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『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』(平野真敏著 集英社新書)

 私が弦楽器の質に興味をもったのは、やはり盛岡の弦楽四重奏団のさきがけである太田カルテットのメンバーである赤澤長五郎が、ヴァイオリンには一方ならぬ拘りを持ち、身代さえもかけて良い楽器を手に入れようとしたことを知ってからだ。
 手元にあるプログラムだけでいえば、彼らは、大正、昭和のはじめ、上京しては主な演奏会には触れるようにしていた。彼らの音楽熱が沸騰したのは、大正10年2月に帝国劇場にきた世界的なヴァイオリニスト、ミッシャ・エルマンの演奏会を聴いた直後である。

 ミッシャ・エルマンの演奏が素晴らしかったことはいうまでもないが、私は、ミッシャ・エルマンが果たしてどんな楽器を携えてきたかが気になった。調べると、ストラディバリウスには間違いない。ではどのストラディバリウスだったのか。彼が婚約者から贈られたマダム・レカミエであるならおもしろい。それからは、マダム・レカミエをネット上や著書のうえで探し求めたが、来日の時のヴァイオリンを特定するまでには至らなかった。この調べは、当然、私には荷が重すぎ
のである。それでも一挺の楽器を追い求める楽しさは満喫できたように思う。

 さて、先ごろ、ある書店で用足しを終え帰ろうとしたところ、新刊コーナーにふと目が留まった。そしてそこにあったのが、楽器との出会いとそのルーツを辿った一冊、『幻の楽器 ヴィオラ・アルタ物語』(平野真敏著 集英社新書)である。一つの楽器を徹底的に追い、それを一冊にまとめる、そんなことができたならという私の具現不可能な夢を実際にやり遂げていた音楽家がいたのだ。ヴィオラにはそれほど興味をもたない私だったが、この楽器をどのように解き明かしていくのか、その成り行きには大いに興味を引き出された。


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 著者が初めてこの楽器の音色を聴いた時、「良質な音に包まれて、私の心はすっかり酔っぱらってしまったようだった」と表現している。著者との出会いがなければ、この楽器はいつまでも工房のショーケースの片隅に眠っていただろうともいう。ヴィオラにしては大きすぎ、チェロにしては小さすぎるこの楽器。専用ケースもない。後にこの専用ケースはドイツで作られることになる。先ずは、楽器の特徴を確認し、最後に、これが最も重要な情報が秘められている f 字孔を覗く。そして判明したのが、“Viola alta”。この楽器の名である。そして平凡社の音楽事典から、これが1872~75年、ドイツのH・リッターが考案したことを突き止める。この楽器はワグナ-に認められた。
 
 著者は、「この楽器がドイツのどこで生まれ、どのような生涯を送り、どうしてあのショーケースの片隅になどやってきたのか、それを解き明か」す旅を始めるのだ。
 おもしろい事に、ヴィオラ・アルタが脚光を浴びていた時代は、滝廉太郎がドイツ留学した日本の西洋音楽の黎明期と重なっているようだ。

 著者はついに、イギリスで出版された事典でリッター教授を知る。彼はドイツを代表するヴィオラ奏者だった。ヴィオラ・アルタは1876年に発表され、ワーグナーの興味を引き、ワーグナーは、主催するバイロイト歌劇場オーケストラの首席奏者にリッターを招く。5人のヴィオラ・アルタの弟子とともに演奏している。リッターは、1879年、ビュルツブルク王立音楽院のヴィオラ科と音楽史の教授となる。
 
 ヴィオラ・アルタのために書かれた曲は存在しても、そのほとんどは、ヴィオラ・アルタが指定されていることを知らせないままヴィオラの譜面として販売されているらしい。著者はまた、リスト作曲の『忘れられたロマンス』は、一般にヴィオラのために書かれたとされているが、実は、ヴィオラ・アルタのために書かれたものと考えるのが自然であるとしている。

 すばらしい音色を持ちながらも、ヴィオラ・アルタが完璧なまでにすがたを消し、痕跡までみあたらなくなったのは、やはりワーグナーに愛され重用されたことから生じたというのはあながち間違いではなく、ワーグナーによって「ドイツの正統を担う楽器」とされたことが思わぬ不遇な運命につながったのだという。

 最後には、著者は、「私は、ヴィオラ奏者、から、ヴィオラ・アルタ奏者になった。そこにあるのは、この楽器の美しく天に向かう音楽性の将来に対する確信だけだ」と語る。

 これから先この楽器が、どれだけ広く認識されていくものか私にはわからない。或いは将来ワーグナーが演奏されるときに、いつのまにか5挺のヴィオラ・アルタがどこかの工房で作られており、音色のパレットを豊かにしてくれる、そのような時が来ないとも限らない。

ヴィオラ・アルタ演奏『浜辺の歌』 
クリックして幻の音の復活をお楽しみください)

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