きょうのことばー『道を設けたもう主』
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の聖書からのメッセージを一週間遅れで掲載しております。きょうは2013年1月20 日の 説教です。
【聖書引証】イザヤ35:1~10
ことしはイザヤ35:8「ここに大路があり」に導かれておりますが、真っ先に心に留まりましたのは、出エジプトにある、神さまが紅海に開いてくださった大路です。これは神さまならではの大きな恵の業です。そこを信仰を持った者たちが、歌いつつ進み行く。これは、クリスチャン信仰生涯の一つのひな形と見ることができます。
先週は、大路、それは信仰の道であると申しました。イザヤ30:21の「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く」をベースとし、神さまの示す道に従っていくことがどんなに幸いであることか。そうありたく願うことです。こちらの道にすべきか、そちらの道にすべきかの選択を迫られるときには、信仰による選択をしたアブラムと、その対極にある選択をしたロトの例があります。アブラム的であるかロト的であるか、これは絶えず心にチェックしていかねばなりません。そのときこそ、「これが道だ。これに歩め」という神さまの声を聞き分けることが大切です。ラジオを例に挙げましたが、感度をあげることと波長を合わせること、そして何よりも私たちが受信機をもち、電源を入れてあることが肝心です。受信機を持ち、電源が入っている状態とは、これは、私たちの信仰生涯のいちばん基礎になっていることで、神を信じ生まれ変わって神の命を持っている状態のことです。だからこそ、神さまのお声を聴く能力を持つわけで、あとは、それをどのような形で感度をあげていくか、波長を合わせるかになるわけです。語り始めてくださるお方は、生涯、語り続けてくださるお方です。
ヨハネ10:27「わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます」
このように、聞き続ける生涯を辿らせていただきましょう。
但し、神の声を聞くというときに、妙に神秘的になってはいけません。そこには環境がどうであるかの常識ある判断もなければなりません。そして且つ、「これが道だ。これに歩め」という神さまの声への内的な頷きがあることです。神と共に歩み続ける信仰生活では、このような内的な頷きが強められてきます。これは大切な要素です。
環境的な要素だけですべてを決めるなら、それは、世の中の人たちとそう変わらないかもしれません。しかしクリスチャンの場合には、それに加えて、内的な頷きがあるかどうか、それを深めていくことが大切です。このとき、祈りが、この内的な頷きを強めていく要素になります。そして、さらには、みことばが与えられているということ。いちばん中心に神さまのおことばがあること。内的な納得と同じように、こころの中心にみことばがあるとき、この選択で良かったのだという喜びがあります。この喜びが、神の声を聞き分ける要素であろうと、このように思います。ここまでは前回の復習です。
この年、神様が備えてくださる大路というものを思いますときに、出エジプト記の14章13、14節を引きます。
「13 それでモーセは民に言った。『恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行われる主の救いを見なさい。あなたがたは、きょう見るエジプト人をもはや永久に見ることはできない。14 主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。』」
この13節の「恐れてはいけない。しっかり立って」、が鮮明に与えられています。これは、私の心の中に、語りかけのきっかけとなったおことばでした。モーセの立場に自分を置いて考えるのならば、「モーセは民に言った」というのですから、モーセが人々に語りかけていることばなのです。「恐れてはいけない」と真っ先に、ここに出てくるということは、逆なりに、恐れていたからこそ自分を鼓舞し励ますために、「恐れてはいけない」と出てきたのでしょう。前には海が広がり、後ろからは自分たちを殺そうとする軍隊が押し寄せてくるこのとき、恐れない人間などひとりもいるはずがない。たとえ信仰の勇者であろうともです。しかし、ここで恐れることと臆病であることは違うことを知りましょう。恐れることはあっても、臆病であってはいけません。
聖書の中で臆病とはどのようなものであるかを見ましょう。
黙示録の21:8に「8 しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行う者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である」とあります。
ここでは、臆病は、誰が見ても明らかに罪である不信仰や人殺しと同列に置かれています。これは新鮮な発見でした。臆病は決してよいこととは思いませんが、それほど悪いことであるとも思えない。そう思っておりましたが、聖書では、臆病は、非常に忌嫌うべき恥ずべきことであると教えています。
もうひとつ、テモテの第二の1:7には、「7 神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」ともあります。
ここに「おくびょうの霊ではなく」とあります。恐れることは誰にでもあり得る。むしろあって当然です。モーセもそうでした。けれども、そこで彼は臆病ではなかった。つまり、恐れはするが、それを一歩上昇させて、それをきっかけとして、ひとつ上に飛躍する。つまり、恐れるという段階から、「だからこそ神さま、今はあなたが働いてくださるときです」というように、ギアを信仰に入れて進んでいく。これが出エジプト記14章のあの紅海の場面でした。そして神さまは、そこに大路を開いてくださった。誰でも恐れる。でもそこに、その恐れが臆病になるのではなくして、信仰というものによって高められて、新しい道ができる。
マタイ14章もそうです。
22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群集を帰してしまわれた。
23 群集を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。
24 しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた
25 すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。
26 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。
27 しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ、恐れることはない」と言われた。
28 すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
30 ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ、助けてください」と言った。
31 そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。32 そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ
33 そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。
イエスさまはしばしば、敢えて、私たちを難しい困難に直面させます。そして私たちがその恐れにどのように対処すべきかを学ばせ、こんどは飛躍するようになさる。
大あらしに直面した弟子たちが、湖を歩いてこられるイエスさまに驚き、動転してしまう。そのとき、イエスさまは、「しかりしなさい、私だ、恐れることはない」と仰った。ペテロが、「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」というと、29 イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。
イエスさまは、ここで、ペテロのために水の上に大路を開いてくださったのです。これは紅海に開かれた「大路」と共通している。神さまが与えてくださったその大路と理解することができます。弟子たちは、ペテロは恐れました。しかし、恐れから一歩踏み出すことによって信仰というところにギアチェンジし、高められて、そこに新しい道が出来たのです。イエスさまに水の上を歩いていく道ができたのです。イエスさまは、「来なさい」と仰いました。しかし御存じのように、嵐を見てしまって、ペテロは沈みかけた。しかしどうでしょう、イエスさまは、そのペテロをしっかりと受けとめて助け上げてくださいました。そして「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか」と言われた。
私はこれを、きつい叱責であるとは思いません。決して「駄目だなあ」というのではなく、「よくやった、でもね、」としっかりと引き揚げてくださった。
かしこに大路ありというときに、神様は、このペテロに水の上を歩いてきなさいと命じられるような道を私たちに、備えていてくださる。そしてそれを私たちに歩むことを願っておられる。歩み続けることを願っておられる。よし、失敗することがあったとしても、イエスさまは、湖の上を歩き近づいてくださるお方は、ペテロをしっかりと抱き上げて、引き揚げてくださるお方なのです。
「かしこに大路あり」。私たちはことし、このような神さまが設けられる信仰の道をともに歩み行くことができればと、このように願っていることであります。
※若干、編集してございます。文責:中ぶんな
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