きょうは何をしたっけ?
今日一日何をしていたっけ?
朝5時に起き、洗濯機を回し、外回りを掃き、鉢に水やり。アガバンサスはまだ咲かない。というよりも今年はもう咲かないのだろうか。春先に、昨年のアガバンサスの種を植えたものは4本が育っている。根が二股になってくれたところを見ると、本気で生きてくれるつもりらしい。
濃いめのコーヒーを庭のテーブルで飲み、そのまま教会の説教の起しをする。葡萄棚には葡萄の青い房が幾つも下がっている。熟しているかどうか摘んで口に放り込んでみるには及ばない。蜂が唸りながらとんで来たときが食べ頃である。
今朝の朝食は庭でだった。
説教の起しは、微力ながら社会に向かって何らかの役割を担いたいと毎週行っている。これを行うことによって、説教が右耳から左耳にただ通過してしまうのを防いでいる。多少なりとも自分を反省する。何処かについた埃が払われている。またこういったことにはやはり恩寵が伴うとやってきた結果実感している。
一段落したところで、セロのCDを聞き直す。
二男が昨日勤務地に戻っていった。キャンセル待ちで切符を取ってきていた。
そして昼食。
裏庭のトマト大17個、ミニトマト3個、ピーマン2個、ゴーヤ1個収穫。ゴーヤの形のすばらしさ。蝋をたらして造形したかの芸術的ななりをしている。ゴーヤの苗として手に入れた苗が、実はカボチャだよと正体を現わしてからの成長ぶりがすごかった。またたくまにスナックエンドウやキュウリやサヤインゲンの支柱を乗っ取ってしまい、それのみかトマト、ピーマン、果てはユリの領域侵犯までしでかし、たった一本の苗から幾つもの蔓が縦横無尽にのびるというふうで、いまもその勢いが止まない。10個ばかりも実がついているのを見たが、それらがどういう結末になるのか、手を掛けずに成り行きをとくと見せてもらうつもりでいる。
岩手にある管弦楽団の年誌やらネットやらを探訪。
暑い。蒸し器にでも入れられている気分だ。
近所の友人を誘い、教会の墓地である松園墓園に案内。ここは山の上にある。比較的過ごしやすかった。
滝沢の分れに向かいながらK種苗園に立ち寄る。営業はしていないが、秋に販売するためにポットに育てられた5センチ丈の花の苗が、開け放たれたハウスいっぱいに敷き詰めたように置かれている。壮観だった。クーラーは用いず、ハウスのビニールを上げ下げするだけの温度管理と聞いた。どれも見事に活き活きしている。実にすばらしい眺めだ。その足で詩の喫茶店「僕らの理由」の大坪さんに立ち寄り、コーヒーは飲まずにすぐ失礼したが、詩人西一知氏の詩集を一冊申し受ける。詩の同人の方々が詩誌の編集の真っ最中だった。喫茶店の下のこじんまりとした庭には西さんの文学碑が建立されている。
同行してもらった彼女のためにアネックスカワトクに立ち寄り、またホーマックに立ち寄る。また秋まきの種を買い込んでしまった。
夕方に来客。
夕食。
NHKの懐かしの歌謡曲をついつい聴いてしまった。弘田三枝子、ああ、高橋克彦氏の出版パーティーに来ていたっけ。このくらいの年齢でこれだけ歌える、やはりプロは凄いとあのとき思った。高橋氏がファンだという。いま海外でヒットしているのはこれか、「夜明けのスキャット」。しかしクラッシック人口はなぜ少ない? そうだあの本、佐渡裕の「僕はいかにして指揮者になったか」、みんながこんな本でも読んでくれたら、それじゃ、ちょっと聴いてみましょか、などという気になるかもと思うも、既に7刷でているものを、なぜここで宣伝する必要があるかなどと思ううちに9時。
自分の歌える歌謡曲はといえば、加山雄三の「海、その愛」。さらに遡れば、これはもう自分の懐メロというのではないが、「丘を越えて」、「宵待草」等々、若干セピア色がかっているようで、実は曲そのものとして存在しつづけるこの不思議さ。
23時に近いいま、風が吹き込みまずまず涼しくなってきている。
何をどう過ごしたかすっきりとしないきょう一日をざっと書き出してみると、どうもこのような動きをしていたようだ。ほんとうは図書館にでも避難するのが良かったのだろう。
あすは日曜日。予想気温は33度であったかと思う。
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