加害者は往々にして過去を忘れることがあっても被害者は決して忘れはしない。
きょうは図書館にパソコンを持ち込んで10時から3時まで居座った。一緒に行った主人は館内のどこかで過ごしていたようだ。
ある必要から蔵書検索してみると、集蜜書庫に『満州の旅 1982長春・吉林』(文:北小路健、写真:渡部まなぶ )があった。
その中の北小路健の一文が目に留った。
「加害者は往々にして過去を忘れることがあっても被害者は決して忘れはしない。加害者の無神経さは、特に歴史の進展を逆転させることさえあることを肝に銘ずべきであろう。その上で我々は正々堂々と交わりたい。有耶無耶な卑屈さは、まことの友好につながることはあるまい。」
そして日本軍の満州に於ける加害のいくつかを挙げていたが、その一つが、撫順郊外平頂山に立つ〝胞殉難同遺骨館〟であった。
「昭和7年9月16日ーそれは満州事変勃発から殆ど1年を経過した時点にあたるのだが、抗日ゲリラの手引きをしたという情報に接した日本軍約200名が、この山麓の村を包囲し、800戸・3000余人の村民を一ヵ所に追い集めた上で、機関銃と小銃を乱射、それでもなお息のある者は銃剣で刺殺した。さらに死体の上にガソリンをかけて焼き、ダイナマイトで山を崩して土砂の下に隠蔽したという。ーこの日本軍国主義者の犯した憎むべき罪悪を暴露し、併せて殉難同胞の慰霊のために、遺体の一部を掘り出し、それをすっぽりと覆う形で遺骨館がたてられたのは、1971(昭和46)年のことである。これはまさしく〝日本のアウシュヴィッツ〟に外ならぬ。中秋節を祝った月餅が、黒焦げになってそっくりいくつも残っているし、子供を抱いた母親があり、また子の上に被いかぶさって守ろうとした親の姿態が、まざまざと想いみられる累々たる遺骨が目に入る。私はただただ絶句するほかなかった。聞けば、ここを訪れる観光客は、ほんの一握りだという。」
今夕のニュースを見ながら、これらのことが、鮮やかに浮かんだ。
そしてまた、自分の無神経さの数々を今更ながらに振り返り、あれは誤解であったやもしれぬ、勘違いであったかもしれない。相手を軽んじたわけではないが、思えば、ああいった自分の態度は失礼だったのだ……等々、さまざまに自分の不始末を振り返り、忸怩たる想いがしたのであった。
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