きょうのことば『復活の主との交わり』ーヨハネ伝連講(121)ー
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 月30 日の説教です。この日、私は地域の運動会に参加し、教会を欠席しましたが、CDにとっていただきました。
月下美人が今晩(10月7日22時撮影)咲きました。日曜日の開花です。
説教題 『復活の主との交わり』ーヨハネ伝連講(121)ー
聖書引証 ヨハネ伝21章1~14節
1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。
3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。
5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」
6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。
8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。
9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。
12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。
13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。
14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。
【説教】
きょうも、先週とおなじヨハネ伝21:1~14からです。特に、復活された主との交わりについて語りたいと思います。
なぜイエスさまは、ガリラヤでよみがえりの御自分を弟子たちに現わされたのか。イエスさまがカルバリの丘で十字架につけられ、三日目によみがえったことを御使いによって知らされるという一連のことは、弟子たちにとって、凡そあり得ない非現実的な出来事でした。イエスさまは、これを弟子たちが得心できるようにしたく願っておられた。十字架が、復活は現実のことであるが、かつて初めてイエスさまと出会った謂わば弟子たちの信仰の初発の地であるガリラヤでお会いする復活の主もまた現実であることを教えたかった。その同じ主が生きておられ、いまこのときにも、私たちを導いてくださっています。
このイエスさまが仰る通りに網をおろしたところ大漁となったという 6節 に心を向けましょう。
さて、網をおろすのが右側であるか、左側であるかによって収獲が違うのでしょうか。これにはさまざまな解釈があります。その中から私が同意できるものを挙げます。
「右側におろしたから獲れた、左側におろしたから獲れなかったということは、ここではあまり大きな意味を持ってはいない。そうではなく、この不思議なお方イエスさまの仰ることをそのまま受けて、自分はこうしたい、ああしたいという思いがあったとしても、それは措いて、先ずそのお方に従うときに大漁となった」
これには大きな意味があります。漁にかけては彼らはプロでした。ですから方策は誰に訊くまでもない。彼らは最も効率がよいと思う方法でやっていたのです。しかし、獲れなかった。そしてイエスさまに従ったときに大漁となったのです。
11月4日には、この教会で特別集会を行います。救霊の営みを為そうとするとき、このヨハネ伝21:6をしっかりと捉えて、励ましをいただきたいと思うことです。
伝道のはたらきが、イエスさまのおことばと御干渉なしに進むことはあり得ません。弟子たちは、私たちは、今までも右側におろしていたかもしれない。しかし同じ右側におろすのでも、ここでは、イエスさまが「右側におろしなさい」と仰ったということです。主のおことばに従って、精いっぱい網をおろす作業をいたしましょう。同じ6節には「おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。」とあります。
伝道をしてもなかなか難しいという現状はあります。しかしリバイバルはありました。そしてリバイバルはあるのです。もういちど網をおろしましょう。
11節には、153匹の大漁だったが、「網は破れなかった」とあります。大勢の人々がお救いに与るとき、時として、網が破れることがあります。使徒の働きには、初代教会において網が破れたことが書かれています。同じキリスト教に入信しながらも、文化背景がユダヤ教である人々、或いはギリシャ文化を背景とする人々とさまざまでしたから、苦情や不満が出て、不一致となり分派を生じました。悪魔が祝福を手をこまねいて見ているはずはないわけで、残念な方向に導かれていってしまった。しかし、この11節には「それほど重かったけれども、網は破れなかった」とあります。
教会のお一人お一人には、さまざまな背景があり、また個性的なキャラクターの方がいらっしゃいます。それでも網が破れないようなリバイバルの働きがなされますように、教会の一致が保たれますようにと心から願うことであります。
こんどはイエスさまが食事の準備をし、弟子たちとともに食事をしたことに眼を留めましょう。9~13節です。
イエスさまが準備してくださった食事をイエスさまとともにしたときに、弟子たちは、眼からうろこが落ちるように、いまここにおられるのが、まさしく復活したイエスさまであることが心底わかったのです。あのエルサレムにおいて霊的な興奮状態でイエスさまの復活を知ったときに勝って、いっしょに食事をしているこのときに、イエスさまはほんとうによみがえられて、生きて今実際にここにおられることを得心したのです。
ルカ24:30、ルカ24:36、ルカ24:41~42、また使徒1:4の「いっしょにいるとき」の欄外の注釈を見ましても、「食事をともにする」ことには大きな意味があるのです。このことを踏まえ、ヨハネ21にもどりましょう。
9節では炭がすでにおこされ、魚とパンが載せられていました。ところが10節でイエスさまはいうのです。
「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」
つまり、さっき右の方に網をおろして大漁になった魚のうちの幾匹かを持ってこさせ網に載せて、そして食事となりました。
この魚は、イエスさまが私たちに与えてくださるおことばのことではないでしょうか。勿論ここにはイエスさまが、すでにパンも準備しておられたわけで、それと合わせて、聖書のおことばであるといえましょう。イエスさまは、私たちにおことばを備えてくださり、このおことばを介して、私と一緒に食事をしよう、交わりをしようと仰っているのではないでしょうか。そのときに私たちは、イエスさまとの交わりの祝福に与り、養いをうけることができるのです。このような教会の働きと信仰生活とを進めてまいりたく願うことです。
※これは説教の要約です。さらに詳しくお聞きになりたい方は、教会にご連絡いただくか、御来会ください。
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