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きょうのことば 『ベテルの大路』

日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の聖書からのメッセージを一週間遅れで掲載しております。きょうは2013年2 月3日の 説教です。

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【聖書引証】

10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたらわに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。


【説教】

 イザヤ358「かしこに大路あり」

ことし与えられておりますこの御聖言(みことば)をさまざまな角度から語らせていただいておりますが、これが私自身にも大きな励ましとなっております。

一つは紅海に設けられた路です。

神さまの御意(みこころ)に従い、御意を成就しようとして歩んでいるはずの私たちの前に、思いがけない困難が押し迫ってくることがある。進むことも退くこともできない。これは、実は、神さまが私たちをそのような状況に置かれるのです。後になって、それがわかってきます。

モーセは言いました。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい」(出エジプト記1413)と。これはモーセが民に語っているのですが、それと同時に、モーセは、このように神の前に信仰告白し、自分自身を励ましているとも思われます。まさにそのとき、神さまは、驚くべき御業をもって大路を備えてくださる。

これがどれほどに大きな意味を持つ出来事であったことか。旧約聖書の詩篇の中にも、「13 葦の海を二つに分けられた方に。その恵みはとこしえまで」(詩篇136篇)と後々までも誉めたたえられています。決して忘れてはならないことです。こういった経験をしますと、それがまた力になって参ります。このような経験をした方は、少なからずいらっしゃいます。

私も、教会建設に乗り出した折に、二つの物件の間で、主の路はどちらかと悩み祈り、そして兎に角行ってみようと交渉の窓口を訪れました。まさか、その窓口に、この家の真向かいの方がいることは全く知りませんでした。そして、その方が、「もし私があなたの教会の会員だったら、あなたが今考えている所よりも、むしろ、この場所を勧めますよ」とアドバイスくださったのです。また、丸の内教会が渋谷区広尾に移転するに際し、蔦田真理先生が、銀行の担当者にアポイントメントを取り、この路が開かれるかどうか、神さまの前に威儀を正して、銀行に出かけました。ところが1時間以上待っても担当者が対応に出てきません。見かねた支店長が出てきて用向きを訊き、対応してくれました。しかし、そのお陰で寧ろ交渉がうまくいった。先生は、「紅海に路が開かれるとは、こういうことなのだ」と帰って来られたのです。

どうしようかというぎりぎりのところで、神さまは、紅海に路を開いてくださる。このことを忘れてはなりません。

この教会にも業をなしてくださった神さまは、決して過去のお方ではない。この2013年、神さまが、私たち一人一人をどのように導いてくださるのかはわかりません。しかし、私の心ではなく、神の心に従って歩んでいくならば、大きな困難にぶつかったとしても、これを、「神さま、これはあなたの御栄光が現れるチャンスです」と捉え直して御前に出ることができる。「かしこに大路あり」とは、まさしくこのような事だろうと思います。

またもう一つ、語らせていただいたこの路というのは、マタイ14章にあるイエスさまが水の上に設けられた路のことです。信仰をもって歩みだし、しかし、沈みかけたペテロを、イエスさまはしっかりと引きあげました。信仰を持ってイエスさまに向かって歩みだすその一歩こそ、主が備えてくださる大路です。恐れてはいけない、疑ってはいけない、しかしそれでも沈みかけるときに、イエスさまは決して叱り飛ばしたりはなさらない。沈みゆくのを放置してはおかない。信仰を持って踏み出した者には、むしろ手を差し伸べて、私たちに大切な学課を体験させてくださる。それこそ私たちの歩むべき信仰の路ではないでしょうか。

そしてもう一つ、「かしこに大路あり」の大路は、創世記28章にあります。ヤコブは石を枕にして眠っていたとき、天と地を結ぶ梯子の夢を見ました。そして傍にイエスさまが居られることに気付きます。そこをベテルと呼びました。「かしこに大路あり」とは、まさにこの天に通じるところの祈りの路ですので、これを思い巡らしながら祈祷会を持ちますが、ほんとうにベテルの神と呼びたいと思うほど、天と地を結ぶベテルの路を大路として、ことし、位置づけさせていただきたいと願うことです。

さて、ベテルとは何処を指していうのか。エルサレムから北に19キロの地点にあります。ヤコブは兄エソウに憎まれ、ハランにいる母リベカの兄ラバンのところに身を避けます。このハランで家庭を持ち、富裕になりますが、ラバンにも恨まれ、こんどはペヌエルに戻って、神さまの取り扱いを受けることになります。

ヤコブは兄エサウと双子の兄弟です。霊的に鈍感だったエサウは、ヤコブに長子の特権をまんまと奪われたことで、折りあらばそれを取り戻そうという魂胆でした。ヤコブは年老いた父のイサクをもだまして、長子の特権を奪いました。何れ、エサウは人がいいばかりで直観力がない。一方、ヤコブは目ざとく狡猾でした。結局は、母のリベカもヤコブを贔屓し、ヤコブに加担してお父さんをだましました。兄と父を欺いたヤコブ。エサウは、父イサクが死んだらヤコブを殺すつもりでした。殺意を知った母リベカが、ヤコブを逃れさせたのです。

ヤコブがどんな思いで遠いハランに旅をしなければならなかったかは、想像に難くありません。その中で、天からの地に架けられた梯子に天使が昇り降りする夢を見たのです。

ヤコブの宗教経験には二つあり、これは、ベテルの経験、それからもう一つ、ペヌエルの経験があります。ペヌエルの方は、これはラバンからもいつしか不信感を持たれ身の危険を感じ、兄エサウのところに舞い戻ろうとしますが、その途中の出来事です。

ベテルの経験では、ヤコブは恐らく、ほんとうの意味で神さまと向き合う機会を持った。先祖代々がクリスチャンである家に生まれた場合、それは、親が信じている宗教であり、その影響下に暮らすことが当たり前になっているだけに、寧ろ、自分が個人的に神さまに真剣に向き合うことには、大変意味がある。それまでは、祖父アブラハムの神、父イサクの神が私の神であるという認識なのですが、ヤコブのように、自分が大きな不始末、問題を起こしてしまい、挙句に逃走しなければならない。これからどんな問題が起きるかわからないのです。もう神に頼り祈るしかない。悔い改める絶好チャンスだったでしょう。

ほんとうに神さまと向き合う機会、これが、私たちには必要です。どうぞ、ベテルの経験をしっかりと神経験する、これは天に通じる門です。彼はそこで気がついて、どうか神さまこれから私の道筋にともにいてください。そしてどうかこのところに連れ戻してください。どうぞ、このベテルの経験が、私たちのものとなり、また、私たちの家庭に真実なる神さまのお取り扱いがございますように、そのことに心を留めさせていただきたいと思います。

※文責:中ぶんな

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