黙して語る死

きのうは亡くなられた教会の姉妹の前夜式が午後7時から、そしてきょうは11時から火葬、午後2時から告別式があった。
きょうは亡き姑の命日でもあり、早朝に墓参りを済ませた。そのときに主人の関係の方のお墓がこの墓地内にあるので同行した。この方は無宗教、当然墓碑には戒名はなく亡くなられた年月日と氏名年齢だけが刻まれていた。献体もした方だ。暮らし向きは見習うべき点の多い非常にきちんとした方であった。同じく無宗教の方で、一般には墓石に何々家の墓と大きく刻まれる箇所に、物理記号を刻んだ方のお墓もこの墓園にはある。
きょうの教会の告別式で、姉妹の学生時代の友人が弔辞に立ち、知り合ったときからこれまで姉妹は一度も人の悪口を言ったことがなかったことに驚いていると語られた。
また葬儀社の方とおはなしを交わすときがあったが、その方が、多くのお葬儀に関わったけれども、キリスト教会のお葬儀はみんなが手伝ってくれるので、とても安心できること、そしてどうしてこんなにみんながきれいな声で歌えるのか、また聖書からの話は心に深くはいるものがあると仰った。
わたしは椅子を並べたり、成り行きで下足のお手伝いをさせていただいた。靴をお預かりし番号札の半券をお渡しする。この仕事はとても大切であると思われた。舅の葬儀の時、番号札を出していたのだが、間違って履いて帰られた方があった。主人がだいたいの見当をつけて電話で何件か問い合わせたのだが探し出すことができなかった。弁償することにしたところ、その靴は或る方の記念として頂戴したものであり、その靴でなければ意味がないということを知った。こういうこともあるのだ。弁償の気持分を何とか受け取っていただくことで一応の決着はついたのだが、なくされた方の釈然としない気持はそのまま残っただろう。
今回の姉妹のご逝去を私は比較的冷静に受けとめていると自分では思っていた。しかし、昨夜は、姉妹のことが心に通い、なかなか眠れなかった。夜中の一時が過ぎ、2時が過ぎ、3時半となったとき、明日しなければならないことを思い、これは困ったなと思いながら、起き上がって牛乳を温めて飲んだ。この姉妹とはあまりお話をする機会がなく、ほんとうに彼女の温かいお人柄をあらわす笑顔が浮かぶだけなのだが、その笑顔が消えないのだった。それでも明け方の1時間半ほどは眠れたことにほっとしたのだが。いまになって、きよらかな人格をもった方の死は雄弁であると思われる。
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