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きょうのことばー『聖書に見る〝道』

 日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)の講壇で語られる聖書からのメッセージを、一週間のお時間を頂戴して掲載しております。201316日の國光勝美牧師の説教です。

Artist:Francken, Frans II the Younger (1581-1642)
Title:The Israelites on the Bank of the Red Sea, 1621 (oil on canvas) 
Location:Hamburger Kunsthalle, Hamburg, Germany
Age:1621
Medium:oil on canvas

【聖書引証】イザヤ35:1~10

1 荒野と砂漠は楽しみ、荒れ地は喜び、サルランのように花を咲かせる。
2 盛んに花を咲かせ、喜び喜んで歌う。レバノンの栄光と、カルメルやシャロンの威光をこれに賜るので、彼らは主の栄光、私たちの神の威光を見る。
3 弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ。
4 心騒ぐ者たちに言え。「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を。復讐が、神の報いが来る。神は来て、あなたがたを救われる。」
5 そのとき、目の見えない者の目は開き、耳の聞こえない者の耳はあく。
6 そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ。
7 焼けた地は沢となり潤いのない地は水のわく所となり、ジャッカルの伏したねぐらは、葦やパピルスの茂みとなる。
8 そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。汚れた者はそこを通れない。これは、贖われた者たちのもの。旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
9 そこには獅子もおらず、猛獣もそこに上って来ず、そこで出会うこともない。ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
10
に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンに入り、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。

【説教】

「かしこに大路あり」を、この教会に与えられております今年の御聖言として心に留めさせていただきました。

「大路」というのは、神によって、すべてのひとに備えられている道です。しかし、これには厳粛なパラドックスがあります。「大路」に入る資格として、人種や置かれている立場などによる制約は一切ありません。しかし、悔い改めなければ入ることができない狭い道であり、狭い門でもあります。門戸は広いけれども、贖われた者だけが通ることができる道なのです。

 このことを踏まえて、聖書に見る道を思い巡らしたとき、先ず、神が紅海に通した道が思い出されました。皆さんは、映画『十戒』をご覧になったでしょう。イスラエルの人々が、パロの軍隊に追い詰められたときに、神は紅海を分けて道を通してくださいました。この年、神さまが私たちに示してくださる道、大路は何だろうと思い巡らしていたときに、この場面が浮かびました。

イスラエルの民がエジプトの奴隷となり、苦役に喘いでいたとき、神は指導者モーセを立て、人々をパロの支配から脱出させ、約束の地カナンへ導こうとされた。ところが、パロの軍隊に追い詰められ、進退極まってしまう。実はそこに大路があった。これは到底人の力でできることではない、神さまのお力のみが設けることのできる大路です。更にいうなら、誰も歩んだことのない道です。そこに一歩踏み込むことが、どれほどに大きな決断だったことか。神さまが開いてくださった道だとわかったからこそ、主を見上げてその道を進んでいくことができたのです。

 この年、私たちの前に、どのような事が待ちうけているでしょうか。私たちが自分の欲や都合のためではなく、もし神さまの御目的のために道を選びとっているなら、たとえ窮地に立たされることがあっても、言い換えるなら、神さまによって窮地に追い込まれることがあったとしても、「14 があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト14)と神は仰る。あなたがたは静まって、この戦いが神の戦いであることを知りなさいと仰っているのです。そして本気で神さまを見上げるときに、そこに大路が開かれます。

 イスラエルを追ってパロの軍隊も紅海に開かれた道に踏み込みましたが、海はもとに戻ってしまい、滅ぼされてしまいました。同じ行動をとっているようでも、神さまに従うものには導きがあり、信仰がなければ滅ぼされてしまう。何が違うのか。主を見上げ、主の使命だと信じ進んでいくとき、神さまは、このような民を、決して滅びゆくままに放置するお方ではない。紅海を分けて大路を開いてくださったお方を見上げて、この年、進んでいきたいと思うことです。

 この信仰の道は、他の人たちには、非常に危うく、狭く、険しい道に思えるでしょう。

母の告別式のことですが、従兄が追憶のことばを述べました。私が牧師になる決心をしたときのことに及び、この従兄の父親、つまり母の兄が、心から心配して、私が牧師になることを黙認するのかと母に厳しく詰問したといいます。傍から見ると心配だったのでしょう。しかし、信仰の道は、歩む者にとっては確かな道なのです。そしてイザヤ3021は、「あなたが右に行くにも左に行くにも、あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言うことばを聞く。」といっています。

私たちは注意深く道を選んで行かねばなりません。

率直な失敗談ですが、東京から松本にいくときに、八王子インターを潜ります。入口がたくさんあるのですが、これまでとは違った入口に入ってしまいました。しかし同じ河口湖方面ではある。心配なのでサービスエリヤで訊くと、やはり間違ってはいない。間違いなく甲府に出ました。

ほとんどのクリスチャンは、明らかに罪である道の選択からは守られます。しかしどちらがベストで、どちらがベターかという選択のときには、往々にして迷うことがある。

「その道は聖なる道と呼ばれる」

神様の御心を最優先すべきだという思いをしっかりと持っているならば、そういう分岐点にさしかかったときに、「これが道なり、これを歩むべし」と、神さまは必ずや過ちのない方向を示してくださる。

先ほどの例で、インターで、いつもとは違った入口に入ったとしても、カーナビは河口湖を指していたので、たぶん極端な間違いはないし、どちらでもそれほど間違いではない、どちらがベストであるかということだったかと思うのですが、それがいちばんクリスチャンにとって問題だろうと思います。明らかな罪の道からは守られるとしても、どうかベターをもって、ベストを崩すということがないように、神さまが後ろべにて語る「これが道だ。これに歩め」を心に留めさせていただきましょう。そのところこそ、天国に通じる道であります。

 

「かしこに大路あり」

私たちは、この大路を歩むことができる。

そして「われは道なり、真理なり、命なり」(ヨハネ14:6)と仰るイエス・キリストというお方を踏み外すことがないように、「おろかなりとも迷い込むことなし」と文語訳聖書にありますが、この天国に向かう大路を、ことし皆さん方と共に歩ませていただきたいと心から願うところであります。

※文責:中ぶんな

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