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きょうのことばー八王子教会協力牧師 江藤博久先生の説教『隣人』ー

2012年11月4日インマヌエル盛岡キリスト教会の講壇に立たれた八王子教会協力牧師江藤博久先生の説教をお伝えします。

聖書引証ルカ伝10章25~37節
25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
26 イエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
27 すると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
28 イエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
30 イエスは答えて言われた。「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
31 たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
32 同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
33 ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
34 近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
35 次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


 特に昨今隣人の問題が出てきております。私たちにとっては勿論、東北3県がそうであり、これは同胞でもあり、皆が共に復興に向けて取り組んでいる。これと、領土問題が絡んだ隣人があります。ロシア、韓国、中国とはもしや戦争が起きるかと非常に心配されました。これらの国では、実は、日本よりもクリスチャンの数が多い。日本人は
100万人ぐらいしかいませんが、中国は1億人、韓国はもう3割がクリスチャンですから1600万人います。ロシアは東方教会の流れを汲みますがキリスト教の霊的な方面を強調するグループで、彼らもクリスチャンであることは間違いない。では、改めて、聖書では、隣人をどういっているのでしょうか。

「隣人を愛しなさい」

 これは旧約聖書の申命記、レビ記の中にも神の戒めとして出ています。新約聖書にも出ている。つまり聖書全巻を通してとても重要なこととしてリピートされています。同じことが、実は冒頭に掲げたとおり、イエスさまご自身のことばとしてマタイ223740に出ています。 この聖書箇所は、よく「よきサマリヤ人」として引かれるイエスさまのたとえ話しです。中心聖句はルカ1037
37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 先ず第一に、この物語りには、苦しむ人を見捨てた祭司とレビ人のすがたが書かれています。彼らはエルサレムからエリコに帰っていく途中でした。エルサレムは海抜約800メートル、エリコは海抜下250メートルですから、帰り道は曲がりくねった急な下り坂でした。エリコはBC8000年から壁に囲われた集落があった歴史的にも重要な町です。

 祭司とレビ人が帰る途中、ひとりのユダヤ人が強盗に遇ったのか半死半生の状態で道の傍らに横たわっていた。

 イエスさまが、このたとえ話をしたときの背景には非常に厳しい差別があった。一つはイエス・キリストに向けられた時の宗教家たちの差別で、特に律法学者、パリサイ人らからの差別です。パウロも後には回心しましたが、それまでは、モーセの律法の権威でイエスを非常に圧迫しました。即ちイエスは、無学な大工の息子でしかなく、弟子たちペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネにしても、無学な漁師でしかないという差別です。人間は、学歴、職歴で差別するのです。律法学者たちは心の中で叫んでいました。「おまえたちは思いつきを勝手に話しているだけで、無学のただの人間である」。この差別は現代でも起こり得る。

 そしてもう一つの大きな差別、それはサマリヤ人に対するユダヤ民族の差別、これは民族間同志の差別です。ユダヤ人のうち、バビロン捕囚のとき、異民族との間に混血が生まれたりしたのですが、これらの人々をサマリヤ人として区別し、700年に亘って徹底的に侮蔑した。これには神の選民思想が大きくはたらいています。サマリヤ人も同じく旧約聖書を信じている。半分はユダヤの血なのです。

 ヨハネ伝4章を見ますと、昼に水汲みをするサマリヤの女性が出ています。ふうつうの女たちは朝に水汲みをします。この女性はいかがわしい仕事をしていたので、誰にも顔を合わせないように昼に汲んでいた。イエスがそこに現れて一杯の水を所望します。そして言いました。

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。14 しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」

 非常に感動的な場面です。

「あなたはユダヤ人なのにどうして私に声をかけるのですか」とこの女性がイエスに訊ねたほどに、サマリヤ人は差別されていました。こういった背景の中で、「よきサマリヤ人」の話しがイエスさまの口からさらりと出てきたというのは、本当にすごいことです。そして神さまが、この物語りを通して「隣人を愛しなさい」と戒めるのは、これからは新しい愛の時代が到来するのだということを告げているのであります。まさしく不変の愛、人のために十字架に架かって命を投げ出すというイエスさまの限界のない愛の到来です。

 私たちもイエスさまに従っていこうとするとき、神の愛を実践しようとするときに苦しむことがあります。自分を圧迫し、自分を苦しめる者を愛するなど、普通のひとにはできません。それは神の愛を知る者にしかできない。聖霊によって神の愛が充満することによってしかできないのです。人間には不可能と思われることでも、実は、聖霊に満たされるとき、そこに奇跡が起こります。

本当に心の芯まで憎み合っている民族に登場し手を差し伸べるというのは、単に隣人愛を実践するといったレベルを超えています。イエス・キリストは、ここで律法の専門家たちに、新しい愛の時代が到来することを宣言しているのです。

 2000年後のこの日本でも、このような愛の奇跡が起こりました。新大久保駅のプラットホームから転落した人を、韓国人留学生が助けようとして命を落としました。すばらしいクリスチャン青年でした。多くの日本人が、ユダヤ人とサマリヤ人との確執ほどではありませんが、韓国との間にもそれがあります。しかしこの韓国人留学生の行為はこれを根底から覆しました。これは実はあのサマリヤでのイエスさまと同じ意味を持っているのであります。

 第三として、隣人になることは、大きな福音となります。痛みと犠牲が伴わない愛はありません。それが福音です。

 律法学者は訊きました。「では私の隣人とはいったい誰のことですか」。彼は傷ついた同胞を見ていた。ユダヤ人を見ている。ところが瞬間、これは私の隣人ではない、隣人にはしたくない、そう思った。私たち関西人は東北の同胞の痛み、傷を助けあっている。しかしここではそうではない。なりたくない。自分まで強盗に襲われちゃかなわない、お金もかかるし、血で汚れたくない、他に用事もあったかもしれない。とにかく隣人にはなりたくない。同胞を見捨てて横を通り過ぎていった。

 ルカ伝1036でイエスさまは、「 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」とお尋ねになっている。サマリヤ人こそ隣人になった人ですと言うべきところを、差別観があって素直に言いだせない。このあたりは非常にリアルです。37節に「その人にあわれみをかけてやった人です。」とあります。

 アメリカの黒人公民権運動のために尽力したキング牧師が言っています「祭司、レビ人は、先ず、この人を助けたら自分がどうなるかを考えた。しかしサマリヤ人は、この人を助けなかったら、この人がどうなるかを考えたんです」。

 私は、このたとえ話から、差別のことはともかく、人の心の美しさに感動しました。これこそイエスのかおりです。日本の麗しい国土の中に、このような日本人をつくることが必要です。先ずクリスチャンたちが、教会学校などで、子どもを豊かに育てなければなりません。一朝一夕によいサマリヤ人は生まれてはこない、こんなふうに思いました。

 ニューヨークのハーレムで、スラム街からバスなどで1回に2万人の子どもたちを集め、教会学校を開いているビル・ウィルソンという方がいます。日本人神学生も3カ月間短期留学をしていますが。そのビル・ウィルソンは『この子だれの子』の著者です。その中にある一人の少年が出てくる。来る日も来る日も、割れた鏡の破片を持って、賃貸アパートの窓に日光を反射させている。警官が何をしているのかを尋ねると少年は言いました「あそこには僕の弟がいるの。6歳なんだけど、ずっと歩くことができないの。お母さんには車いすを買ってだからあげるお金がない。僕たちが弟を抱えて外に連れ出すと、他の子たちが弟に石をなげる。弟も降りてきたがらない。だから僕は毎日ここにいて、照らしてあげてるんだ。この光が、弟に見えるたった一つの光だから」

 最も大切なことは心の優しさです。イエスさまが明らかにしている隣人とは、身ぐるみはがれ半死半生となっている気の毒な男のひとのことではないようです。第二の御命令、「あなたの隣人を、あなた自身のように愛しなさい」。このみことばを実行する人のようです。道の反対側、これはわずかな距離です。これを渡るのにはとても勇気がいる。豊かな神さまの聖霊を浴びなければ渡れない。

各家庭の夫婦間の、親子間の問題などなど、ほんとうに大変です。私たちにはなかなか歩み寄りができない。

隣人とは、道を渡って、傷に油を、葡萄酒を注いで、包帯をして、自分のロバに乗せ、宿屋に連れていき介抱したサマリヤ人のことです。宿屋というのは、この教会を指しています。

私たちの生涯には、生活には多くの苦しみがある。そのような中で、魂の平安と、魂の回復を得て、そして傷ついた魂を介抱して回復することによって、第一テサロニケ5章にあるように、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」というすがた、きよめられたすがたとなります。これは愛で覆われて出てくるすがたではないでしょうか。愛に覆われていないと、進む道をイエスとともに横切っていくのは難しい。

 きよめられなければすばらしい生涯は与えられません。その根源は愛でおおわれているということです。聖霊に満たされて、私たちもまた互いに教会で助け合い、励ましあい道を渡っていくのであります。だから教会はとてもだいじなところです。ただみことばを聞くだけのところではありません。先生によって牧会され、愛に満ちている。みなさまがたは本当にしあわせです。主が一緒に支えてくださいます。苦難を栄光へと導いて下さいます。 

※若干割愛した部分、或いは聞き落とした部分、聞き間違いということもあり得ますが、お気づきの際はお教えください。文責:中ぶんな

 

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