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きょうのことば『岸辺に立たれる復活の主』

 日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 23日の説教です。

023
説教題 『岸辺に立たれる復活の主』
聖書引証 ヨハネ伝21:1~14
(青い部分)

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。


【説教】
 猛暑の夏を越えまして、過ごしやすい季節を迎えておりますが、体調の管理に留意され、疲れを癒していただきたいものと思っております。  
 教会の講壇は、基本的にヨハネ伝の連続講開でありました。なかなか進めることができないでおりましたが、きょうは21章を開き、締めくくりに入ってゆきたく思います。

 ヨハネ20:31に
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 とあります。ヨハネ伝を記したヨハネは、実はこの20:31で筆を置くつもりでした。しかし、やはり言い置かねばならないと、後日談として付け加えられたのがこのヨハネ伝21章です。

 21:1に「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。」とあります。弟子たちはイエスさまが十字架につけられたが復活したことを知ってはいました。しかし、それがどういうことであるかをまだ十分に把握できないでいたのです。ここでマタイ28章をご覧ください。イエスさまの復活のことが書かれています。

5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
 御使いたちが、イエスさまはガリラヤで会うという伝言を伝えています。これで弟子たちがなぜガリラヤに帰ってきているかもわかるでしょう。
 イエスさまが十字架につけられ葬られたときに、弟子たちは絶望や悲しみに打ちひしがれてしまったのです。復活を知ってもまだ得心がいかない。そんなとき、イエスさまは「ガリラヤで会いましょう」と仰るのです。あのときの弟子たちと同じ状況にある私たちにもイエスさまはこう仰るのです。ガリラヤ、それは弟子たちがイエスさまと初めてお会いしたところです。そうです。原点に帰ることです。

 ヨハネ21:3にあるように、ガリラヤの漁師だった弟子たちは、勇んで漁に出かけました。獲れない一夜が明けた時、岸辺に立っておられたのがイエスさまでした。ところが弟子たちには、それがイエスさまだとはわからない。
 「子どもたちよ、食べる物がありませんね。」とイエスさまは仰る。弟子たちが一晩かけた漁が徒労に終わっていることを、その虚しい思いも、イエスさまはぜんぶご存じなのです。逐一ご存じのうえで岸辺に立っておられる。ところがこのイエスさまに気付かない。弟子たちがイエスさまだと気付かなかったように、私たちも気づいていない。これは単に聖書の中だけの出来事としてしまい、今の自分たちに、そのことが適用されていない。

 しかし、よくこの場面をみてみましょう。つい先ほどまで私たちが関わっていた事柄をイエスさまはことごとく知っておられる。そして私たちに耳の痛い質問をされます。「子どもたちよ、食べるものがありませんね。」と。「食べるの物がありますか?」とは訊いていない。率直に、むしろ失礼かと思われるような訊き方です。しかしその時、弟子たちは、「はい。ありません。」と取り繕うこともなく現状をありのままに認めています。そのときにイエスさまは仰いました。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」 
 そして弟子たちが、さまざまに方策を持っていたとしても、それを措いて先ずイエスさまのおことばに従って網を下ろしたときに、

おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
 実にこのような大漁を見ることになりました。ここでやっと弟子たちはこの人物がイエスさまであることに気づくのです。

 こうして弟子たちはイエスさまとともに喜びの朝餉を囲むことになりました。
 今年度、私たちは、さまざまな伝道の試みをしてまいりました。そして11月4日には、すばらしい講師の先生をお招きして集会を予定しております。このヨハネ伝21章の場面から、この秋の教会の働きのために整えをいただきましょう。そして、この教会がたくさんの人たちによって満たされ、ガリラヤのイエスさまと出会い、ともに食事をすることができる、そのような幸いな恵のときを是非持たせていただきたいと心から願っているものでございます。


※説教は約半分に編集しております。プロジェクターで映し出された地図、また例話、聖書の引用など割愛したところがございます。文責:中ぶんな

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