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齊藤直次さんの旧満州「吉林における終戦体験 その1

 こんど発行される予定の、いわての文芸誌『天気図』に、『槿花の露ー吉林のある音楽活動』と題し、齊藤直次氏の証言を基に多くを書かせていただきましたが、音楽の側面からの取り上げが主でしたので、取材するも、書き込めなかった事項が多くございました。戦争体験は他にも著書、ネット上に多くございますが、その体験はお一人お一人異なる重大な証言ですので、これを独断で無駄にすることは許されることではないと考え、このブログ上に記しおく次第です。以下は齊藤直次氏の証言です。

 親しくしていた梅村さんたちは、昭和21年8月17日、満鉄関係の第2陣、吉林第11遣送団として吉林を離れ南下した。私は独身者全員の留用命令に引っかかり、その約1カ月遅れで吉林を出発した。
 満鉄の第一陣は、陸軍兵舎にいた生田さんや今村さんたちで、第10遣送団に組み入れられ、8月14日に約2000人が吉林駅に集結し乗車した。
 吉林市の遣送が始まって、第一遣送団が出発したのは、7月21日です。開拓団など難民の人たちや、街の人たちが先に帰りました。
 八路軍が吉林を支配していた間は、内地引き揚げの話を聞くことはなかったが、5月下旬、国府軍(国民政府軍)が吉林に入城してから、こんどこそは帰れると大きな希望を持ち、日常の生活にも明るさが出てきた。
 八路共産軍と国民党軍の戦い、いわゆる国共内戦は、八路軍の吉林支配とともに顕著になり、吉林郊外の戦場から傷病兵が間断なく送られてきました。私らは軍夫として八路傷病兵を病院に運び、ときには阿鼻叫喚の戦場にタンカを持って出向き、夜陰に乗じて死傷兵を収用して貨車に運ぶなど、大変辛い思いをしました。しかしこの戦いは八路の負けであることがありありと見えたので、心の中では快哉を叫んでいました。
 新京方面の山々から、ドスーンという大砲の音が昼夜の別なく響いてきました。たったいま、駅から病院に運んだばかりの傷兵を、直ぐ駅に戻せという命令で、再びタンカを担いで大馬路を逆戻りしました。病院から医療器具を満載した大車(ターチョ・荷馬車)が大急ぎで駅に向かって走っていく。国府軍の大砲の音がすぐ近くに聞こえ、大馬路は、敗走する八路将兵と大車でごった返し、吉林の街はしばし混乱が続きました。
 記録では5月27日となっていますが、敗退する八路軍は、敵の進路を阻むために、松花江に架かった吉林大橋と、その下流にある鉄橋を爆破して逃げていきました。大砲の音と違うその爆破音に、不安と戸惑いを生じるばかりでした。この両方の橋の大掛かりな爆破作業はすべて日本人の使役にやらせたのです。この日梅村のおじいさん(梅村保)も遠方の使役に駆り出されていたらしく、爆破を目撃したのかどうかわかりませんが、吉林大橋が爆破されたと、その凄さ、怖ろしさを私に語ってくれたのをはっきりと記憶しております。
 こうして待ちに待った国府軍が、青天白日旗をへんぽんと翻しながら、吉林市に進駐してきたのだった。当然のことながら、吉林省政府と軍管区師団長の連名による布告が出されました。ソ連軍が撤退し、八路軍が後釜にすわって僅か1ヶ月半経ったばかりのことでした。
                                -つづくー

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