きょうのことばー『その名はインマヌエル』――第Ⅲアドベントー
日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会の講壇で語られる説教の要約をお伝えしています。2012年12月16日(日)を昨日掲載の予定でしたが、事情により、きょうお届けいたします。國光勝美牧師によるアドベント講壇です。
聖書引証はマタイ伝1章18~25節です。
18 イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリアはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。
19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。
20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。
21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
22 このすべての出来事は、主の預言者を通して言われた事が成就するためであった。
23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を生む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)
24 ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、
25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。
【説教】
おはようございます。寒さが和らいでおりますが、きょうは、国政選挙があります。国の為にも皆さんでお祈りいたしましょう。クリスマスもいよいよ来週にせまりました。いつも教会にいらしている方々が、仕事や健康上の理由から休んでおられますが、私たちが、ここに来ることができたことを感謝するとともに、来ることのできなかった方々にも、神さまの御配慮がありますようにと願いつつ、メッセージを取り次がせていただきます。
「神は、私たちとともにおられる」(マタイ1:23)。きょうは、このおことばを次の三つの角度から学んでみます。
1、歴史的な事実
2、現在的な事実
3、自覚的な事実
1の歴史的な事実ですが、
「神が私たちを愛していてくださる」。これは一般の方々には抽象的な表現と聞こえるでしょう。しかし、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)とは、歴史的な事実です。神は御子イエス・キリストをこの世にお遣わし、この世に介入してくださいました。そして十字架の事実に心を留めましょう。イエスさまの誕生のときには、東方の博士たちがやってきました。また王座に執着するヘロデによって幼子たちが殺されております。イエスさまは、地上にある限り、愛と力に満ちて、神の国がどういうものであるかを説き、力あるわざをなし、神が力と愛に満ちた聖(きよ)いお方であることを教えてくださいました。
ある方が話しておられましたが、もし神が、私たちに、御自分の全貌を直接明らかにされたなら、私たちが灼熱の太陽に接すれば一瞬に蒸発してしまうように、その凄さには誰ひとりとして御前に立ちおおせるものはいない、と。なるほどと思いました。そこで神さまは、限界あるわたしたちにも解るように、御自身を絞り、制約したかたちで、御自身を示された、それがキリストの誕生であり、十字架の事実であり、復活の事実なのです。弟子たちが命を賭けて伝道を始めたのは、これらがみな事実だったからです。神はかくも私たちを愛してくださった、先ず第一に、これをしっかりと心に留めましょう。
2の現在的な事実ですが、
それは、私たちの心の中に主はおられるということです。そしてきよめの事実があります。「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)。それから復活の事実。よみがえられたイエスさまはこう仰いました「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)
私たちの心の中に、主はいまもやってきてくださる。ベツレヘムの飼い葉おけの中に身を低くして降ったお方は、信じる者の心の中に宿ってくださる。これは事実です。
さらに主の前に悔い改め、主に自分を明け渡すときに、心の中に喜びが満ち溢れ、平安をいただく。イエスさまが、「わたしの平安をあなた方にのこす」お仰ったその通りです。イエスさまを迎えるときに、どうか心の片隅にではなく、心の王座に、心の真中心にお迎えしましょう。このように祈り願うとときに、主は平和の君として王の王、主の主として私の心に天の喜びを満たしてくださいます。そしてこれに自分だけが満足するのではなく、他の方々にもお伝えしましょう。私たちには福音伝道の特権もあるのです。「神は、私たちとともにおられる」(マタイ1:23)、この事実が、ひとりでも多くの方々の現在的な事実となることを祈っております。
3の自覚的な事実ですが、
試練のときに、主はともにおられます。「神はわれらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある助け」(詩46:17)。ほんとうにそうです。またもう一か所、パウロがいま殉教しようとしているときに言いました「しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました」(第二テモテ4:17)。
神はいつでもそこにおられる。神はいつでもともにおられる。これこそクリスチャンの自覚的な事実です。そしてこの事実ゆえに「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。」(詩23:4)と証しできることになる。
黙21:3を見ましょう。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、4 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」
神の幕屋が人とともにある、即ち、神の御臨在のしるしであるイエスさまが宿っていてくださる、これが私たちの自覚的な事実であります。神が私たちとともにいてくださる、これが私たちの信仰のいちばんのものです。この自覚が日ごとに深まり、その事実に融合、同化する、クリスチャン信仰というのはこれに尽きる。ですから、それに向かって、私たちはこの地上に許された信仰生涯を日々歩んでゆくことです。
この月も、もしかすれば試みのときを通るかもしれない。その道すがらの一場面一場面に、「神は、私たちとともにおられる」この事実を、改めて位置付けたいと思います。
神さまは、三位一体であり、父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神がそれぞれの位格をもって存在されるのですが、クリスマスメッセージを準備するときには、どうしても子なる神イエスさまに焦点をあてている。極めて当然のことではあります。しかしこのすばらしいクリスマスの事実、「神が私たちとともにおられる」事実を、私たちに自覚させるのは、聖霊なる神さまであります。マリヤは聖霊によって身ごもりました。この聖霊のすばらしい働きによって、私たちには、「神が私たちとともにおられる」ことがわかるのです。この御聖霊さまの働きを一層深く心に留めたことでございます。
「神は、私たちとともにおられる」(マタイ1:23)
これは歴史的な事実に立脚しているものであります。そしてそれは、いまの私たちに事実として働いており、そしてそれは、私たちに自覚させるものであるということを一層心に留めて、この次へのクリスマス礼拝へと歩ませていただきたいと思います。
文責:中ぶんな
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