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きょうのことば 十字架と私たち』ー棕櫚の聖日ー

 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる説教の要旨をおつたえしています。きょうはイースターです。イースターおめでとうございます。Img090_2

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 説教は一週間遅れで掲載しておりますので、2013年3 月24 日の國光勝美牧師の礼拝説教をお伝えします。イースター説教は来週掲載いたします。

【聖書引証】ルカ伝233249

32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。
38 「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言った。
40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
44 そのときすでに十二時ごろになっていたが、全地が暗くなって、三時まで続いた。
45 太陽が光を失っていた。また、神殿の幕は真っ二つに裂けた。
46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
47 この出来事を見た百人隊長は、神をほめたたえ、「ほんとうに、この人は正しい方であった」と言った。
48 また、この光景を見に集まっていた群衆もみな、こういういろいろの出来事を見たので、胸をたたいて悲しみながら帰った。
49 しかし、イエスの知人たちと、ガリラヤからイエスについて来ていた女たちとはみな、遠く離れて立ち、これらのことを見ていた。
 

【説教】 いよいよ受難週に入りました。きょうはパームサンデー(棕櫚の聖日)、そして次の日曜日(31日)がイースターでイエス様の復活を記念する日です。パームサンデーからイースターまでの1週間を受難週といいます。イエス様の十字架に格別に心を向けるときを持っております。

 きょうは、「福音の手」をお話したいと思います。去年の3月にも同じ話をしておりますが、大切なことなので、また取り上げてみます。5本の指で、福音というものを実に解りやすく説明できます。

 親指:神は愛です

 人差指:私は罪びとです

 中指:イエス・キリストの十字架

 薬指:信仰

 小指:御言(みことば)の約束

親指には、物をつかむとき、一本の指で4本の指を受け留めるほどの力があります。すべてを包み込む神様の愛をあらわすことができます。これはとても大切なポイントです。

人差指、これをよく人に向けては非難や中傷をしがちですが、自分に向けてみましょう。自分が罪びとであるとわかるはずです。パウロもこれを自覚しておりました。罪びとというと、法律を犯すことや不道徳などを思うでしょう。しかしここでは、第一義的に、神様が私たちをお造りになった本来の目的から外れて、自己中心的に生きていることを罪といいます。このような歩み方をしていると、ついには一般の社会でいわれているような罪の状態になるわけです。

ここにある私の時計は、私のもとにあって、私の用に適うからこそ存在の意味があります。私という本来の所有者から失われてしまったなら、いかに正確な時間を刻んでいようとも、私にとっては何の意味も持たない。神様と人間の関係もこれと似ています。神様は人間を、御自分の最高傑作として造られました。にもかかわらず、神様を愛し、喜び、お役に立つ、これを神の栄光をあらわすと申しますが、そういう本来あるべき姿から外れてしまっているならば、人間が世の中的にどんなに素晴らしいとしても、これは、失われた状態なのです。失われた状態にあるから、犯罪や不道徳に傾いていってしまう。切り花も見事な花を咲かせはしますが、命は断たれていると見ることができます。人間も同じです。命の源である神様から離れていると、永遠の滅びに行く運命となる。これを罪びとの状態という。聖書でいう罪びとは、世の中でいう罪びととは、概念が大きく異なっています 

昔、私の郷里であったことですが。ある精米所で、まさかそこに子どもが隠れているとは知らずに機械のスイッチを入れたところ、子どもがベルトに巻き込まれて腕を切断してしまうという痛ましい事故がありました。私の家は床屋です。事故に遭った方がやってきては、数十年ものあいだこう言っていたそうです。「俺は絶対許せない。あのおじさんは俺は悪くないといってついに謝らなかった。許せない。だけどこうやってずっと人を恨み続けている自分も嫌で仕方がないんだ」と。私が牧師をしているので聞くことがありました。

罪の苦しみとはこういうものです。人を許せない思いで日々を生きるのは辛いことです。この罪の苦しみから救ってくださるのがイエス・キリストの十字架です。自分ではどうすることもできない心の罪。さまざまにあるでしょう。それらぜんぶを含めて、キリストは十字架についてくださいました。

真ん中にいちばん高くある中指が、この十字架です。神の愛がわかり、自分が罪びとだとわかったなら、その次には信じること、信仰です。薬指です。信じさせてくださいと言わざるを得ないほどのものが福音なのです。薬指を上にして他の指を握ろうとしても難しいでしょう。神の愛と、罪びとの自分と、罪を赦してくださる十字架、あとは、信じればいい。信仰です。では小指は何か。これは神の約束の御言(みことば)です。御言は水漏れを防ぐパッキンのようなもの。信仰や救いが漏れ出さないように、ぴっちりと隙間を埋めてくれます。世の中のパッキンは劣化しますが、聖書の御言のパッキンは、劣化しません。これで福音は揺るぎません。

私たちのために十字架に架かってくださったイエス様をおわかりいただけたでしょうか。

罪のないイエス様が、私たちの罪をぜんぶ背負って十字架の上で罰を受けてくださったのです。それで私たちは罪赦され、救われる。第二コリント521に「神は、罪を知らない方(イエス・キリスト)を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」とある通りです。

 十字架は、よく美しく素晴らしく尊いとイメージされます。しかし、十字架は、実は、人間の最も醜く汚らわしく、おぞましいもののすべてが結集されたものであり、この罪に含まれない罪はないところのものです。これを神様は裁かれた。そのとき、まさに地は暗くなった。光を失った。イエスさまは感心なお方、すばらしいお方といった見方ははるかに超えて、私たちの身代わりに、神様から忌嫌われ醜い裁きの対象でしかないものとなったイエスさま。「こんなものは!」と、きよい神様から遠ざけられ、投げ捨てられ、拒絶された者になってくださったイエスさまの十字架です。この十字架に赦されない罪があるでしょうか。これが福音の中心です。これがわかる人には、神がひとり子を給うほどにこの世を愛してくださったという神の愛がわかります。主よ信じます。自ずとそう出てくるはずです。

 もう一つ、私たちの救うべき十字架というものがあります。これが何を意味するか。私たちは罪を赦され救われても、心の中には依然として、神にそむきがちな性質が残っています。このままでは神に救われた者として相応しくない。赦されていることがわかればわかるほど、きよめられる必要を覚えるようになります。きよめられた状態が、ガラテヤ220にあります。

20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。 

 これは、神にそむきがちな罪の性質、これが自分ではどうすることもできないことを正直に神様の前に告白し、もう自分の罪はイエス様と一緒に十字架につけられてしまったと信じたことによる結果です。最早私が生きているのではない、キリストが私の命になってくださる。キリストが私の内に生きておられる。私が今生きているのは、このお方を愛して信じる信仰によるのだということです。ガラテヤ202020 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。とある通りです。

 そして私たちの負うべき十字架があります。クレネ人シモンは何も知らずに主の十字架を刑場まで背負わされましたが、しかし背負い続けたときに、彼の生涯には転機が訪れました。イエス様を信じるとき、思わずも神様からあなたにだけ背負わされる犠牲がある。自分が選んだわけではありません。しかし、神様は、背負ってごらん、私と一緒に背負ってごらんと仰います。十字架を背負わなければ栄光はないのです。キリスト教に批判的なある方々は、こんなに生きながらえていないで今すぐにでも天国に行けばいいのだと言います。しかし私たちには、尚生きる使命がある。私にしか負えない十字架、重荷を感謝して、イエスさまを見上げながら背負い行くとき、それが栄光にかわるのです。十字架を負うという特権がなければ栄光はない。キリストと共に苦しみを忍んで十字架を背負って初めて栄光がある。だからこそ、イエスさまも、己が前に置かれた喜びの為に辱めをものともせずに十字架を忍んで行かれたのではないでしょうか。

 十字架があるからこそ、復活の栄光があります。どうか私たちも、この十字架をキリストとともに負う人生を歩ませていただきましょう。

「わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ1129 

※先週の復習は割愛しました。文責:中ぶんな

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