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きょうのことば 『三本の大路』

日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の聖書からのメッセージを一週間遅れで掲載しております。きょうは20131月27日の 説教です。この日は聖餐式と教会総会がありましたので、説教はごく限られた時間となりました。北国の牧師先生方はみなこの大雪の除雪と戦いながら伝道をし、教会を牧し、多くの働きに携わっておられます。

【聖書引証】創世記28:10~19
10 ヤコブはベエル・シェバを立って、ハランへと旅立った。
11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。
12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたらわに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
14 あなたの子孫は地のちりのように多くなり、あなたは、西、東、北、南へと広がり、地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった」と言った。
17 彼は恐れおののいて、また言った。「この場所は、なんとおそれおおいことだろう。こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ。」
18 翌朝早く、ヤコブは自分が枕にした石を取り、それを石の柱として立て、その上に油をそそいだ。
19 そして、その場所の名をベテルと呼んだ。しかし、その町の名は、以前はルズであった。

【説教】イザヤ358「かしこに大路あり」

これをさまざまな角度から学び、多くの恵をいただいてきましたが、今、総会を前にして、三つにまとまったように思います。

その一つは、紅海に設けられた道で、出エジプト14章に出ております。私たちは、時として、進退極まる現実に直面させられます。しかもそれが、決して自分勝手に歩いた結果ではなく、むしろ神さまに祈り、導きを求めながら進んでいる途上で遭う場合がある。しかしそのときこそは、神さまがそこに乗り出し、干渉の御手を現わして下さる。神さまのお力を知るチャンスである。聖書はこのことを、私たちに教えています。

13 それでモーセは民に言った。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。
14 があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

私たちは、これが過去に起きた大きな出来事であることを知っています。しかし、これは今日にも起こることなのです。私たちのきょうの信仰生活に、同じ神さま、同じ主が大路を開いてくださる。これが主の戦いであるなら、大路は必ず開かれる。このような神さまへの確信をもって、大路が開かれることを期待したい。「かしこに大路あり」とは、まさにこのことだろうと思います。

また一つの「かしこに大路あり」というときに、ガリラヤ湖の上を歩かれるイエスさま、そして、そのイエスさまのすがたを見たペテロたちがいます。この場面はマタイ14章にあります。

28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。

いにしえ、紅海に道を設けてくださったお方は、このペテロの歩みの途上にも大路を開いて下さっています。ペテロは、嵐を見て沈みかける。しかし、イエスさまは、そのペテロの信仰の歩みを喜んで引き揚げてくださった。ペテロのように大胆なことは誰もしなかった。しかし、ペテロは信仰を進めていった。かしこに大路あり。失敗をし沈みかける、そのすがたにこそ、私たちには、自分自身の信仰生活を当てはめやすい。そうだ、何もしないより、一歩踏み出すなら、主は決して叱ったりはなさらない。冷たく放ってはおかれない。よくやったと言わんばかりに、しかし、信仰の薄い人だな、どうして疑ったのだという学課を私たちに教えてくださる。そんな道も、神さまは、私たちに開いてくださる。

「かしこに大路あり」。この御聖言(みことば)が、今年の私たちへの、主からの大きな励まし、導きであります。

そのときに、S兄が、御自分の書を、「この大路というのは、ベテルでのヤコブの経験、これをイメージしているのです」と語られました。

Img060 この路という字を真ん中から二つに分けて考えるならば、左側は上に昇る足、そして右側は下に降る足。上に昇る足が捧げ持つ器には、私たちが神さまに捧げる感謝、そして、ねぎごとなどが入っている。神さまに向かうところのものを携えて上に。そして、降る器には、神さまからいただいた恵の数々とお祈りの答えが入っている。それらのものを与えられて降ってくる。これがS兄が霊感を授かり認めた書の意味です。

 この創世記28章の1213節には、「見よ」ということばが、非常に強調されております。

12 そのうちに、彼は夢を見た。見よ。一つのはしごが地に向けて立てられている。その頂は天に届き、見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13 そして、見よ。主が彼のかたらわに立っておられた。そして仰せられた。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。そしてここに梯子が地に向けて立てられている。

 まさに天と地を結ぶ大路がそこにあったにも拘わらず、そこに、彼の傍らに主イエスさまが立っておられたことにもヤコブは気付かなかった。ヤコブは眠りから覚めてやっと気付いている。

私たちの信仰生活を今年歩みますとき、すでにこの道がある、主イエスさまが傍らにおられる。そして12節を見ると、神の御使いたちが、梯子を上り下りしている。それは私たちの祈りを携えて天に昇り下りしているに違いない。

そうです。今年、この天に通じる路、イザヤ358にありますこの路は、これは小道ではないのです。大路なのです。これを開拓しましょう。大路を開拓するような在り方、姿勢を、神さまは期待しておられます。だからこそ「かしこに大路あり」と仰るのです。祈ってご覧、主は共におられるから。御使いたちはすでに上り下りしている。あなたはそれに気がついていなかっただけ。さあ、見よ、しっかりと。大路があるよ。そういう祈りの路とまとめることができるのではないか、このように私は導かれております。どうぞ、個の年、紅海を二つに分けたもう神さまの導き、御干渉の路が、私たちの前に開けますように。あなたのもとに行かせてください。来たれ。このような信仰の一場面を見る路を歩ませていただきたい。「かしこに大路あり」、これに励まされて進み行きたく願うことであります。

※筆者の聞き間違い、理解の間違いがある場合がございますので、お気づきの点は御指摘ください。文責:中ぶんな

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