は来年は茶話会で、ある方は寿がいい、またある方は白寿でと、未来さまざま。

2013年4月20日、62人×(笑顔+ことば+やさしさ)=∞ 

また会う日までお元気で!!



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花は咲く

 5時ごろに帰宅して空を見上げると、すばらしい雲が浮かんでいた。カメラを取りに家に戻った。ところがすこしのあいだに採光の変化で雲は様変わりしてしまっていた。

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 忙しかった一日も終わる。もりおか童話の会がある日だったが、地域関連の方に出席。齢重ねるごとに人生暇になるものと思っていたが、今は忙しくなる一方だ。それでも70歳までは健康を維持してすこしはまともな事をしてみたい。

 この寒さでかじかむ枝の向こうの雲には桜開花の予感。遅くとも花は咲くのだろう。

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花はどこへ行った?



 あんな方もいた、こんな方もいたと、きょうも思いだしていたが、またその続きのように、いつも押し車を押しながら我が家の前を歩いて外科に通院していた着物の老舗である「まるせい」さんのおばあちゃんの張りのあるしっかりとした声も懐かしい。身内のものが亡くなった場合には、葬儀全般に直接関わるためか、別な世に行ってしまったのだという納得がある。しかしそうではない場合には、いつしか姿を見かけることがなくなり、そしてとんと見かけない事に気づき、あら、いったいどうされたのかと思い、しているうちに亡くなったと知らされる。弔問しても亡くなられたことに実感がわかない。その方のかつての住処を目にするたびに、いったい何処へいってしまったのと、何か不思議な思いに捕われる。
この方の家はいまも後継者の方によって守られているけれども、廃屋や更地になったいえの前にはふと佇んでしまう。

 そんなときに、こんな歌が浮かんだ。「Where Have All The Flowers Goe?」(花はどこへ行った?)。そういえば歌詞の意味をあまり考えたことはなかったなと検索してみると、反戦歌だった。ピート・シーガーの作詞・作曲だ。クリックすると、74歳のときの味わいのある歌を聴くことができる。1955年の赤狩りに活動停止を余儀なくされたピート・シーガーが失意の中で作ったという。いつの間にか視界から消えていった人の姿を思ったときに浮かんだ歌だ。

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大信田時子 人物画展7 ー2013/5/1~ 15 画廊喫茶ママー

  今さっきまで、きょうの宮城県震度5弱、三宅島の震度5強に関するTVニュースを見ながら、ふとアポロ13号の宇宙飛行士の生還が過った。絶望的な状況の 中で、地上の科学者たちが最後まであきらめずに、極限まで知力、体力を振り絞って、ついに飛行士たちを生還に導いた感動的な実話だ。たて続く地震のニュー スに、若干ネガティブに傾いていた気分がなぜか一挙に引き揚げられた。
 それできょうアップしようと思っていた絵画展を、予定通りにアップしようと思う。

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        ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きのうは、この地域の「いきいきサロン」がありました。お茶っこおあげんせという呼びかけに、これを盛り立ててあげましょう、或いは、家にこもっていないでちょっと世間の空気を吸いましょうと出かけてくださfった方々がおり、そして私も参加させていただきました。みなさまの温かさに感謝したことです。
 家の前の小路を歩きながら、数年前に亡くなった方の庭先に青々とまぶしいフキノトウを見ながら、救急車で何度か運ばれたけれども、そのたびに回復し、帰宅された方だったと思いだす。そしてまた別な路地を歩いたところの空き家を見ながら、ここの方は行儀作法から裁縫までを多くの方々に教えた方だったと思いだす。あの人もこの人もいったいどこへ行ってしまったのか。ほんとうに今居られる方々がひとりも欠けることなく、お元気なすがたで歩き続けていただきたい、家の前を、こちらの小路を、向こうの大通りをと願わずにはいられない。
 私の友だちのお母さんは90過ぎ。ケアマネージャーさんが、「100歳を目指しましょう」と言ったところ、不思議そうに頸を傾げ考え込んでから「120歳までなら」と答えたそうです。

 

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「野村胡堂没後50年の集い」に思う

 日曜日の午後2時から、「野村胡堂没後50年の集い」の第一部に参加するために記念館に出かけた。標識を一か所見落とすと厄介なことになりかねない。そのことに神経を使いながら走ったせいか、盛岡市内から紫波町彦部までが距離がとても遠く思われた。これも滑り込みセーフ。いちばん後ろの戸口に近い席、もっとももうそこしか空きがなかったのだが。しかし戸口付近に座ると終わった時に出やすく、駐車場が混雑しないうちに車を発進させることができるというメリットがある。会場を出たのは2番目だった。途中のスーパーに立ち寄って買い物をしても4時半には帰宅できた。会場で時計は見なかったが、かなり進行がうまく行われていたようだ。

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 今回、すこし残念だったのは、あらえびすの音楽の話はなかったことだ。あらえびすは、自著名曲決定盤のなかで「私は音楽家でも音楽批評家でもない。新聞記者であり、小説家である。しかし新聞記者になったのは30歳を越してからのことで、小説を書き始めたのは46歳のときである。音楽愛は少年時代からのことであり、それは道楽に過ぎないといっても、音楽と私との関係は本職の新聞よりも、副業の小説よりも遥かに遥かに古い」と語っている。胡堂にとって音楽は欠くべからざるものだったのだ。30年近い間に1萬枚以上のレコードを集めた胡堂である。そして30年近くの間に聴いたレコードは数萬枚。しかも繰り返し繰り返し聴いている。そして、10回、100回聴いても飽きないレコードを取り上げるようになっていく。財を注ぎこむところに心もあるとよく言われる。胡堂のレコードへの注ぎこみようは大変なものである。

 個人的には、あらえびすは、パリのバッハ教会の会長であり、バッハの権威ある研究者であったシュヴァイツァーの理解者であり、またシュヴァイツァーの弾くオルガンの真髄を捉えており、現代のバッハ演奏にも時代を超えて一石を投じている点など興味深い。

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淡野弓子「バッハの秘密」(平凡社新書) & CD「ライプツィヒ聖トーマス教会少年合唱団 クリスマス・オラトリオ」

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「バッハの秘密」にはこんなことが書かれている。興味のある部分だけをちょっと書き出してみました。

バッハの作曲は「キリスト」を音とする作業だった。演奏の根となっているのはルター正統主義。「ただ神にのみ栄光」を帰するための音楽を追求するためには、どの都市よりもライプツィヒがふさわしいと彼は考える。当時ライプツィヒは、プロテスタントの砦として最も大きな推進力と影響力を持つ都市だったという。1723年、バッハは、トーマス・カントール採用試験に合格、引っ越してきて家族と共に聖トーマス教会学校のアパートに入居。ここで38~65歳まで27年間暮らしている。カントールの選定の権限を持っているのは、3人の市長、2人の市長代理、10人の補佐役から成る市参事会であった。

 トーマス教会には、少年を聖歌隊の歌手として教育する附属学校(1212年創立)があり、学校の運営は市参事会が当たっていた。
 バッハが赴任したばかりの聖トーマス教会学校は、自給生と貧しい家の給費生がおり、寮の建物はがたがたで、伝染病の巣であったという。校長は当時71歳で、生徒たちの躾にまでは手が回らなかった。バッハは、この寮で祈祷、食事、授業、消灯の監督をし、そして、この無秩序と騒音の中で作曲をしていた。バッハ人生の中核部をなすライプツィヒ生活はこのようにして始まった。

 さて、現在のトマーナー・コーア(聖トーマス教会聖歌隊)は、このような少年たちが、爽やかなソプラノでバッハの難曲を苦もなく歌う。こんなCDも出ているようです。

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きょうのことば 『御前を歩む』ー信仰のひとに学ぶー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年4月7日の國光勝美牧師の説教です。

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【聖書引証】創世記1718

1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
2 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に立てる。わたしは、あなたをおびただしくふやそう。」
3 アブラムは、ひれ伏した。神は彼に告げて仰せられた。
4 「わたしは、この、わたしの契約をあなたと結ぶ。あなたは多くの国民の父となる。
5 あなたの名は、もう、アブラムと呼んではならない。あなたの名はアブラハムとなる。わたしが、あなたを多くの国民の父とするからである。
6 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。
7 わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。
8 わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。

 

【説教】

 きょうは、創世記171の「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」という御言に心を向け、神様の前に、私たちがどうあることを期待されているのかを心に留めたいと思います。

この創世記171のおことばは、アブラム(後にアブラハムと改名)が99歳になったときに、神様がアブラムに現れて仰せになったおことばです。遡って、アブラムに関する記述があるのはこの13年前です。創世記1616にありますが、ハガルがアブラムにイシュマエルを産んだそのときで、アブラムは86歳でした。86歳から99歳までの記述はありませんが、この13年間、アブラムはどんな想いでいたのでしょう。

神様は、アブラムの正妻サラから子どもがうまれると約束なさいました。ところが、待てども待てどもサラにそのような気配がなかった。ついにサラは、自分に仕えている召使のビルハに命じて、アブラムとの間に子を得させます。当時はそれが当たり前のこと、人から非難される筋合いもなかったでしょう。しかし、神様の約束の子どもはサラとの間の子どもです。約束の子を待てなかったアブラムには、神様に対する後ろめたさがあったと思われます。ビルハの子イシマエルを得てからは、神様との親密な関係が失われてしまっていたでしょう。13年も経ってから、神様はアブラムに現れた。それまで神の現れはなかったと考えられます。

私たちと神様との関係も、このアブラムの13年間のようである場合があります。神を否定するつもりはさらさら無い。しかし、神様との交わりが希薄になってしまっている。私たちも、この世の中で生活しているうちに、聖書にある神の約束を待ち切れずに、社会の一般的な常識に妥協して目的のものを手に入れてしまうことがある。たとえ世間から非難されることはないとしても、自分の心の奥底には神様への後ろめたさがある。これがアブラムの13年間です。それでも重要な節目には、神様の側から現れてお取り扱いくださいます。神様は祝福の宣言とともに、アブラムをアブラハムと改名されました。

もし私たちが、何かで落ち込んでいる、後ろめたさを覚えているとしたならば、それはそのまま福音につながります。神様はつい見かねて、神様の側からお声をかけてくださるからです。アブラムには真っ先にこう仰いました。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

「全能」、これはヘブル語で「エル・シャダイ」。昔のインマヌエルの丸の内教会でのメッセージだったと思いますが、これを「たらちねの」とも訳すと聞いた記憶があります。お母さんが赤ちゃんを育てるためにおっぱいをあげるという意味合いでしょうか。東北聖会のとき、仙台青葉荘教会の島隆三先生は、「エル・シャダイ」を、「すべてのものを供給する」と解説しました。エル・シャダイの神が、あなたに必要な命のかて、必要なすべてのものを供給してくださるというのです。

「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

さて、ここにある「わたしの前を歩み」の「前」の意味は、これは、英語では face と訳されます。神様と顔を合わせて、神様の眼をしっかりと見て歩みなさいと仰っている。アブラムは13年の間、神様と顔を合わせないわけではない。しかし、神様の眼をしっかりと見ることができなかった。そこに神様は「わたしの前を歩み」と仰せられている。

 神様の顔を、眼を避けたものたちが、聖書にも書かれています。ニネベ行きを命じられながら、タルシシへ向かったヨナ。罪を犯してしまい隠れたアダムとエバ。罪を持っていると、神様と顔を合わせられなくなる。 

詩篇168には、「 私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。」とあります。ここに出てくる「前」も「face」です。クリスチャンにとっていちばん大切なことは、神様と眼と眼を合わせ、顔と顔を合わせて神の御前を歩むことができるかどうかなのです。子どもが、親の言いつけに背いてしまったとき、親と眼を合わせない、顔を背けてしまいます。アブラムも同じでした。 

神様はアブラムに、私たちに仰います。「あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」

ダビデも失敗をしました。顔を背けていたときがありました。しかし、そのようなときにこそ、神の前にしっかりと顔を向けたときに、私の足りないところに、いつでもイエスさまの十字架が示されているのです。

第一ヨハネ177 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」

私たちが神様の御顔を見るとき、いつでも、イエス様の十字架を見るのです。イエス様の十字架の贖いを通して、恐れることなく神様の前に顔を向けることができます。足りないところ、失敗もあるでしょう。すぐに十字架の血潮を仰いでください。神に顔を合わせることができます。 

最後に、「全き者であれ。」とは。

私たちは往々にしてこの言葉を、律法的に完全でなければならないのか、それは無理だと早とちりしがちです。しかしここで、エル・シャダイの神、必要なもののすべてを供給してくださる神様と顔を合わせ眼を合わせてください。ここにこそイエスの罪の贖いの十字架が示されています。神はここで言います。なぜ私に期待しないのか、私が全能の神である。落ち度がなく失敗がないことを完全というのではない。私を全的に愛し従っているもの、自分の落ち度を認め十字架を仰ぎ血潮のゆえに赦されているもの、神の御顔を仰ぎ見ることを喜びとする性質、これこそが完全ではなくていったい何でしょう。

神様に期待することです。あなたの石を取りのけなさい。

※前回の復習や引証のいくつかを割愛しております。文責:中ぶんな
 

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淡路島震度6弱  &鶴ヶ池  

 きょう淡路島で震度6弱。ニュースを素通りできない揺れだ。23人けが、40メートルの地割れ、液状化もあったようだ。南海トラフと思われた方もあった。震度2や3はもう日常的となった感がある。被害軽微であることを祈る。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

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 ど
らも盛岡市内丸にある亀ヶ池 の写真。撮る場所によって、水に映し出されるものが違っています。

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水が創り出す芸術は千変万化。

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「第9回 啄木忌前夜祭」に行ってきました

 きょうは、近所の方のお誘いで行ってきました。

第一部は岩手大学のタイ、中国、フランス、ロシアからの留学生4人の登壇。啄木の句を読んでの感想を述べ合うというもの。これは、感想の内容よりも、真剣に学びに取り組んでいるらしいそれぞれのすがたが印象に残った。コーディネーターは国際啄木学会会長望月善次先生。 

第二部は、雫石環先生の伴奏で、盛岡コメット混声合唱団
常任指揮者、声楽家松田晃先生の歌曲だった。
 清瀬保ニ:作曲  いつとなく我にあゆみ寄り…
             はたらけど…
 越谷達之助:
作曲 砂山の砂に腹這ひ…
             ふるさとの空遠みかも…
 高田三郎:作曲  やはらかに柳あをめる…
             病のごと…
             ふるさとを出でて五年…
             はづれまで一度ゆきたしと…
 加藤學:作曲 病のごと…
          不来方のお城の草に…
          石をもて追わるるごとく…
          やはらかに柳あをめる…
          ふるさとの山にむかひて…

 それぞれの作曲者の紹介があったが、特に、加藤學先生に関しては、いわての方でもあり書いておきたい。
 加藤學:1950(昭和25)年生まれ。1998
(平成10)年47歳で死去。 昭和48年岩手大学教育学部音楽業。簡素な手法の中に深い音楽性をたたえた良い歌曲や合唱曲の数々を残した。
 松田先生は、加藤學先生について、こうお話くださいました。
「純粋なあまり、世渡りがへただった。ちょうど学生運動が盛んだった昭和46年頃に『啄木歌曲集』をつくった。よく、わたしはこのまま音楽をやっていてもいいのでしょうかと問われたが、その答えをわたしは見つけることができませんでした」
(※若干の聴き違いがあるかもしれません)


第三部は、ハーナムキャ景観研究所所長米地文夫先生の啄木の短歌から賢治の反戦童話「月夜のでんしんばしら」が生まれたというはなし。途中から、あらら、きょうは賢治の講演会だったかなと一瞬錯覚。しかし、先生はとても大切なところに結論を導いてくださいました。このあと、戦争で300万人という犠牲者をだしたとい過去がある。今この時代、きなくさいこの時代に、果たして経済ばかりを優先させているときであろうか。このような疑問を投げかけられた。

 以上、音楽中心の報告となってしまいました。

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ナメクジ それとも ダンゴムシ

 夕食の後片付けを済ませほっと一息。午前は何をしたっけ。そうそう、庭に出てまた新しい芽は出ていないか、それぞれの球根の葉っぱがどれぐらい伸びたかを見回る。いま人気のあるガーデニンとはほど遠いけれども、日ごとに育っていく植物は眩しく楽しい。

 ひと冬、木の下に置きっぱなしだった大きな鉢植えを逆さまにしてみると、底にはナメクジが貼りつき、ダンゴムシが這っていた。卵が密集した2センチ大の白いかたまりもくっついている。写真に撮ろうとしたところ、電池切れ。残念。いま思い出して何の卵かを検索してみた。

 ダンゴムシは、カニと同じように腹に育房があってそれに卵を産み、おなかで子どもを育てるようだ。(写真はこちらから拝借)

 とすると、もしやナメクジの卵かなとまたも検索。(ナメクジ写真はこちらから拝借)

やはりナメクジの卵です。こうして庭に生息する生き物の正体を知ってみると、わが家の庭もそう捨てたもんじゃない、そんな気がしてきました。

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第7回 佐藤明子 ポストカード展 2013/4/8(月)~ 30(月) 喫茶サン(盛岡市中央通り朝日新聞社隣)

 佐藤明子さんのポストカード展です。どうぞご覧ください。

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          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 今週はめずらしく時間がゆっくりと流れているようだ。ほとんど休む間もなく、何かをやっていたからではないかと思う。花のしごと、自治会関係の総会、高校の同期会関係、そして近くのT子さんとの公園散歩、けっこう音楽もじっくりと聴き、近所の方が貸して下さった「フーテンの寅さん」の第一作目にも大笑い。読書もまずまず。しかし来週は忙しい。佐藤さんの個展、今週中に行けるかとはおもうけれども。

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諏訪根自子の音盤を評論家はどういってるの?

 人気の兄弟姉妹「かはきゅうこ」ちゃんのおかあさんが、何と、忙しい合間に、2013/4/1(月)読売新聞から、諏訪根自子の記事を切り取ってくださったのだ。とても嬉しかった。お陰さまで元気をいただき、ちょっと億劫になっていた諏訪根自子関連をアップしてみました。

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 この記事の中で興味深いのは、ベルリン・フィルとの日本人としての初共演。43年の指揮者といえば、ナチの息の掛かった音楽家なのだろう。根自子の演奏の質を謂わんとするところで、このような穿った物言いは妥当を欠くのかもしれないが、現代のベルリン・フィルとの共演と同等には考えにくい。ただ世界に通用する最初の日本のバイオリニストであったのは確かなのだろう。それにしても16歳で渡欧、23歳で世界的なオケとの共演。今日のようにグローバル化が進んではいない時代に、どれほどに
文化、言語の壁を乗り越えることと、そして高い音楽性を目指し努力したであろうかを思う。さきがけとしての者に課せられる苦労のすべてをしたのだろう。 萩谷由喜子氏のいう「楽譜に忠実で、感情を抑えた演奏」のうち、「
感情を抑えた演奏」は私の好きなパターンだ。

 以下は、レコード芸術4月号からの転載です。宇野功芳氏の諏訪根自子の理知的な美貌とクールな演奏に心酔する氏のコメントが載っています。

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 左の写真は、65、6歳のときかな。

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 もし吉田秀和氏が生きていたなら、果たして何といっただろうか、これは、私が誰かの評論を読むたびに思うことなのですが。

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厳しい境遇の人々にも寄り添ってーいわてのチェロ奏者村井正一氏ー

 もう一週間ばかり前のことになるけれども、教皇フランシスコが、少年刑務所に収容されている12人の足を洗う儀式を行ったニュースには、やはり心動かされるものがあった。これは、イエス・キリストが弟子たちの足を洗ったことに倣っている。

 足を洗うという眼に見える形ではないが、宗教者ではない方々であっても、置かれている境涯がどのようであれ差別観をもたず、自然な思いやりを持って不遇な人々に寄り添うことができる方々がいる。

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 長い間、盛岡少年刑務所を訪れ、受刑者のためにチェロを演奏し続けた今は亡き盛岡市のチェロ奏者村井正一氏もその一人である昭和28年頃から20年間、5月5日に演奏していた。、20年目で、法務大臣と仙台矯正管区長から感謝状が贈られている。これ以降も訪問し続けていたと思われる。同刑務所に問い合わせたが、重要書類でも20年を経ると処分されるということで、何年まで訪問があったかは分からなかった。

 村井氏は、知人から勧められるままに、約200人の少年を前に初めて演奏。そのときの 少年らのマナーが、音楽を愛する者だけが持ち得るマナーだったことに心を打たれ、以来毎年5月5日に、演奏会を開いた。昭和38年頃からは、市内の ヴァイオリン教室の生徒とともに合奏した。レパートリーは、モーツァルト、バッハ、「荒城の月」「あざみの歌」と幅が広い。

 村井氏は、そのときの少年たちへの想いをこう語っている。
「演奏するたびに感じるのは、少年らの真剣に音楽を求めている心で、音楽の核心を先入観なしに掴んでいる数すくない人たちの仲間という気がします」

※「市内のヴァイオリン教室の生徒たち」というのは、安藤澄子ヴァイオリン教室の生徒たちであると思われます。武田忠一郎氏は、村井氏に、娘の安藤澄子を宜しく頼むと常日頃いっている。安藤ヴァイオリン教室は昭和48年10月に岩手教育会館で演奏会を開いているが、このときにも村井氏は賛助出演している。安藤氏は、この演奏会の19年前から盛岡、北上、水沢でヴァイオリン教室を開いているが、この教室と村井氏の音楽上のつきあいも当初からであったと思われる。

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きょうのことば 『石を取りのけよう』ーイースター講壇ー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうは2013年3月31日のイースターの説教です。

 
 

【聖書引証】ヨハネ伝113044

30 さてイエスは、まだ村に入らないで、マルタが出迎えた場所におられた
31 マリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」
33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
35 イエスは涙を流された。
36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。
39 イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだ人の姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっておりましょう。四日になりますから。」
40 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
41 そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
42 わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
43 そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」
44 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

【説教】

イースターおめでとうございます。リスト教会では、イエス様が十字架に架けられ埋葬され、三日後に復活されたできごとをイースターとして記念しております。きょうは、「石をとりのけなさい」という御言(おことば)から語らせていただきます。

上記に掲げましたこの場面に至るまでのいきさつを簡単に申し上げます。イエス様を慕っていたマリヤ、マルタ、ラザロという実の兄弟姉妹がおりました。両親はすでになかったのでしょう。3人が肩を寄せ合って暮らしていたのです。イエスさまは、このような家を心の安らぐ場としておられた。3人もイエス様をもてなすことを何よりの喜びとしていました。ところが、この家に悲劇が起こりました。弟のラザロが病気になってしまったのです。姉妹たちは、イエスの力を知っておりますから、イエス様が一刻もはやく来て下さるように願い、今か今かと待っていたのです。しかし、イエス様には何かお考えがあったのでしょう。ラザロの深刻な病状を知りながらも、直ぐには駆けつけなかった。その間に、ラザロは亡くなり、葬られて、墓はすでに石で塞がれておりました。

当時のユダヤ社会の慣わしでは、死後三日間は蘇生する可能性があるということで、3日以内には葬らず、4日を経てから葬っていました。イエスさまは4日目に来たのでした。これには意味があります。しかし、2人の姉妹は「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」と言います。どうしてもっとはやく来てくださらなかったのか、はやく来てさえいたなら弟は死ななかったものを。これが姉妹たちの思いだったでしょう。

イエス様は、墓の入り口をふさいだ「その石を取りのけなさい。」と仰います。石とは何でしょう。それは、私たちの常識や理性ばかりを働かせて、つい神の全能を制約してしまう不信仰のことです。今すぐにでもたちどころに御業をおできになる神様の全能に期待をしないこの不信仰の罪のことなのです。

35節に「イエスは涙を流された。」とあります。同情と悲しみの涙であったでしょう。そして、人間にとっての死の残酷さ、死の前にある人間の無能力さへの涙でもあった。しかし、イエス様が涙されたのは、これらのことばかりではない。他の人々よりも身近にいたマリヤ、マルタが、なぜ自分を信じられないのか。38節の「憤り」は、あってはならないことに対する強い憤りを表わす言葉です。ここでイエス様はマリヤ、マルタに動揺し、苛立ち、怒っておられる。今の私たちに対しても、イエス様は同じ思いでおられます。39節「四日になります」とはどういうことですか。だから今さらどうしようもない、たとえイエス様でもどうにもならない、そういうことでしょうか。しかしイエス様は「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」と仰っているのです。それなのに、あなたは、どうして信じることができないのか、わたしがこう言っているのに、なぜ信じないのか、イエスさまはそれを嘆いておられる。

私たちは、イエス様の復活を信じている者たちです。マリヤ、マルタよりも、イエ様の復活の事実を、聖霊によって知っているはずです。その私たちに、なぜあなたは、“石”を取り除こうとはしないのか。

主が復活した朝、イエス様の墓に封印された石は、女たちが駆けつけたときには、すでに除けられていました。これは神が転がして除けたのです。しかし、ラザロの墓を塞いでいる石を、イエス様は私たちに取り除くようにと言います。これはあなたの責任であり、あなたの為すべきことだと仰る。これは、私たちへの厳命です。命じなさったということは、主はご自身に対する私たちの信頼を期待しておられるのです。

これからの教会の働きを為していくとき、また一人一人の信仰生活を送ろうとするとき、無意識のうちに、神様の全能を制約し、不信仰になってはいませんか。あの柔和なイエスさまが、マリヤ、マルタに、憤られたとすれば、まして、私たちはイエス様の復活を知っている者たちのはずです。

どうかイースターのこの朝、もし今私たちの心の中に、この不信仰の石があるならば、不信仰のゆえに閉ざしてしまっているものがあるなら、イエス様はそのあなたに、こう仰っるのです。

私が道であり真理でありいのちなのです。

  だから、さあ、今、わたしを信じなさい」

 

※説教は約半分に編集しております。文責:中ぶんな

 

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休符

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                    きょうは眼の休養日とします。




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アリウムの水滴

 きょうは一日青空が。塀の外回りに24株のビオラを植え、冬のあいだに球根が土の表面に浮き出てしまったコルチカムを別な場所に植え変える。久しぶりに花の芽や花などを写真に撮ってみた。PCに取り込んで、アリウムの芽を拡大したところ、中心にたまった水滴のうつくしさを発見、アップしてみました。 

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        左側の芽の水滴

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      右側の芽の水滴

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いまは花のかわりに、こんな表情を見せてくれていますが、順調にいけばやがては下のような花を見せてくれるはずです。

          アリウム・ギガンチューム 

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3月30日、「むさしの会コンサート」に行ってきました

                                       

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研鑽を積まれたよい演奏に触れる機会を得、感謝でした。これから活躍される若い方々です。
今後が楽しみです。出演のほとんどが、岩手県にゆかりのある方々であり嬉しく思いました。

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また大槌への楽器寄贈支援活動にも取り組んでいます。

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          ☆  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆ 

 梅村保にセロを学び、昭和6年ごろから30年頃まで、岩手県の盛岡市において、盛岡弦楽四重奏団で活躍し続け、またさまざまな音楽団体、音楽教室の演奏に参加しては演奏の質の向上に貢献し、岩手県民オーケストラを立ち上げるに際しては多大なる貢献をしたチェロ奏者である村井正一先生は、昭和49年に当時のソビエトを代表するチェロ奏者ダニイル・シャフランコンサートが盛岡であったとき、次のように語っておられます。

演奏家に最良の演奏を要求するまえに、我々が最良の理解者であらねばならぬ。専門家や評論家ばかりでは会は成立しない。皆で熱っぽく温かく盛り立ててこそ、シャフランに期待することができるであろう。」

今回の「むさしの会」のコンサート、もっともっと多くの拍手があって然るべきではなかったかと思います。

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天沼三津子第12回七宝に遊ぶ展ー春うららー2013/4/16(火)~30(火)喫茶ママ午前11時~午後9時

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 七宝ジュエリー作家天沼三津子さんの春の展示会があります。おでかけください。喫茶ママの住所は盛岡市本町通Ⅰ-8-10(℡019ー622ー5576)。日曜は休みです。

 私は、アクセサリーはめったに着けないほうですが、天沼さん制作のイヤリングは何点か使わせていただいています。ペンダントもなかなかすばらしいものがあります。天沼さんは、国際的な受賞も果たしておられます。労力を厭わない緻密な制作から生まれた数々のアクセサリーをお楽しみください。

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         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうも午前中は庭の整備をした。ここ4、5年のあいだ手つかずだった樹木の下の笹などもきれいに刈り取ったところ、いつのまにか枯葉、枯れ枝の下にチューリップが芽をだしていた。刈ったものを庭で燃やせる場合があると聞き、そうできればかなり手間が省けると市役所に電話で確かめたところ、農家のように広い田んぼがあり、その真ん中で燃やしてさえも、臭いが迷惑だなどという苦情が寄せられることもあるとか。幼稚園が枯葉で焼き芋をするなどといった場合には許されるでしょうけれども。お手数でもごみ袋に入れてごみ集積所に出してくださいということだった。薪ストーブを使っているお宅の煙突からゆうらりと立ちのぼる煙が思い出された。暖房としての燃料ならば燃やすことも可。安全性の問題もあるのだろう。小屋の前置いてあるゴミ焼却炉はもう10年以上も眠ったままだ。それにしても稲わらなどを焼却する匂いまでを悪臭だという感覚はどうも納得できない。
  

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立川ゆかり氏の『是空の作家・光瀬龍』連載第16回ーSFマガジン5月号(早川書房)ー

  いわての文芸誌『天気図』を率いる編集長、立川ゆかり氏の『是空の作家・光瀬龍』連載第16 回(SFマガジン5月号 早川書房)が出ました。
 
立川氏の躍進は、即ち『天気図』同人の躍進にもつながると、毎号応援していま。ご紹介します!

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  連載が始まった時点では、今年いっぱいかななどと仰っていましたが、年を越えて、早新年度となりました。さまざまな方面からの取材がなされており、光瀬先生のことのみならず、多くを教えていただいたこの連載です。

 さて、今回は、
日本が高度経済成長の最盛期、演劇界では寺山修司、文学界では、川端康成のノーベル文学賞、三島由紀夫の割腹自殺などがあり、70年第代半ばから中上健次、村上龍ら芥川賞作家が誕生するといったところから稿が起こされている。
 この頃、SFファンはぐんと増えたものの、SFはまだまだ権威性を持った文壇から疎外されていたようだ。さて、これを当時の編集者たちがどう捉えていたか、ここがおもしろい。
 このような中で、光瀬は、新しい挑戦を始める。時代小説の形を借りた時代SF執筆であるが、江戸時代を舞台とした『寛永無明剣』を書き下ろし、翌年には『多聞寺討伐』を発表し、新境地を開いた。さらにはエッセイに挑戦、『ロン先生の虫眼鏡』シリーズを連載している。これには中学校時代の疎開先であった岩手での自然体験が反映されているとし、『ロン先生の虫眼鏡』の連載の中から、また<北の文学>に掲載された中から、上野原に関する文を紹介しているが、これらから、光瀬が動物学者でもある側面を十分に汲み取ることができるほどのものを提示している。『ロン先生の虫眼鏡』には、動物観察記というより、読み物として楽しめる作品も書かれている。
 光瀬は本来、多面体の人間であり、小説の世界にはSF小説だの、時代小説だのといった枠などない、というのが持論だったという。

 1976年、光瀬のファンクラブ「東キャナル市民の会」が発足した。会の中心は、<奇想天外>(奇想天外社)書評担当の金田真義で、光瀬作品の解説、評論などで光瀬作品を支援した。「東キャナル市民の会」の出版物には、多くの作家も寄稿した。それらの論文の中からの一文も紹介されている。誌で読んでいただきたい。

 光瀬は、この熱いファンクラブの人々に応え、今日泊亜蘭や宮崎惇などの友人作家を会に呼ぶなどして会員たちを喜ばせたという。自分の出版情報、萩尾望都による『百億の昼と千億の夜』の漫画化もいちはやく会員にもたらしていた。これは大ヒットとなっている。女性漫画家による漫画化もなされた。

 最後には光瀬の長女の目で見た、父親としての光瀬と母親千歳のすがたが書かれている。え~と驚くような意外な側面とは、これも是非本誌でご覧ください。

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