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2012年9月

きょうのことば『岸辺に立たれる復活の主』

 日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 23日の説教です。

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説教題 『岸辺に立たれる復活の主』
聖書引証 ヨハネ伝21:1~14
(青い部分)

1 この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現された。その現された次第はこうであった。
2 シモン・ペテロ、デドモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子たち、ほかにふたりの弟子がいっしょにいた。

3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

6 イエスは彼らに言われた。「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」そこで、彼らは網をおろした。すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

7 そこで、イエスの愛されたあの弟子がペテロに言った。「主です。」すると、シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。

8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。陸地から遠くなく、百メートル足らずの距離だったからである。

9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。

10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」

11 シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた、それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。

12 イエスは彼らに言われた。「さあ来て、朝の食事をしなさい。」弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか」とあえて尋ねる者はいなかった。

13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現されたのは、すでにこれで三度目である。


【説教】
 猛暑の夏を越えまして、過ごしやすい季節を迎えておりますが、体調の管理に留意され、疲れを癒していただきたいものと思っております。  
 教会の講壇は、基本的にヨハネ伝の連続講開でありました。なかなか進めることができないでおりましたが、きょうは21章を開き、締めくくりに入ってゆきたく思います。

 ヨハネ20:31に
31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 とあります。ヨハネ伝を記したヨハネは、実はこの20:31で筆を置くつもりでした。しかし、やはり言い置かねばならないと、後日談として付け加えられたのがこのヨハネ伝21章です。

 21:1に「この後、イエスはテベリヤの湖畔で、もう一度ご自分を弟子たちに現わされた。」とあります。弟子たちはイエスさまが十字架につけられたが復活したことを知ってはいました。しかし、それがどういうことであるかをまだ十分に把握できないでいたのです。ここでマタイ28章をご覧ください。イエスさまの復活のことが書かれています。

5 すると、御使いは女たちに言った。「恐れてはいけません。あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。
6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
 御使いたちが、イエスさまはガリラヤで会うという伝言を伝えています。これで弟子たちがなぜガリラヤに帰ってきているかもわかるでしょう。
 イエスさまが十字架につけられ葬られたときに、弟子たちは絶望や悲しみに打ちひしがれてしまったのです。復活を知ってもまだ得心がいかない。そんなとき、イエスさまは「ガリラヤで会いましょう」と仰るのです。あのときの弟子たちと同じ状況にある私たちにもイエスさまはこう仰るのです。ガリラヤ、それは弟子たちがイエスさまと初めてお会いしたところです。そうです。原点に帰ることです。

 ヨハネ21:3にあるように、ガリラヤの漁師だった弟子たちは、勇んで漁に出かけました。獲れない一夜が明けた時、岸辺に立っておられたのがイエスさまでした。ところが弟子たちには、それがイエスさまだとはわからない。
 「子どもたちよ、食べる物がありませんね。」とイエスさまは仰る。弟子たちが一晩かけた漁が徒労に終わっていることを、その虚しい思いも、イエスさまはぜんぶご存じなのです。逐一ご存じのうえで岸辺に立っておられる。ところがこのイエスさまに気付かない。弟子たちがイエスさまだと気付かなかったように、私たちも気づいていない。これは単に聖書の中だけの出来事としてしまい、今の自分たちに、そのことが適用されていない。

 しかし、よくこの場面をみてみましょう。つい先ほどまで私たちが関わっていた事柄をイエスさまはことごとく知っておられる。そして私たちに耳の痛い質問をされます。「子どもたちよ、食べるものがありませんね。」と。「食べるの物がありますか?」とは訊いていない。率直に、むしろ失礼かと思われるような訊き方です。しかしその時、弟子たちは、「はい。ありません。」と取り繕うこともなく現状をありのままに認めています。そのときにイエスさまは仰いました。

「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」 
 そして弟子たちが、さまざまに方策を持っていたとしても、それを措いて先ずイエスさまのおことばに従って網を下ろしたときに、

おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。
 実にこのような大漁を見ることになりました。ここでやっと弟子たちはこの人物がイエスさまであることに気づくのです。

 こうして弟子たちはイエスさまとともに喜びの朝餉を囲むことになりました。
 今年度、私たちは、さまざまな伝道の試みをしてまいりました。そして11月4日には、すばらしい講師の先生をお招きして集会を予定しております。このヨハネ伝21章の場面から、この秋の教会の働きのために整えをいただきましょう。そして、この教会がたくさんの人たちによって満たされ、ガリラヤのイエスさまと出会い、ともに食事をすることができる、そのような幸いな恵のときを是非持たせていただきたいと心から願っているものでございます。


※説教は約半分に編集しております。プロジェクターで映し出された地図、また例話、聖書の引用など割愛したところがございます。文責:中ぶんな

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テノールの 尾形利夫 という人

やす  この秋の裏庭の収穫です。カボチャの重さはそれぞれ3.3㌔、 3.6g㌔。トマト、ピーマン、ゴーヤ、サヤインゲン、ツルムラサキです。

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        ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 
 またきょうの午後14時から、マリオス小ホールでは、「尾形利夫追悼コンサート」がありました。これは主人が聴きに行きました。主人が持ち帰ったプログラムを開き、これほどに音楽を愛して学び、そして家族とともに演奏し、また団体に所属するなどして活躍した方が身近に存在したことを知らされました。
 この追悼コンサートには、雅声会代表の松田晃先生、混声合唱団北声会常任指揮者山田靖了先生、男声合唱団コールM音楽監督太田代政男先生、男声合唱団響流はなまき団長阿部澄郎先生が追悼文を書かれている。主催者は尾形和恵さん。
 尾形利夫さんは盛岡一高から岩大農学部農芸化学科に入学。このとき、松田晃先生から週2回のレッスンを受けた。大学4年のとき、NHK全国のど自慢歌曲の部でシューベルトで4位。翌年はトスティで3位。昭和30年半ば、NHK盛岡放送局制作のミュージカルに3年連続主役出演。盛岡放送合唱団に所属。テノール。一般の混声合唱、男声合唱、そして雅声会のメンバーとして生涯歌い続けている。
 このほか音楽以外の趣味として、芥川龍之介作品を好んで朗読。絵画に興味を持ち、全国の美術館巡りをする。仕事を退いてからは、民生委員や天満宮の菅公会などにも所属して、地域活動にも参加した。音楽関係では常にどこかのため、誰かのために労をとっていたという。
 





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馬渕ひろみ「海 コラージュ」展ー2012/10/8(月)10/14(日)AM10~PM7 岩手県公会堂ー

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「秋のアンサンブルコンサート」ーシンフォニエッタ盛岡withフレンズ 2012/10/13(土)マリオス小ホール13時~ー

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二つの花

 猛暑日が続いていたときに、月下美人が一輪だけ、それもうっかりしている間に、誰も見ぬ間に咲き終えていました。メキシコの熱帯雨林が原産地であるというこの月下美人。

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 月下美人は、葉状茎の波打ったくぼみのところからつぼみを生じるのだが、これまで一つのくぼみには一つのつぼみが出ていた。

 それが、やっと涼しくなって出てきたつぼみ、これが一つのくぼみに二つ出ていたのには驚いた。初めてである。この二つがどのように位置関係を保ちながら咲くものかが楽しみだ。これが気温に関係あるのか、突然変異によるものか、或いは何かの作用でこのようになっているのかは分からない。二つともに咲いてくれるのか、それともどちらか一つだけ咲くことになるのか、いずれにしても楽しみだ。
 これも、天が、ことしこの庭に起こしてくれた、私にとっては不思議のうちの一つだ。

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ひと呼吸ー盛岡城跡公園散歩ー

午後から、近所の友だちと散歩でひと息。中津川沿いを歩き、中の橋で階段をのぼって盛岡城跡公園に。トチの実がたくさん落ちて、バラもまだまだ咲いています。真っ青な空。猛暑のあとの雨模様にやっと渇きをいやした樹木たちが、眩い日差しに憩っている平和なひととき。

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写真の人は友だちです。

 

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原罪

氷点 (上) (角川文庫 (5025))

 三浦綾子の『氷点』。ああよくクリスチャンが読む本ね。そういえば映画会でまたやってるらしいよ、ポスター貼ってあったね。実は私も、またか、と思ったことがある一人だ。しかしこの著書がどれほどに人間の根本的な、核となる悪、諸悪の根、即ちそれが原罪というものなのだが、それが書かれているという点で朽ちさせてはならないと再認識するに至った。

 いま満州のこと、といってもできるだけ吉林にだけ絞って、さらに吉林の音楽活動に焦点をあてて書いている。満州時代の梅村保について空白となっており、誰か知っている方はいらっしゃらないかと故梅村功二先生にお訊きしたところ、満州時代に頻繁に梅村重光宅に出入りしていた齊藤直次さんを教えてくださいました。私は、20ばかりの質問を設けて文書で回答をお願いしましたところ、幸いにもこの方が何に関しても誰に対しても面倒がらずに、仕事をこなすような仕業で全部に回答くださったのです。それがもう20数年前のことです。この中から、私が著書『光炎に響く』に書かせていただいたのは、ほんの1部分しかありませんでした。しかし後のものを没にはできない。これまでに何度か出して読んでいたのですが、軍国色が濃く、これ以上は書けないという思いでした。しかし没にはできない。なぜなら、そこには青春の真っただ中を、こんなふうに生きた、こんなふうにも生きたという生きた証しともなっている。たしかに知らずして満州の“恩沢”を享受したという側面もあるけれども、人ひとりの人生、当時そこに生きた人々の生きた証拠を蔑にすることはできない。いつかは何らかの形で書かなければならない、そう思い身近に置いてきたものでした。 

 今回文芸誌を書くにあたって、はじめは別なテーマを考えていたのですが、そのテーマは思いのほか時間がかかりそうであることがわかり、ならばこの機会に書くのがいいかもしれないといま400字詰めで42枚書いたところです。まだまだ書き足したいのですが、9月末の締め切りには間に合いませんので、まず書きたいことの半分を書いたというところではあります。

 これに伴い、やはり満州のソ連軍入城からの日本人の悲劇、そして侵略された中国人の側の悲劇は、必ず読まなければならなくなるのですが、そこでぶつかるのはやはり原罪という人間の根本にある罪の問題が見えたことでした。文芸誌には原罪のことにまでは及びかねました。音楽関連を中心にしか書いてはおりませんが、この原罪がすべての破壊の素であると納得したことです。そしてその素は誰にでもある。何らかの事情に触発されてそれが見える形をとり恐ろしい様相を呈することになる、そう思わせられたことでした。


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きょうのことば『聖きを追い求めて』

 日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 16日の説教です。

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説教題 『聖きを追い求めて』
聖書引証 ヘブル12章14節

14 すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。

【説教】
 きょうはヘブル書に心を留めさせていただきたいと思います。
あすは敬老の日です。教会ではその方々に、きょう、婦人会からカードとプレゼントをお渡ししたいと準備しております。カードには、イザヤ書46:3~4を記させていただきました。

3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。


 
私たちは今、生をうけてここにいるわけですが、すでに生まれるまえから神さまにになわれ運ばれているとあります。みなささま、マーガレット・F・パワ-ズの「足跡(Footprits)」という詩を御存知でしょう。

ある夜、彼は夢を見た。それは主とともに海岸を歩いている 夢だった。その時彼の人生が走馬灯のように空を横切った。その場面場面で彼は砂浜に二組の足跡があることに気がついた。ひとつは主のもの、そしてもうひとつは自分のものであった。                
そして最後のシーンが現れた時、彼は砂浜の足跡を振り返って見た。すると彼が歩んできた今までの道の多くの時に、たったひとつの足跡しかないことに気がつ いた。そしてそれはまた彼の人生で最も困難で悲しみに打ちひしがれているときのものであることに気づかされた。                        
  彼はこのことでひどく悩み、主に尋ねた。「主よ、かつて私があなたに従うと決心した時、あなたはどんな時も私とともに歩んでくださると約束されたではあり ませんか。でも私の人生で最も苦しかった時、ひとつの足跡しかありません。私が最もあなたを必要としていた時、どうしてあなたは私を置き去りにされたので すか?私には理解できません。」                      
   主は答えられた。「私の高価で尊い子よ、私はあなたを愛している。決して見捨てたりはしない。あなたが試練や苦しみの中にあった時、たった一組しか足跡がなかったのは私があなたを携え歩いていたからです。」

                              
 神は、たしかにこのように私たちを携え歩いてくださっております。
 敬老の日、そして謝恩聖日を迎えるとき、このような思いめぐらしのうちに、ヘブル12:14が心に刻まれました。すべての人との平和ということでございます。


 私が開拓伝道のために40年前、この盛岡に遣わされたとき、教会の案内チラシを見て来てくださったのが I 姉妹でした。お姉さんの導きでクリスチャンになりましたが、さまざまな事情で教会から遠ざかっていた方でしたが復帰したのでした。当時70歳だったこの姉妹が、まだ30歳になっていない私に仰いました。「先生はまだお若いから私の気持ちはわからないでしょうけれども、イエスさまに救われ天国に行けるのは、ほんとうにすごいことですよ」と。それを伝えるのが私の役目だったのですが、姉妹はそう仰いました。「もういつお呼びがかかっても恨みっこなしの私がイエスさまの救いに与っている」というのです。私があのときの姉妹の年齢になろうとしている今、それが解ってまいりました。

 そのような者として、いま最も大切なことは何か。頭の理解だけでなく、現実の問題として考えてみますと、先ず神さまの前に立つことができるかどうか。そのことであります。ヘブル書には、「聖くなければ、だれも主を見ることができません」とあります。やがて地上生涯を終えようとするとき、自分は主の前に聖いものであると納得できるなら何と幸いでしょうか。

 どうでしょう。「すべての人との平和」と「聖められること」を追い求めていますか。真剣に追い求める真実さを神は求めておられます。

 すべての人との平和を追い求めることは、平面的な横への広がりです。聖められるのは神との関係によってです。クリスチャンにはどちらもなければなりません。どちらか一方がいい加減であることはあり得ません。このふたつの調和を追い求めましょう。

 ビリーグラハム著『神との平和』はいいます。追い求めなければならない平和には三つあると。
第一は、「神との平和」です。これは、神の怒りの対象である罪を悔い改めて、十字架の贖いを信じるときに得られます。
第二は、「自分自身との平和」です。これは、罪が原因となって生じているあらゆる葛藤を、神の前に砕かれ罪を悔い改めることによって得られます。罪からの勝利を得ることです。神様に、心から感謝しますといえることが大切です。
第三は、「すべての人との平和」です。これは、第一、第二があってはじめて得ることができます。
人々との平和を築くには、先ず神との平和が必要なのです。神との平和を得たいなら、罪を解決することです。

 自分の力や努力でこれらを得ようとすれば、遅かれ早かれ、私たちは自分の力無さや意志の弱さに幻滅することになります。
 しかし、第二コリント12:9にはこうあります。

9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」
 弱くてもいい、足りなくてもいい、と聖書はいっています。それに打ちのめされず、それを認めて神の前に出るときに、神の強さはその弱いところ足りないところにこそあらわされる、そこにこそ神の力が全うされると神が仰っているのです。


 砕かれることです。この経験がないと、自分の意見に反抗し逆らう人々に対して腹を立て、赦すことができなくなります。往々にして身近である人にそうなりがちです。自我が解決されていないと、主張は正しくとも、言い表し方において正しくないことがあり得る。

 ステパノの殉教の場面を思い起こしてください。ステパノは、挙げて反対する人々に、旧約聖書を引きながら自らが正しいと思うことを綿々と主張しました。そして彼らが怒り狂って彼を石打にしたとき、彼は祈りました。「この罪を彼らに追わせないでください」と。これはほんとうに砕かれていなければできない祈りです。

聖くなければ、だれも主を見ることができません。

相手のために、ほんとうに祈ることができるかどうか、これがすべての試金石であるように思います。

※40分の説教を、約半分に編集しております。文責:中ぶんな

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墓参り

朝は肌寒いほどだったが、午後には強い日差しが。それでも26度、だいぶ涼しくなった。
写真をアップしながら俳句を詠んでみました。

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        食われたる葉に青き実やナラガシワ

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お参りに来る墓来ぬ墓アキアカネ

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薄たつ寂しき空とかたらひて

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湖に落ちて日輪われを射る

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健康であることのありがたさ

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   さて、今晩は果たして何時頃まで作業ができるかなと思いながら八時にパソコンの前に座る。
 半年前は体調が悪く、それが良くなったときには猛暑。昨日やっと30度を下回った。今日の予想気温は24度だったが、それよりは下回った気がする。一昨日の雨で一気に秋になだれこんだ気配だ。実のところ、眼の疲れはあるけれども、今こうして書くことができるようになるとは思わなかった。書けなくなることも覚悟していたのだ。健康を取り戻した有難さを覚える。
 夕暮れの空を雲が広く覆っていたが、西のほんの一所に鈍いそれでも十分に夕焼けの明るみを宿した雲が光っていた。
 虫の音が聞こえる。コオロギかスズムシか。昼にはトンボも見かけた。秋明菊やコスモスも咲いている。やっと秋がきたのだ。

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彫刻家 黒沼令



黒沼令(次男)埼玉大学で彫刻を学び、

福島大学大学院教育専修を修了。
現在 郡山女子短期大学 生活芸術科 彫刻の専任講師。


『渇き』 黒沼令 2000年制作

第85回国展(2011年)出品作品               「想う人」  《150x50x60cm・エゾ松、桂》

黒沼令は岩手県、福島県でも数々の賞を受賞しています。作品をもっと見たい方はこちらです。

黒沼令は私の友だち由美さんの二男です。ご子息の彫刻製作の様子を伺っておりますので、ご紹介させていただきました。本人は控えめで目立ちたがらないタイプと聞いています。

この「思う人」、私の好きな作品です。

 由美さんは絵画教室で教えておられます。ご主人も「造形舎」経営の傍ら、彫刻を製作、岩手県芸術祭彫刻部門で受賞しておられます。





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松見雅子・和子先生のヴァイオリン演奏ーエレクトーン伴奏:大志田行子先生ー

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松見先生方は双子の姉妹です。左が雅子先生、右が和子先生です。先生方はこれまで岩手大学オーケストラ、岩手県民オーケストラ、またさまざまなアンサンブルに参加し、ご活躍してこられました。現在は天神町でヴァイオリン教室を主宰しています。

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 きょう午後、この地域の自治会主催のいきいきサロンで、松見雅子先生、松見和子先生がボランティアでヴァイオリンを弾いてくださいました。エレクトーン伴奏は、大志田行子先生。皆様方とともに間近で聴くヴァイオリン二重奏はほんとうに素晴らしかったです。
 

   ♪演奏曲♪
☆エルガー『愛の挨拶』
☆バッハ『二つのヴァイオリンのための協奏曲』
☆ハンガリアン舞曲
☆モンティ『チャルダッシュ』
☆葉加瀬太郎『ひまわり』
☆『見上げてごらん夜の星を』
ーアンコールー
☆『アマポーラ(ひなげし)』


 バッハの演奏途中で雨が強くふってきました。それでなくとも湿度の高いきょうの午後、果たしてヴァイオリンは鳴ってくれるのか。しかしそんな心配は余所に、二台のヴァイオリンは凛凛と、繊細に力強く流麗に響きました。マツとカエデで製作されたヴァイオリンだということです。最後まで鳴り続けてくれたヴァイオリン。この会の終了時刻には雨もうそのように晴れ、行き帰りともに足を阻まれることなく、皆さま、またの機会を楽しみに和気藹藹と言葉を交わしながら帰ってゆかれました。

  

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ちっちゃな不思議

 ずっと9月とは思われない暑さが続いていましたが、きょうの夕暮れどきの盛岡の雲は、やっと雨をもたらしてくれるのではないかと期待できました。天気予報を見るとやはり雨マークが出ています。こんどこそ降ってくれるでしょう。
 昨日は午前中は友だちのお見舞い。大病をくぐり、今退院に向けて穏やかにときを過ごしている。私のために祈ってくれている。私や私の家族のために。土、日にかけて、誰かが祈っている、しきりにそんな気がしていた。疲れ気味のはずが、やるべきことを一通り割合楽にこなすことができたからだ。

 月曜日の早朝、何の番組をやっているかも調べずに、ここのところ早朝には見たことのないテレビを何気なく点けると、N響アワー。昨年のマーラーの「1000人の交響曲」の再放送だとすぐに気付いた。そして不思議なことに、あのとき息子と並んでバンダの端の前で聴いていたのだが、すぐに私と息子が入った場面が画面に映し出されたのだ。点けてほとんど同時である。わたしは、これが、きょうの神さまからのプレゼントだと思った。疲れた時は疲れた時で、ほんのちょっとした喜びをくれる。そして励ましてくれる。神さまはいつもそうだった。少なくとも私が何とか神さまの道を選択して歩みたいと願ったときからは、必ず小さな何かでご自分を確かめさせてくださった。そして励ましてくださった。
 疲れても疲れない振りなどしなくてもいい。やたら元気であると見せかける必要もない。疲れたと言うのを聞いておられる神さまは、次には、必ずほんのすこしの何かでご自分の存在を示される、そう思って間違いはないようです。

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水曜デッサン会絵画小品展№11☆2012/10/1(月)-15(月)画廊喫茶ママ☆

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 きのうの夕方に皆さまに案内の葉書を届けて回られていた大信田時子さん。我が家にも置いてくださいました。
 この絵画展とは関係はないのですが、そのときに面白い虫の幼虫がいるというので、またもや大信田さん宅に急行。奇怪なすがたを記憶に留めて帰宅。そしていま幼虫図鑑を検索したところ、どうもイラガの幼虫ではないかと思われます。
 しかしこの幼虫図鑑を見ても不思議がいっぱい。もしもこの図鑑に載っているような形態の生き物たちが、どでかい形をして森や林のそちこちに生息していたなら、おちおち暮らすことなどできないでしょう。それが、このように小さな形をして小枝や葉っぱの陰などに目立たないように棲息している。たしかにアメリカシロヒトリが大発生するなど、人を大慌てさせることもあるはあるのですが、私にはどうも天が、どうだい、こんな変わった形、おまえたちが吃驚するような珍妙な生き物もある、気味の悪さだって完璧さ、おまえたちにはこれらのどの一つも創造できないだろう、わたしは美しい花々、景色も創るが、こんな凄いものも創って驚かせることだってできるのさと誇らしげに仰っている気がするのです。

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きょうのことば『よき業に励もう』

 日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 9日の説教です。


http://vimeo.com/7644084 (テヌエク病院50周年の記念ビデオ)

説教題 『よき業に励もう』
聖書引証 ピリピ書4章1~9節

1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。
4 いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。主は近いのです。
6 何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
8 最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。
9 あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。


【説教】
 きょう引証しますピリピ書は、パウロがローマの獄中で、ピリピの教会に宛てて書いた手紙です。ピリピは当時ローマ帝国の植民都市でした。そしてパウロが神の導きによってエーゲ海を渡りマケドニヤ即ちヨーロッパに渡ってできた最初のキリスト教会です。パウロを受け入れたルデヤという婦人、そしてその家族が救われたことが教会の始まりでした。

 パウロは、占いの霊に憑かれた女を助けたことで、この地には受け入れ難い風習を広めて人々を混乱させているとしてムチで打たれ軟禁されてしまいます。このとき、ピリピ教会は、捧げものと、パウロの世話役としてエパフロデトを派遣しました。パウロは、ピリピ教会に何とか手紙で感謝の想いを伝えようとしたのがこのピリピ書です。
 ピリピ教会を構成していたのは、決して恵まれた階層の人々ではありませんでしたが、神によって心が備えられ救いに与った人たちでした。パウロの苦境を知り、何とか助けたいと代表でエパフロデトを送ったのです。

 ピリピ2:25~にはエパフロデトがどんなに身を粉にしてパウロに仕えたかが書かれています。

25 しかし、私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトは、あなたがたのところに送らねばならないと思っています。
26 彼は、あなたがたすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
27 ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
28 そこで、私は大急ぎで彼を送ります。あなたがたが彼に再び会って喜び、私も心配が少なくなるためです。
29 ですから、喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。
30 なぜなら、彼は、キリストの仕事のため、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼は私に対して、あなたがたが私に仕えることのできなかった分を果たそうとしたのです。

 エパフロデトは熱心のあまり、死ぬほどの病気に罹ったのです。そこでピリピの教会に戻ってもらうから彼を喜んで迎えるようにとパウロはいっています。

 そしてさらに、この手紙にはピリピへの感謝が溢れています。

ピリピ2:1515 ピリピの人たち。あなたがたも知っているとおり、私が福音を宣べ伝え始めたころ、マケドニヤを離れて行ったときには、私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、あなたがたのほかには一つもありませんでした。

 私たちがこのピリピの教会から学ぶのは、愛の業、愛に満ちている教会であることです。パウロはテサロニケなどいくつもの教会を開拓しましたが、パウロに愛の業をもっていちばん支援してくれたのは、ピリピの教会でした。パウロはいいます。

17 私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。
18 私は、すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたに贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。
 
 私たちはいま、ケニヤのテヌウェック病院を支援するために、バザーを開こうとしております。先々週にはギデオンに、今週はテヌウェックのために、そして来週は謝恩日聖日となっております。
 決して大きな教会ではありません。しかし愛のよき業に励みましょう。
ピリピ4:1が心に通っています。

1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
2 ユウオデヤに勧め、スントケに勧めます。あなたがたは、主にあって一致してください。
3 ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。

 
一致してください。どうか主にあって一つ心に一致協力しよき業に励みましょう。私たちは十字架の贖いの恵によって、天に名まえがしるされている者たちです。とするなら、主の御用のために、より一層はたらかせていただこうではありませんか。

 ここでインマヌエル綜合伝道団からテヌウェック病院に医療宣教師として派遣されている蔦田就子宣教師の世界宣教局への報告を御紹介いたします。

 7月1日は日曜日。 国境近くのガリッサにあるAIC教会とカトリック教会に手榴弾が投げ込まれ、死傷者が出たというニュースが入りました。その後の報告で、当地の教会員が恐 れずにいつものように礼拝を慕って集まっていた事、地域の教会が攻撃された教会に集まって交流会を持っていた事が報告され、福音の持つ力を見せて頂き逆に こちらが励まされました。

 翌2日、定時で 帰って早めに原稿を書こうと思っていた矢先、「酸素ボンベ無い?」と看護師が駆け込んで来ました。何事、と思う間に十代の女の子が運ばれて回復室で救命救 急処置、一時脈が戻りましたが脳死宣言。同時に運び込まれ手術を受けた女性も亡くなり、病院に運ばれた七人のうち五人の死亡確認、二人は重体。翌日にかけ て集まられたご親族に確認して頂いて所持品が無く仮の番号で呼ばれていた方々に名前が付き、書類作成、司法解剖や転院の手続きなどに走り回る事となりまし た。常の事も別のスタッフによって果たされた事、ご遺族への説明などに訓練を受けたチャプレンがあたって下さり、ご遺族にも頼りにされていた事、10歳前 後の犠牲者が多く悲しみの深い中、ご遺族が何度か「この病院でして頂いた事に感謝しています」と口にされた事等の感謝もありました。

 週末はアメリカか らの講師を迎えて女性大会。幸いなメッセージを頂きました。飛び入りの証で、クリスチャン家庭に育ち、偶像崇拝の濃い家庭と地域に嫁ぎ、ぶたれながら信仰 を守り、子供たちも導き、長男の成人式を教会でするように出来、「まだ信仰止めないのか」と聞きながらご主人が成人式に出席、と証され「もう主人は私の事 をぶたなくなりました。私は主人が大好きです」とニコニコと御証される姿に日本のクリスチャン女性の姿が重なり涙を禁じえませんでした。

 急遽ナイロビに行く事になった道中も守られ、車の不具合で数日滞在延長となった事で一息つけ、中古の部品で不具合も直り感謝でした。   

 他方、先日報告した同じスタッフが同じ問題で報告され、挑戦を感じた月でもありました。

祷告課題
(1)病院スタッフの霊的成長の為に
(2)病院の働きを通して福音が広がるように
(3)
天候や交通の安全と治安の為に(大統領選挙は来年の三月に延期になりました)

※40分の説教を約半分に編集しております。文責:中ぶんな

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主の祈り

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 そうだ、ちょっと忘れていた。こんなときには、そう、きょうはもう疲れてこれ以上何かをする元気がないなと思ったときには、これがあるじゃないの。

 「主の祈り」。この中には祈らなければならないこと、祈るべきことがぜんぶ入っている。こう祈りなさいと神さまがおしえている祈りなのだ。


       主の祈り

    天にいます私たちの父よ。
    御名があがめられますように。
    御国が来ますように。
    みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。
    私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
    私たちの負いめをお赦しください。
    私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。
    私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。
    国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。
    アーメン。

 ああ、きょうは大変だったな、もう気力、体力も尽きてすっからかん、ところが、そういうときこそ、実はどこかで誰かがその虚しさによって生かされていることが多いのだ。だから虚しいときこそ、それは虚しくはない。

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第3回ケニアテヌウェク病院チャリティーバザー☆2012/9/15( 土)13:00~15:00 インマヌエル盛岡キリスト教会☆

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► 3:08► 3:08

► 6:07► 6:07

↑クリックで、テヌウェク病院をご覧いただけます。

  ケニアのテヌウェク病院は、停電は日常茶飯事、医療器械、器具ばかりではなく、スタッフの不足という状況の中で医療が行われています。火傷で来る患者が多 いそうですが、火傷をして直ぐに病院に駆けつける方は少なく、ほとんどの方が悪化し重傷となってから来るために、包帯がいくらあっても足りません。

 インマヌエル盛岡キリスト教 会では、これを支援するために、婦人の方々全員で、使い終えたシーツ、蒲団カバーなど木綿の生地で10㌢幅の包帯を作り現地に送っています。どうして新し い包帯を送らないの?新しい包帯ですと関税が高くかかります。現地ではむしろ古布を利用した包帯の方を望んでいます。チャリティー バザーは、この運送料を捻出するために行っております。どうか、温かいご協力をお願い申し上げます。

 

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どこまでが、どのあたりがプロデュースの音?

 一枚の「レコード」とは、つまるところ「プロダクション」の産物である。演奏家はもちろん、録音エンジニア、デザイナー、宣伝担当…これらの人々はーその役割の違いはともかくとしてーみな「プロダクション」の一員であることにおいて変わりはない。「プロデゥーサー」とは、これらの人々を束ね、目指すべき理想を示し、その方向に導くいわば「扇の要」。よってプロデューサーが最初にどんな「最終形」をイメージするかで、、作品としての「レコード」は、中身もヴィジュアルも、大きく異なるものとなる。その意味で、その役割は、極めて重要である。今回はそんなプロヂューサーの中でも、「録音現場に立ち会い、音楽の内容に積極的にコミットする」プロデューサーを「レコーディング・プロデゥーサー」としてピックアップ、その「仕事ぶり」と「結果」に注目する。
                  ー以上、レコード芸術9月号からー

 上記でいう「レコード」は、SP、LP、CD、DVDなどを指すのだが、このような変遷を遂げるたびに、音がきれいになる、きれいになったと私は喜んでいた。ブルーレイディスクがどうであるかは、まだそれほど聴いてはいない。しかし、これが“組織ぐるみ”でプロデュースされていることに初めて何かしら違和感をもった。
 やはり生演奏を聴くべきなのだろう。ほんとうに音楽を聴きたい、ほんとうの演奏者の楽の音を聴こうとすれば生演奏しかない。この当たり前のことが、いまはひどく大切なことと思われてくる。
 ただ音盤とはこういうものと理解して楽しむならそれはそれでいいのだろう。殊にも、チケットをそうたびたび手に入れることが難しいこの者にとっては、たしかにディスクはありがたくもある。しかしそれを鵜呑みにしてはならない場合もあるのかもしれない。

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休符

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 きょうも、もうここまでだなと思いつつ、しかし何も書かないで終わってしまうのも悔しい気がして、パソコンから離れないでいるのだが。強烈な睡魔に逆らっているこの何分かが有益なのか無益なのかはわからない。有益か無益かも判然としないまま、とにかく続行している場合が人生には多くあるだろう。

 さて何を書こうか、レコーど芸術9月号に、グレン・グールドのアルバムが連続して出ることが浮かんだ。9/26、10/3、10/24、11/22、2013発売予定。このうち10/3はバッハだ。ソニー・クラシカル。心ひかれるアルバムだ。

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雑感ー立ち消えた雨予報ー

 きのうも、やっと雨が落ちてきたと喜んだのもつかの間、すぐに止んでしまった。きょうは雨予報がいつの間にか立ち消えていた。
 花巻に住んでいたときに、豊沢ダムが干上がり、底の凹凸に、昔の集落のすがたがしのばれたことがある。この渇水で、盛岡の水源となっているダムはどうなっているだろう。

 きょうは半日作業だった。当初書こうと思っていたことが、どうも今月末の締め切りには間に合いそうになく、とりあえず別な内容のものに差し替えることにした。文芸誌の締め切りは今月末だ。

 今晩ははやく休みたい。ぐっすりと眠りたい。あすも5時に起きられるだろうか。朝起きだして祈る。家族のこと、友だちのこと。ほかにもあれこれ祈って、小説のことは御意のままにだ。何かを犠牲にしてまでやることではない、そんな気もする。耳を澄ませば虫の音。ただうるさいだけだという人もいる。いやいい響きだ私は大好きだという人もいる。何れ両者で成り立っているのが一応のこの世なのだろう。たとえどうであれ、きょうのこの一日に感謝して締めくくるとしよう。

ヘイリーのアメージング・グレイス♪下をクリックしてください。

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第3回ケニアテヌウェク病院チャリティーバザー☆2012/9/15( 土)13:00~15:00 インマヌエル盛岡キリスト教会☆

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↑クリックで、テヌウェク病院をご覧いただけます。

  ケニアのテヌウェク病院は、停電は日常茶飯事、医療器械、器具ばかりではなく、スタッフの不足という状況の中で医療が行われています。火傷で来る患者が多 いそうですが、火傷をして直ぐに病院に駆けつける方は少なく、ほとんどの方が悪化し重傷となってから来るために、包帯がいくらあっても足りません。

 インマヌエル盛岡キリスト教 会では、これを支援するために、婦人の方々全員で、使い終えたシーツ、蒲団カバーなど木綿の生地で10㌢幅の包帯を作り現地に送っています。どうして新しい包帯を送らないの?新しい包帯ですと関税が高くかかります。現地ではむしろ古布を利用した包帯の方を望んでいます。チャリティー バザーは、この運送料を捻出するために行っております。どうか、温かいご協力をお願い申し上げます。

 


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きょうのことば『聖書的死生観』


日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012年9 2日の説教です。

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説教題『聖書的死生観』
聖書引証 ヨハネ伝14章19節

19 いましばらくで世はわたしを見なくなります。しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

【説教】
 突然に召天されましたY姉に対し、教会の皆様方とともに、心からの御葬儀を営ませていただいたのですが、このときにクリスチャンの死生観について考えることもまた大切であると思います。

 イエスさまが仰った「わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」というおことばが、ずっと心に響いております。このよみがえりであるイエスさまを、いよいよ心に更新できましたなら、きょうの私の役目は果たされると思われます。このことは、ヨハネ伝1章がベースとなるのですが、きょうはエゼキエル18:32を引きます。

32 わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて、生きよ。 
 
「悔い改めて、生きよ」。これが神さまが私たちに求めておられることです。

 「あなたは生きていますか?」
 この問いかけに、皆さん方は、当然、生きているからここにいる、とおっしゃるでしょう。これは生物的な意味で生きている命ということです。ここにまた
「あなたは生きていますか?」と同じ問いかけをされたなら、ほんとうの意味で生きているかどうかを問われていることに気付くでしょう。ほんとうの意味で生きている命とは、霊的な人格的な意味の生物的な命、即ち、ギリシャ語でビオスといわれる霊的な永遠の命のことです。

 いつか3人の石工のたとえ話をしたことがありました。3人のうち仕事の目的意識がはっきりとしている石工には仕事の喜びがありました。
 仕事に人生を重ねるなら、私たちの生きる目的は何でしょう。何のために生きているのか。それは自分を愛してくださっているお方を知るためです。
 私は1968年11月16日に悔い改め、イエス・キリストの十字架の愛を知ったときに生きるものとされました。この方によって私は生かされており、この方のために生きている。生きているということは、神を愛し神に愛されていることを知ることである、それを深く感じます。

 「みなさん、生きていますか?」
 そうです。このことがよくわかりますと、罪が問題となります。神とのまじわりを阻むものが罪です。それゆえ私たちは、生きているけれども死んだものとなっている。罪によって生ける屍となっている。
エゼキエル書にあります。
 「悔い改めて、生きよ」と。

 クリスチャンの死生観についてさらに見ていきましょう。
 私たちはある時点で死を経験します。そしてイエス・キリストの再臨のときに復活し、栄光のからだによみがえります。ここで問題は、死から復活までの中間状態を聖書はどういっているか。
 カトリックでは煉獄のときとしています。
 そのままでは聖い神の前にでることはできないので、ここで最終的に浄化され整えられるとしている。
 これに対しプロテスタントは、聖書は決してこのようにいっておらず、イエス・キリストの十字架への信仰による罪の許しによってのみ救われるとしています。
 またプロテスタントの中にも、「ステパノはかくいいて眠りにつけり」とか「眠れるものにつきては」を聖書中から引いて、人間の死後、魂は眠っ状態であるとする方々もあります。セブンスディー・アドベンティストがこの立場です。しかしこれは、死を象徴的にいい表したものであって聖書のいわんとするところとは違っています。
 

 ただ旧約聖書のなかでへブル語でシェオルといわれているのは、死後の世界の黄泉です。ギリシャ語ではハデスと訳されます。

 私たちが死んだ時、魂は肉体から分離すると聖書はいっています。そして聖書は、再臨のとき私たちの肉体が復活するといっています。肉体は今この世界に私たちが魂をいれて生きていくために必要な形態なのですが、これが栄光の復活の体の場合には、もう今の世の中のこの生活の制限を超えますから、はるかにそれに勝ったところの肉体が復活するのです。

 イエスさまが復活してから弟子たちに現れてくださったとき、イエスさまは弟子たちと一緒に食事を召しあがっています。このような体に私たちもなるのです。また復活したイエスさまは、扉に鍵をかけてあったのですが、それを超えて、扉や囲いといったものを通りぬけて弟子たちに現れてくださいました。そして幽霊じゃないよとトマスに触らせ確かめさせたのです。ですから、再臨の時、私たちが栄光の体になるのは確かです。これを聖書から引証しましょう。

ヨハネ5:25~29「25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。そして、聞く者は生きるのです。26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

ピリピ3:20~21「20 けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。21 キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。」

 さて、ヘブル語でシェオル、ギリシャ語でハデスと訳されている黄泉、これは先ほどもいいましたが、死と復活との間をさします。罪赦されていない、つまり救われていない人たちはハデスに行きます。またゲヘナというところがあります。これは最終的に永遠の刑罰を受けるところです。マタイ10:28には「28 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」とあります。ハデスは中間のところであり、ゲヘナは最後の決定的な審判、永遠の滅びの場所です。だからこれをほんとうに恐れなさいとイエスさまは仰るのです。

 それでは中間であるまだ救われていない人が過ごすハデス、黄泉と対極にあるところは、救われていて最終的な栄光の体になるときである再臨を待つクリスチャンたちはどこにいるのか。それはパラダイスです。パラダイスでは死と復活との間をキリストとともに過ごします。ここでイエスさまとともにあることはクリスチャンの望みです。

 パウロはピリピ1:21~23で言いました。「21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」

 この地上に残って福音をつたえ、豊かな実を結ぶこと、これも使命であり喜んで行うけれども、本音をいえば、はやくこの世を去ってイエスさまと一緒にいる祝福の方がはるかに勝っているとパウロはいっています。

 ルカ伝にあるラザロと乞食のはなしもあります。パラダイスを「アブラハムのふところ」と表現しています。この世では恵まれなかったラザロ。しかしラザロはパラダイスに入りました。金持ちは大層な葬儀はしましたが、行き着いた先は、誰もこんな苦しいところには来てもらいたくないというほどの場所でした。

 私たちクリスチャンは、もう死というトゲは取り去られています。たしかに肉体の死を経験しなければならないけれども、罪の裁きというトゲはすでに取り去られている。パウロと同じように、キリストとともにあることを、そう、私にとってははるかに勝ることなのだ、この生きる望み、喜びにしっかり根ざしていくのならば、私たちの信仰生活はいよいよ豊かになっていくものと思うことです。

※40分の説教を約半分に編集しています。文責:中ぶんな

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大井利江さんロンドン円盤投げ10位

ロンドン、円盤投げの 大井利江さんが、夕方テレビに登場し、支えてくださったみなさんにお返しできなかった、とコメント。反射的に、私は、そんなことないでしょ、と言ってしまった。北京からロンドンまでのたゆまない努力を見せてくれた。これは尋常なことではない。

 かくいう私は、きょうは少々疲れ気味。眼精疲労だ。たゆまずにこの1ページを埋めたいと思うものの、ここは休んだ方がいいかもとついつい自分を甘やかしている。

 五輪を目指す方々がどれほどに厳しく自分に練習を課しているかは驚異的ですらある。

 大井さんは、以前テレビ出演したとき、色紙に「会心一投 金メダル」と書かれた。私には、今回もそれに匹敵する「会心一投 10位」と思われたのだ。こんな時世に、目的を定めた一貫し諦めずに頑張る姿勢に元気をもらったということもあるが、このような姿勢は、世の中を浄化する作用も持ち合わせているように思う。

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第3回ケニアテヌウェク病院チャリティーバザー☆2012/9/15( 土)13:00~15:00 インマヌエル盛岡キリスト教会☆

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 ケニアのテヌウェク病院は、停電は日常茶飯事、医療器械、器具ばかりではなく、スタッフの不足という状況の中で医療が行われています。火傷で来る患者が多いそうですが、火傷をして直ぐに病院に駆けつける方は少なく、ほとんどの方が悪化し重傷となってから来るために、包帯がいくらあっても足りません。

 インマヌエル盛岡キリスト教会では、これを支援するために、婦人の方々全員で、使い終えたシーツ、蒲団カバーなど木綿の生地で10㌢幅の包帯を作り現地に送っています。チャリティーバザーは、この運送料を捻出するために行っております。どうか、温かいご協力をお願い申し上げます。

 

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おてあげ

 11時近かったがバイクで教会へ。行く途中に二回も救急車とすれ違った。一台は市内の、もう一台は県北からだった。事故のリスクを避けてきょうは街中を走る。盛岡市役所、岩手県庁前を通過。街路樹は栃の木だ。大木の影が車道にも大きく落ちている。木陰に入る瞬間だけは、直射に射られずに済む。中央通りを直進し、北上川に架かる夕顔瀬橋を渡る。水位は目立って低くなっているとは見えなかった。

 2時ごろに教会を出ると、待ちに待った雨が。ヘルメットを着けていると、別段濡れることは苦にもならない。やっとこれでダムには水がたまり、家の庭もくまなく水を受けられる。

 19時からの自治会関係の会議の実績からいうと端っこに出席。21時帰宅。各自治会でも役目を引き受けてくれる方がは減少傾向にあるらしい。しかし災害の大規模化に伴い、自治会組織を強化しておくことが、それぞれの命をも救うことにつながるのだという。

 さっきから教会のバザーの案内を載せようとしていたのだが、新システムをまだよく呑みこんでいないために失敗。時間を無駄に食ってしまった。もう時間も遅い。23時半。白旗をあげる。

 と書いてから、はたと思った。きょうは最初から、はやく休みなさい、ということだったのかも。

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「だから、僕もうれしい」ー鈴木孝幸、会心の銅ー

 3日、ロンドン、50㍍平泳ぎ決勝。鈴木孝幸選手は銅メダルだった。金は、ミカエル・シュフンマーカー(オランダ)。銀はミゲール・ルケ(スペイン)。鈴木孝幸は金を獲得したシュ フンマーカーを、爽やかな笑顔で祝福。頂点に立った喜びの大きさを知っている鈴木だからこそ、彼の喜びがわかり、心底祝福できたに違いない。一点の曇りもない銅に、心からのおめでとうを言いたい。
 鈴木孝幸は言った。
「シュフンマーカーもリケもいつも一緒に戦ってきた仲間。だから、 僕もうれしかった」

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 昨日は朝5時起きで、この町内に自治会が引き受けている広報物を配布。早朝にすれ違うのは、新聞配達の方、犬の散歩の方。終える頃になって、通学の子どもたち。そして子どもを学校に送ってくる車の縦列停車。

 日中は家の仕事やら自分の作業やらを取り混ぜてやっていた。一区切りがつくまでと、休み休みではあたが、4時ごろまで、ラフマニノフ2番を聴きながらの作業。それからジュンク堂へ。目的のSFマガジンが棚にない。訊くと売り切れだという。ほんとうに? 仕入れ冊数はわからないが確かなようだ。
 その帰りに、いつかアガバンサスを株分けしていただいたお店に立ち寄り、すこしばかりの買い物をし、「アガバンサス、ことしはなぜか咲きませんでした」というと、「こっちのアガバンサス、だめになって」と仰る。。責任を感じた。株分けしなければ死ななかったかもしれない。折を見てまた株分けでお返ししようと思う。去年の種を植えておいてよかった。この4本から大きな株が育つかもしれない。

 きょうは桃太郎トマトを49個、ミニトマトを16個、ゴーヤ4個、ピーマン3個収穫。冷蔵庫に入れるスペースがなく、テーブルに置いている。粗放農業でよくこれだけ実ったものだ。ここに個数を書かないですでにお腹に入れてしまったトマトは約40数個。酸っぱい葡萄も収穫。冷やすと何とか食べられそう。相変わらずヒヨドリが毎日やってくる。そしてやはり酸っぱい葡萄は食べない。庭に15,6本ものサンショウの木を育てており、キアゲハも飛来しているにも関わらず、そして幼虫がいるなと思っていると、すぐに姿を消してしまうのは、ヒヨドリやスズメが食べているからかもしれない。最近カラスはあまり来なくなった。

 サルスベリが見事に咲いている。

 きょうも終日、佐渡裕&辻井伸行のラフマニノフのピアノ協奏曲2番だった。音楽がきれいなところに来ると作業が手薄になり、作業が面白くなると音楽の聴き落としとなる。それでもまあまあ作業もし、音楽も聴いたというところで、きょうも無駄ではなかったかなと納得する。
 
 それにしてもこの雨の少なさ。夜7時に遠くに雷鳴を聞きはしたものの、その20分後に降ったのはぱらぱらと心もとなく、15分も続いたかどうか。花壇も小さな畑もかさかさに乾いている。

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世知辛さに通気口

 鈴木孝幸選手が150㍍個人メドレーで銅メダル。最初の背泳ぎは8位で折り返し、平泳ぎで6位、そして最後の自由形を泳ぎ切り、2分40秒24のタイムで銅メダル獲得!! 最下位からの追い上げだった。
 円盤投げの大井利江選手の試合は、たしか6日のはずだ。

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 世の中は厳しいニュースが蔓延。故井上ひさしは、悲しい苦しいはなしはいくらでもあって容易く出てくるが、おもしろいはなしは考えださないとないといっていたのを思い出す。オリンピックの放送があるあいだ、高校野球があるあいだは、世の中が賑やかで明るい。躍動感がある。しかし終わった途端にどこかしょぼんとしてしまう。スポーツは創り出したはなしではない。不断の努力によって鍛え上げたものだ。その頂点に立った人たちの戦いに、自らの内なる闘争心を投影させるがゆえに白熱するかにも見える。4年に一度でも、或いは年に何回か、こういった賑々しさもなければ、或いは、平板な日常が不安であるか、退屈であるか、つまらないかであるのかもしれない。

 月曜日はゆっくり休みたいと思っている。疲れ気味のときには、やはり目線が下向きになり、気がつくとネガティブになっていることがままある。そんなときには、スポーツ、イベントばかりではなく、音楽も有効だ。
 今晩は、佐渡裕と辻井伸行が肩を組んだ写真が収まっているCD、ラフマニノフの『ピアノ協奏曲第2番』を聴いている。最初の1音に凝った神経が緩んだ。自分をじゃがいもにたとえるなら、きょうはこのじゃがいもにゆっくりと熱が加えられて、しずかにしずかにやわらかくなっていく。音が温かな蒸気のようにぬくい。
 クラッシックとじゃがいも、私は真顔で、また幾分愉快に思いながら、きょうはほんとうにそう感じている。

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きょうのことば『生ける望みを持つ者』ーY姉御召天-

日曜日は、インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしています。きょうは2012826日の説教です。この日は事情あって教会に行きませんでしたが、CDに録っていただきました。

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説教題『生ける望みを持つ者』

聖書引証 第一ペテロ1章3~5節

3 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。
4
また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです
5
あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに表されるように用意されている救いをいただくのです。

―聖書朗読のあと、8月29日に天に召されたY姉妹の略歴と信仰の歩みが紹介されました。-

【説教】

突然のY姉の帰天でした。生活をともにしておられた方々には、とても現実とは思われなかったことと思います。御家族から、とにかくお母さんの気持ちを尊重した葬儀をとのお話があり、このたびのキリスト教での葬儀となりました。

火葬のときに待つあいだ、次女のT子さんがお話くださったことがあります。それは、お母さんの訃報を受け取ったちょうどそのとき、T子さんは、お母さんに連れられて教会に行ったときに歌った讃美歌『ジャイヤ・ボーロ』を歌いたくなり、ウェブ上で歌詞を検索している真っ最中だったというのです。『ジャイヤ・ボーロ』ってどういう意味ですかと訊かれました。これはインドのヒンディー語で、ただ単純に「イエスさま万歳!」と歌っている讃美歌ですとおこたえしました。不思議だと仰っていました。

Y姉妹の告別式のときに、第一ペテロ1章3~5節から『生ける望みを持つ者』と題して語らせていただきました。「生ける望み」を持つことができる根拠はどこにあるのでしょうか。単なる願いといった望みは、たとえば七夕の短冊に、こうあればいいな、こうあってほしいと書きますが、これは生ける望みというほどのものではない。

私たちの生ける望みというのは、「イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。」と3節にあるこれです。イエス・キリストの復活が、死に勝つ力、天国、永遠の命の根拠です。イエスさまの弟子たちが、殉教に至るまで福音を述べ伝える者と変えられたのは、イエスさまが事実よみがえられたことを目の当たりにしたからでした。これがあるからこそ、私たちは全世界に福音を述べ伝えるのです。私たちは空しい望みを持っているのではない。私たちの望みはキリストの復活に裏付けられていることを先ず心に留めましょう。

もうひとつ、第一ペテロ1章の3節には、「私たちを新しく生まれさせて」とあります。私たちがなぜ天国に対し、永遠に対して確かな望みを持つことができるのか、それは私たちの心の中に第二の誕生によって、新しい命が与えられている、生まれ変わっているからです。

ニコデモという人がイエスさまに、どうしたら神の国に入ることができるかと訊いた時、イエスさまは「人は新しく生まれなければ、神の国に入ることはできない」と仰いました。

第一ペテロ1章の3節、「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいましたとありますが、これは、私たちにとって決定的に大切なことです。

聖書に好意的な人生観を持っている人がクリスチャンなのではない。さらには、教会に行っているからクリスチャンなのではない。新しく生まれ変わって天国の命をほんとうに持っている人がクリスチャンなのです。

新しく生まれる、これは何も難しいことではありません。イエス・キリストが私の罪のために裁きを受けて下さったことを信じるのです。自分の罪を悔いあらためて、ほんとうは私が神さまの罰を受けて地獄に、滅びにいかなければならないところを、私に代わって神の裁きを受けてくださったイエスさま、ありがとうございますと信じることです。

信じたときに何か劇的な超自然的な経験をすることが新生なのではありません。聖書がいっていることを自分に当てはめて、「はい」と真心から応じるときに、神は新しく生まれさせてくださると聖書には書いてあります。新しい命を与えてくださるのは神さまです。

第一ペテロ1:3には、もうひとつ大切なことがあります。それは保障です。

生ける望みを持つようにしてくださいました

エペソ11214節にもあります。「12 それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

昔、不動産売買をするときに、契約が成立した証に一握りの土を相手方に渡しました。これが売買成立の保障でした。私たちが信じたときに、ちょうどこの一握りの土が心に与えられます。約束の聖霊が与えられます。

聖書には天国がどのようなところかさまざま書いてありますが、私たちは、まだ実際に天国を見たことはありません。しかし、イエスさまを信じて新しく生まれたときに、天国のまえあじわいとして新生の喜び、罪赦された喜び、神を愛し神を喜ぶ想いが心にあふれてきます。ですから生ける希望を持ちます。朽ちることも汚れることも消えてゆくこともない資産を私たちは受け継ぐようにさせていただいた。やがては私たちの故郷天国に帰る日が来る。これがクリスチャンの生ける望みなのです。

さて第一ペテロ123をご覧ください。

23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

私たちの生ける望みは、生ける神のことばに支えられています。私たちクリスチャンが何を土台に生ける望みを持つのか。それは聖書にある生ける神のことばです。

第一ペテロ24

4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。

イエス・キリストは死んでよみがえり、今も生きている石、生きて神の右の座に坐して生きておられるお方なのです。そしてイエスさまは仰る「わたしが生きるので、あなた方も生きるのです」と。

私たちの生ける望みというのは、生ける神のことば、そして生ける主イエス・キリストによって支えられているということを、どうぞしっかりと心に留めさせていただこうではありませんか。

※ 約40分間の説教を、半分に編集しております。文責:中ぶんな

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自分の腹を満たす分ばかりも

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 写真の不出来はともかくとして、自分の裏庭の一角に、こんな野菜が重量感をもって、枝にさがり、また土のうえに、まだ栄養のパイプラインをつけたまま悠然と転がって日差しを浴びていてくれるこの安心感!! 残念ながら、小麦、大豆、トウモロコシはありませんが。

 種をまき、実をならせることによる豊かさの実感。こればかりは、たとえスーパーに行っても産直に行っても味わうことはできません。そしてまた、農産物は、いつでもお金さえ出せば買えるというものでもない。経済大国? は農産物は輸入すればよいというものでもない。輸入できる相手国がいつも一定に農産物を生産できるとは限らないようです。

以下はYahoo! JAPANからの抜書きです。
 穀物の主要輸出国である米国が56年ぶりの大規模な干魃(かんばつ)に見舞われた影響などで、食料価格が上昇している。世界銀行が8月30日発表した報 告書によると、7月の世界の食料価格は全体で前月に比べて10%上昇。トウモロコシと小麦は25%も値上がりし、食料価格の高騰で世界各地に暴動が起こっ た2008年以降で最も高い水準に達したという。国内でも、食用油などに値上げの動きが広がり始めており、景気に減速感が漂う中、消費や企業業績への影響 が懸念される。

 日本の穀物調達はトウモロコシのほぼ全量を、大豆と小麦の約9割を輸入に頼っている。今回の干魃の局面を乗り切っても穀物高の潜 在リスクを抱える構図は同じで、これらの試みに象徴される普段の備えが企業には求められそうだ。(佐久間修志)
 

 これは、たまたま経済記事から拾ったので、「普段の備えが企業には求められそうだ」となっていますが、「企業」を「政府」と置き換えて読んでみました。

 自分の腹を満たす最低の分量ばかりも、自分で作らないと大変なことになりそうです。いま眠っている田畑をそのまま眠らせておくわけにはいかないようです。

 こうなると、農産物の価格を、大手スーパーに牛耳らせておいていいのでしょうか。苦労して育てた立派な農産物が、安く買いたたかれてしまうようでは、誰だって農作物を作ろうという気持ちがなくなります。

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