きょうのことば 『ヤコブの神』ーその2
※前ページを先にお読みください。
人間の本質、実態というのは、ここ(前ページ掲載のリビングバイブルの抜粋)に書かれてある通りです。エサウとヤコブは双子でしたが、エサウは霊的なことに鈍感であり、世俗的でした。長子の権利を食べ物と取り替えてしまいます。一方、ヤコブは、狡猾で執着心が強い。エサウになりすまして父から長子の特権を奪ってしまいます。このようなヤコブとエサウの実態を先ず知っていただきたい。
けれどもヤコブは、このような人間のままで終わりはしませんでした。あのベテルで、個人的に神と出会い救いの経験をしたことによって変えられるのです。そしてまた、ペヌエルの経験、神様にきよめられるという経験をし、また変えられる。変えられたヤコブを見て、「ヤコブの神は幸いなり」といわれるような人物となりました。
ヤコブは、狡猾さから憎しみを買い、殺されそうになり、生まれ育った家から逃れて、神により頼むほかはないときに、神に出会いました。
創世記28:12見よ、神の使いたちが、そのはしごを上り下りしている。
13見よ。主が彼のかたらわに立っておられた。
15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。
イサクはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した。この夫婦の好み、性格上の問題もあったでしょう。しかし忘れてならないのは、ヤコブが石の枕での経験をした背後には、必ずや、イサクとリベカの祈りがあったはずなのです。祈らないではいられない。祈らない親がどこにいるでしょうか。ヤコブが出ていったその夜、イサクとリベカは、t息子の御守りと供給と祝福とを、真剣に祈ったでしょう。イサクとリベカにどんな欠点があるかは、ある意味問題ではない。ともに祈り続けていくときに、息子は、ヤコブは、神ご自身の個人的な取り扱いを受けることになるのです。人は追い詰められたときにこそ、神様の啓示を知ることになります。
見よ。見よ。見よ。
ベテルの、ペヌエルのそのときに、その背後には必ず祈りがある。そうです。私たちも、祈られていたのです。このことを覚えましょう。
文責:中ぶんな
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