きょうのことば『聖書的死生観』
日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 月2日の説教です。
説教題『聖書的死生観』
聖書引証 ヨハネ伝14章19節
19 いましばらくで世はわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
【説教】
突然に召天されましたY姉に対し、教会の皆様方とともに、心からの御葬儀を営ませていただいたのですが、このときにクリスチャンの死生観について考えることもまた大切であると思います。
イエスさまが仰った「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」というおことばが、ずっと心に響いております。このよみがえりであるイエスさまを、いよいよ心に更新できましたなら、きょうの私の役目は果たされると思われます。このことは、ヨハネ伝1章がベースとなるのですが、きょうはエゼキエル18:32を引きます。
32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよ。
「悔い改めて、生きよ」。これが神さまが私たちに求めておられることです。
「あなたは生きていますか?」
この問いかけに、皆さん方は、当然、生きているからここにいる、とおっしゃるでしょう。これは生物的な意味で生きている命ということです。ここにまた「あなたは生きていますか?」と同じ問いかけをされたなら、ほんとうの意味で生きているかどうかを問われていることに気付くでしょう。ほんとうの意味で生きている命とは、霊的な人格的な意味の生物的な命、即ち、ギリシャ語でビオスといわれる霊的な永遠の命のことです。
いつか3人の石工のたとえ話をしたことがありました。3人のうち仕事の目的意識がはっきりとしている石工には仕事の喜びがありました。
仕事に人生を重ねるなら、私たちの生きる目的は何でしょう。何のために生きているのか。それは自分を愛してくださっているお方を知るためです。
私は1968年11月16日に悔い改め、イエス・キリストの十字架の愛を知ったときに生きるものとされました。この方によって私は生かされており、この方のために生きている。生きているということは、神を愛し神に愛されていることを知ることである、それを深く感じます。
「みなさん、生きていますか?」
そうです。このことがよくわかりますと、罪が問題となります。神とのまじわりを阻むものが罪です。それゆえ私たちは、生きているけれども死んだものとなっている。罪によって生ける屍となっている。
エゼキエル書にあります。 「悔い改めて、生きよ」と。
クリスチャンの死生観についてさらに見ていきましょう。
私たちはある時点で死を経験します。そしてイエス・キリストの再臨のときに復活し、栄光のからだによみがえります。ここで問題は、死から復活までの中間状態を聖書はどういっているか。
カトリックでは煉獄のときとしています。 そのままでは聖い神の前にでることはできないので、ここで最終的に浄化され整えられるとしている。
これに対しプロテスタントは、聖書は決してこのようにいっておらず、イエス・キリストの十字架への信仰による罪の許しによってのみ救われるとしています。
またプロテスタントの中にも、「ステパノはかくいいて眠りにつけり」とか「眠れるものにつきては」を聖書中から引いて、人間の死後、魂は眠っ状態であるとする方々もあります。セブンスディー・アドベンティストがこの立場です。しかしこれは、死を象徴的にいい表したものであって聖書のいわんとするところとは違っています。
ただ旧約聖書のなかでへブル語でシェオルといわれているのは、死後の世界の黄泉です。ギリシャ語ではハデスと訳されます。
私たちが死んだ時、魂は肉体から分離すると聖書はいっています。そして聖書は、再臨のとき私たちの肉体が復活するといっています。肉体は今この世界に私たちが魂をいれて生きていくために必要な形態なのですが、これが栄光の復活の体の場合には、もう今の世の中のこの生活の制限を超えますから、はるかにそれに勝ったところの肉体が復活するのです。
イエスさまが復活してから弟子たちに現れてくださったとき、イエスさまは弟子たちと一緒に食事を召しあがっています。このような体に私たちもなるのです。また復活したイエスさまは、扉に鍵をかけてあったのですが、それを超えて、扉や囲いといったものを通りぬけて弟子たちに現れてくださいました。そして幽霊じゃないよとトマスに触らせ確かめさせたのです。ですから、再臨の時、私たちが栄光の体になるのは確かです。これを聖書から引証しましょう。
ヨハネ5:25~29「25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。そして、聞く者は生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」
ピリピ3:20~21「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」
さて、ヘブル語でシェオル、ギリシャ語でハデスと訳されている黄泉、これは先ほどもいいましたが、死と復活との間をさします。罪赦されていない、つまり救われていない人たちはハデスに行きます。またゲヘナというところがあります。これは最終的に永遠の刑罰を受けるところです。マタイ10:28には「28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。ハデスは中間のところであり、ゲヘナは最後の決定的な審判、永遠の滅びの場所です。だからこれをほんとうに恐れなさいとイエスさまは仰るのです。
それでは中間であるまだ救われていない人が過ごすハデス、黄泉と対極にあるところは、救われていて最終的な栄光の体になるときである再臨を待つクリスチャンたちはどこにいるのか。それはパラダイスです。パラダイスでは死と復活との間をキリストとともに過ごします。ここでイエスさまとともにあることはクリスチャンの望みです。
パウロはピリピ1:21~23で言いました。「21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」
この地上に残って福音をつたえ、豊かな実を結ぶこと、これも使命であり喜んで行うけれども、本音をいえば、はやくこの世を去ってイエスさまと一緒にいる祝福の方がはるかに勝っているとパウロはいっています。
ルカ伝にあるラザロと乞食のはなしもあります。パラダイスを「アブラハムのふところ」と表現しています。この世では恵まれなかったラザロ。しかしラザロはパラダイスに入りました。金持ちは大層な葬儀はしましたが、行き着いた先は、誰もこんな苦しいところには来てもらいたくないというほどの場所でした。
私たちクリスチャンは、もう死というトゲは取り去られています。たしかに肉体の死を経験しなければならないけれども、罪の裁きというトゲはすでに取り去られている。パウロと同じように、キリストとともにあることを、そう、私にとってははるかに勝ることなのだ、この生きる望み、喜びにしっかり根ざしていくのならば、私たちの信仰生活はいよいよ豊かになっていくものと思うことです。
※40分の説教を約半分に編集しています。文責:中ぶんな
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