きょうのことば 『いったいこの方は』―東北聖会を越えてー
このブログでは日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えしています。きょうは2012年8月5日(日)の説教です。
説教題『いったいこの方は』―東北聖会を越えてー
聖書引証 マルコ伝4章35~41
【説教】
7月31日~8月2日に花巻市で開かれた東北聖会北聖会では、特に「試練ときよめ」というメッセージが取りつがれました。伊藤正泰先生、島田房子先生、田辺岩雄先生がご奉仕くださいました。島田先生とは聖会が終わってからもう一日を頂戴し、被災地をご案内いたしました。
津波は第1波、第2波、第3波とあったのですが、それがあったのは、あの3月11日に一回でした。一挙にすべてを失ってしまった方々が受けた心のダメージを津波という言葉でいうとしたら、実は、その後でも、この津波の第1波、第2波、第3波は、幾度も幾度も押し寄せていると私は思っています。心に押し寄せる津波は消えることがないかのようでしょう。これはボクシングで打たれ続けるボディブローのような津波です。
ここで聖書のマルコ伝4章35~41節にある「嵐のなかにおられる主」をお開きします。
35 さて、その日のこと、夕方になって、イエスは弟子たちに、「さあ、向こう岸へ渡ろう」と言われた。36 そこで弟子たちは、群集をあとに残し、舟に乗っておられるままで、イエスをお連れした。他の舟もイエスについて行った。37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水でいっぱいになった。38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして言った。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思わないのですか。」39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」
ここでイエスさまが「向こう岸に渡ろう」と言い出さなかったなら、彼らはこのような試みには遭わなかった。イエスさまが仰ったとおりにした結果、乗った舟で激しい突風に遭ってしまうのです。伊藤先生は、「クリスチャンになったらすべては順風満帆、ぜんぶがうまくいくと言うべきではない」とある老練なクリスチャンの方から注意されたことがあるそうです。よく御利益宗教は、それを信じればすべてがうまくいくと言います。しかし、聖書は、イエスさまを信じたならみなうまくいくとはいっていません。むしろ、イエスさまを信じたがゆえに、もし信じなかったらもっと気楽に生きられただろうにという場合も有り得る。信じたが故の試練に遭うこともあるのです。
では、この試練にはいったいどういう意味があるのか。私たちが試練に遭ったときには、本気になってイエスさまと向き合います。そのときにこそ、自らが問われ扱われるのです。そしてこのことを通して、イエスさまがどのようなお方であるかを一層深く知らされることになります。このことが無ければ知り得なかったことを知らされるのです。それが試練の持つ大きな意味です。
舟が波を被って、溺れそうになった弟子たちは、こんな事になるんじゃ信仰を持ってたって意味がないと泣き言をいいだします。イエスさまはどうされたか。見捨てませんでした。風を叱りつけて凪に変えたのです。そして彼らに言われた「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」と。
ここでイエスさまは、弟子たち、即ち私たちの信仰の暗闇に光をあて、またそこを鋤(すき)や鍬(くわ)で耕します。そして新たに、「風や湖までが言うことをきくとは」と、イエスさまがどういうお方であるかを知るのです。
これが神さまが、聖会の第一夜に伊藤正泰先生を通して、お語りくださった「信仰ときよめ」の内容でした。聖会にいらっしゃることができなかった方も、きょうのこのお話で恵を共有していただきたく思います。
伊藤先生が主題とされたロマ5:1、2を揚げます。
1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
私たちは、試練を通してキリストの十字架が、試練を受ける前よりももっと深くわかるものと変えられるでしょう。
「いまの苦しみと将来の望み」はロマ8:18~25にあります。
18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意思ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。25 もしまだ見ていないものを望んでいるなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。
神さまがアダムとエバをエデンに住まわせたとき、そこに罪はありませんでした。しかしやがてふたりが罪を犯すことによってすべての被造物は罪人となり罪に呻いています。そして被造物自体が贖われることを願っています。
いまのこの苦しみがなぜなのか分らないかも知れない。しかし神さまは御子イエスさまを十字架ののろいにまで架けてくださった。それほどに私たちを愛していてくださったのです。私たちは、この身が十字架によって贖われること、栄光の希望をほんとうに待ち望んでいるのです。だから私たちは試練に耐え、乗り越えていくことができるのです。
そして聖会の最後の集会では、第二コリント1章1~11から「慰めの神」が語られました。
1 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ、および兄弟テモテから、コリントにある神の教会、ならびにアカヤ全土にいるすべての聖徒たちへ。2 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。3 私たちが主イエス・キリストの父なる神、慈愛の父、すべての慰めの神がほめたたえられますように。
4 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。5 それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。6 もし私たちが苦しみに会うなら、それはあなたがたの慰めと救いのためです。もし私たちが慰めを受けるなら、それもあなたがたの慰めのためで、その慰めは、私たちが受けている苦難と同じ苦難に耐え抜く力をあなたがたに与えるのです。7 私たちがあなたがたについて抱いている望みは、動くことがありません。なぜなら、あなたがたが私たちと苦しみをともにしているように、慰めをもともにしていることを、私たちは知っているからです。8 兄弟たちよ。私たちがアジヤで会った苦しみについて、ぜひ知っておいてください。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、ついにいのちさえも危なくなり、9 ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。10 ところが神は、これほどの大きな死の危険から、私たちを救い出してくださいました。また将来も救い出してくださいます。なおも救い出してくださるという望みを、私たちはこの神に置いているのです。11 あなたがたも祈りによって、私たちを助けて協力してくださるでしょう。それは、多くの人々の祈りにより私たちに与えられた恵みについて、多くの人々が感謝をささげるようになるためです。
最後に、伊藤先生が語られた例話をもって締め括りましょう。
『夜と霧』の著者ヴィクトール・フランクルはユダヤ人でナチスのアウシュヴィッツ強制収容所の体験者です。精神科医としての立場でこの著書を著わしました。
彼は、極限状態にあるユダヤ人に、これからまさに死に追いやられようとしているその人に、「あなたはそれでも神を信じるんですか」と問われたとき、フランクルは答えました。「信じます。神がおられるからです」。
※この説教は、読みやすさを考慮し、約半分に編集してございます。文責:中ぶんな
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