主よ、人の望みの喜びよ
この寒さとウィルス猛威を侮ってはならないと、巣穴にこもった日数が何日間であるか、ブログ上の1月のカレンダーを確かめないうちに、はや2月。耳元にはバッハの106番、管の響きが明るい。
神にあるときには、いつ心停止となっても魂に問題は生じない。とはいうものの、一月は思い切って休養に徹した。
そしていまは、カンタータ第147番6コラールが、明るい日差しのもとに輝き咲く花々のさざめきのように流れている。「主よ、人の望みの喜びよ」として有名なところだ。
イエスをもつ私は幸せ
おお、何と固く私は、イエスを抱きしめることだろう。
イエスはこの心を活かしてくださる、
病の時も、悲しい時も。
私にはイエスがある、イエスは私を愛し、
私に身を委ねてくださる。
ああ、だからイエスを離しません。
たとえこの心が疲れ果てても。
誰でもが「主よ、人の望みの喜びよ」を知っている。しかし、このコラールの歌詞に、こう歌われていることは、あまり知られていないのではないか。
「主よ、人の望みの喜びよ」はまた、カンタータ第147番10コラールでは、次のように歌われている。
イエスは変わらざる私の喜び、
心の慰めにして、命の糧。
イエスはすべての悩みから守ってくださる。
イエスは私の命の力、
目の喜びにして太陽。
魂の宝にして楽しみ。
だからイエスを離しません。
この心と視界から。
こうした神への愛は、恐らく仏教土壌のこの国では理解されにくいものかと思われる。しかし誰でもが知っている、知らないひとがいないほど有名な「主よ、人の望みの喜びよ」は、このように、まぎれもなく神への愛と信頼とに貫かれた歌詞が付されているのだ。
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