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きょうのことば『聖きを追い求めて』

 日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 16日の説教です。

201099_014

説教題 『聖きを追い求めて』
聖書引証 ヘブル12章14節

14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

【説教】
 きょうはヘブル書に心を留めさせていただきたいと思います。
あすは敬老の日です。教会ではその方々に、きょう、婦人会からカードとプレゼントをお渡ししたいと準備しております。カードには、イザヤ書46:3~4を記させていただきました。

3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。


 
私たちは今、生をうけてここにいるわけですが、すでに生まれるまえから神さまにになわれ運ばれているとあります。みなささま、マーガレット・F・パワ-ズの「足跡(Footprits)」という詩を御存知でしょう。

ある夜、彼は夢を見た。それは主とともに海岸を歩いている 夢だった。その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。                
そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。すると彼が歩んできた今までの道の多くの時に、たったひとつの足跡しかないことに気がつ いた。そしてそれはまた彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれているときのものであることに気づかされた。                        
  彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではあり ませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたので すか?私には理解できません。」                      
   主は答えられた。「私の高価で尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを携え歩いていたからです。」

                              
 神は、たしかにこのように私たちを携え歩いてくださっております。
 敬老の日、そして謝恩聖日を迎えるとき、このような思いめぐらしのうちに、ヘブル12:14が心に刻まれました。すべての人との平和ということでございます。


 私が開拓伝道のために40年前、この盛岡に遣わされたとき、教会の案内チラシを見て来てくださったのが I 姉妹でした。お姉さんの導きでクリスチャンになりましたが、さまざまな事情で教会から遠ざかっていた方でしたが復帰したのでした。当時70歳だったこの姉妹が、まだ30歳になっていない私に仰いました。「先生はまだお若いから私の気持ちはわからないでしょうけれども、イエスさまに救われ天国に行けるのは、ほんとうにすごいことですよ」と。それを伝えるのが私の役目だったのですが、姉妹はそう仰いました。「もういつお呼びがかかっても恨みっこなしの私がイエスさまの救いに与っている」というのです。私があのときの姉妹の年齢になろうとしている今、それが解ってまいりました。

 そのような者として、いま最も大切なことは何か。頭の理解だけでなく、現実の問題として考えてみますと、先ず神さまの前に立つことができるかどうか。そのことであります。ヘブル書には、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」とあります。やがて地上生涯を終えようとするとき、自分は主の前に聖いものであると納得できるなら何と幸いでしょうか。

 どうでしょう。「すべての人との平和」と「聖められること」を追い求めていますか。真剣に追い求める真実さを神は求めておられます。

 すべての人との平和を追い求めることは、平面的な横への広がりです。聖められるのは神との関係によってです。クリスチャンにはどちらもなければなりません。どちらか一方がいい加減であることはあり得ません。このふたつの調和を追い求めましょう。

 ビリーグラハム著『神との平和』はいいます。追い求めなければならない平和には三つあると。
第一は、「神との平和」です。これは、神の怒りの対象である罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じるときに得られます。
第二は、「自分自身との平和」です。これは、罪が原因となって生じているあらゆる葛藤を、神の前に砕かれ罪を悔い改めることによって得られます。罪からの勝利を得ることです。神様に、心から感謝しますといえることが大切です。
第三は、「すべての人との平和」です。これは、第一、第二があってはじめて得ることができます。
人々との平和を築くには、先ず神との平和が必要なのです。神との平和を得たいなら、罪を解決することです。

 自分の力や努力でこれらを得ようとすれば、遅かれ早かれ、私たちは自分の力無さや意志の弱さに幻滅することになります。
 しかし、第二コリント12:9にはこうあります。

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 弱くてもいい、足りなくてもいい、と聖書はいっています。それに打ちのめされず、それを認めて神の前に出るときに、神の強さはその弱いところ足りないところにこそあらわされる、そこにこそ神の力が全うされると神が仰っているのです。


 砕かれることです。この経験がないと、自分の意見に反抗し逆らう人々に対して腹を立て、赦すことができなくなります。往々にして身近である人にそうなりがちです。自我が解決されていないと、主張は正しくとも、言い表し方において正しくないことがあり得る。

 ステパノの殉教の場面を思い起こしてください。ステパノは、挙げて反対する人々に、旧約聖書を引きながら自らが正しいと思うことを綿々と主張しました。そして彼らが怒り狂って彼を石打にしたとき、彼は祈りました。「この罪を彼らに追わせないでください」と。これはほんとうに砕かれていなければできない祈りです。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。

相手のために、ほんとうに祈ることができるかどうか、これがすべての試金石であるように思います。

※40分の説教を、約半分に編集しております。文責:中ぶんな

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