きょうのことば 『われ善き戰鬪(たたかひ)をたたかひ』
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。2013年3 月10 日の國光勝美牧師の礼拝説教です。
きょうは聖餐式も執り行われました。
ひろ子牧師のフラワーアレンジメント
【聖書引証】第二テモテ4:6~8
6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
この教会では、ひところまで文語訳聖書を使っていました。訳としての格調の高さがあります。謂わんとしている意味を、的確な漢字を用いることによって、内容を深く伝えてくれます。たとえば、「義の冠」の「冠」は、文語訳では、「冠冕(かんべん)」と訳されており、この「冕」は、ふつうの冠ではなく、天皇や皇太子が儀式で着ける冠のことです。私たちが天に於いて受ける冠は冕であることを、文語訳聖書は教えてくれます。S兄弟が、「イエスさまから義の冠をいただきたい、ただこの一事です」と仰ったのは、「冠冕(かんべん)」のことなのです。
前回はアブラハムの生涯から、人生の節目には神の前に壇を築き、神との間を更新、刷新して、信仰の道を歩み続けたことを学びました。S兄弟も同じ道を歩み、天に召されましたが、この時に、今一度、私たちも、壇を築き直しましょうと締めくくっております。
きょうは、「われ善き戰鬪(たたかひ)をたたかひ」(第二テモテ4:7)に焦点を当ててみましょう。この手紙はパウロが書きました。パウロは、斬首刑となり殉教しておりますが、そのすこし前に、愛弟子テモテに宛てて、その心境を綴った、謂わば遺書ともいうべき手紙です。パウロは、自分の生涯を振り返り、「善き戰鬪」を戦ったと言っています。
さて、「善き戰鬪」とは、どういう戦いなのでしょう。これには、三つのポイントがあります。動き、実践、結果を見てみましょう。
① 動きにおいて
第一コリント15:9~10
「9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みは、むだにはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。しかし、それは私ではなく、私にある神の恵みです。」
クリスチャン迫害をした大罪人だったパウロが、神の恵みによって救われ、その恵みと憐れみを深く自覚したことが、伝道という動きになっています。
S兄が亡くなられる数週間目に仰っていました。
「まだ信仰を持ったばかりのとき、大きな聖会に出たことがあります。献身者の奨励があったときに、私は、主が赦されるなら神学校に進みたいと献身の決意をしました。しかし、牧師になるようにとの召命のおことばは与えられませんでしたので、私は、信徒として牧師の右腕となり主に仕えようと決心し、そこで神様にお約束したことがあります」と。
このS兄弟にして、救われる以前は、酒の失敗もあった。自殺しようとしたこともあったといいます。しかし兄弟は言われるのです「こんな私をも、イエスさまは救ってくださった。これがS兄弟の動因となっていたのです。
② 戦いの実践において
第一コリント9:24~27
24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方をしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になることのないためです。
S兄弟も力の限りに教会生活を送られました。兄弟がこの教会に来られたときのことを思い出します。私は兄弟に、いまこの教会に来るということは、教会建設の重荷を負っていただくことにもなるのですと申し上げました。兄弟は「その重荷を負うのは私たちの特権です」と答えられたのです。このように、その時々でベストを尽くされた方でした。これはみな第一コリント9章に掲げましたことのためでした。
③ 結果について
第一ヨハネ3:2
2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
私たちは往々にして、目に見える数などの成果を結果であると思いがちです。しかし、良い結果というのは、あのホーソンの『大いなる岩の顔』に出てくるような顔のことでしょう。
ある峡谷の村に、いつか必ず岩の顔に似た人物があらわれるという伝説があり、少年アーネストは、師と仰ぐべき人が現れるのを、毎日岩の顔を見ながら待っています。大金持ち、戦場を潜ってきた将軍、大統領候補、詩人が現れますが、どの人も違っていました。アーネストはしだいに人々の魂に響くお話をする人になっていましたが、老年になったアーネストの話を聞いていた詩人が、アーネストを指して、この人こそ岩の顔の人物だと言ったという短篇小説です。
どのように生きることが、ほんとうに価値のある人生を送ることなのでしょうか。
キリストに似た者となるように生きること、これに尽きるのではないでしょうか。S兄弟が仰ぎ従いつづけてきたお方はどなただったでしょう。その方に似ないはずはないのです。
どうかイエスさまを見上げて、動機、実践、結果において、よい戦いを戦い抜きましょう。そして最後には、こう言いたいものです。
「今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです」
※野球の例話などございましたが、割愛させていただきました。文責:中ぶんな
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