きょうのことば 『患難さえも喜ぶ』―東北聖会を越えて②―
このブログでは日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えしています。今日は2012年8月12日(日)の礼拝説教です。
説教題『患難さえも喜ぶ』―東北聖会を越えて②―
聖書引証 ローマ書5章1~11節
1 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。
【説教】
きょうは東北聖会北聖会で伊藤正泰先生が語られた第二日目の説教「希望を生み出す患難」を通し、私なりにこれを反芻し、神さまから頂いた恵をご紹介いたします。
ローマ5:2、3に「神の栄光を望んで大いに喜んでいます。そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。」とあります。ふつうは「患難」と「喜び」は対極にあります。それをクリスチャンは「患難を喜ぶ」というのです。これはどういうことなのでしょうか。
イエスさまは患難とどのように向き合われたか、解決のカギはここにあります。
ヘブル12:2に「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」とあります。イエスさまにとって、十字架をしのぶというこれ以上の患難はなかったでしょう。しかしイエスさまは、この患難をしのんで勝利されました。
私たちは患難に直面すると、どうしてなのかと落ち込んだり失望したりすることがあります。しかしイエスさまのように喜んでこれを乗り越えることができる。ではこのイエスさまの喜びとは何なのでしょうか。これは父なる神さまの御意(みこころ)を行うという喜びです。使徒たちもイエスさまの御名のために苦しむ者とされたことを喜んでいました。
神の御意を行うとき、私たちは苦しみを受けたとしても、それは喜びとなっていきます。イエスさまにあっては、「患難」は「喜び」なのです。
ここでイエスさまと患難について考えてみましょう。
私たちの場合には、苦難、患難、試練に遭うのは大方罪が原因です。ついさまざまな誘惑に陥って罪を犯してしまう。パチンコ店に入り浸り、ギャンブルから抜け出せなくなった例もあるでしょう。これはそう特別な例ではないように思います。そこから生じる金銭トラブル、或いは人間関係の破綻。このような罪の帰結は、イエスさまの苦難、患難、試練と並べることはできない質のものです。ただ当人にとっては大きな苦しみであることは間違いない。
ではこの患難をどのように乗り越えたらいいのでしょう。それははっきりしています。神の御前に罪を悔い改めイエスさまを信じることです。
あのような困難に遭ったからこそ、キリストの救いに与ることができたという方が、どれほど多くいることでしょうか。ギャンブルの、アルコール依存症の泥沼から救われた方々がたくさんいらっしゃいます。救われるのです。イエスさまへの信仰によって救われるのです。これに続いて次つぎに多くの方々が導かれたなら何と幸いでしょう。
やはりこの教団で救われました渡辺倉造勧士は、酒を飲みどぶ板枕に寝ていたこともある兄弟でした。よく「蔦田真理牧師はアメリカのホートン大学を出て牧師になったが、私も負けてはいない、私は放蕩大学を出てイエスさまに救われた」と証ししておられたことを懐かしく思い出します。渡辺勧士もその試練があったからこそ、あのような素晴らしい生涯に移っていったことです。
罪が原因である苦難、患難、試練には、悔い改めてイエス・キリストの十字架の救いに与ることによる解決の道があります。
しかしもう一つ、私たちは、理由のわからない、不条理としか思われない患難に直面することがあります。
生まれながら目が見えず、乞食をしていたひとに、イエスさまは、「神の栄光がこのひとに現れるため」といって、目が見えるようにしてくださったという聖書の記事がありますが、しかし、私たちは、なぜこのような肉体的な弱さをと苦しむことがあります。また自分が置かれた環境的な不条理もあるでしょう。なぜこのような災害を受けなければならなかったか、理由がわからない。もっと罪深い人たちだっていっぱいいるというのに、なぜ私なのか。
それと信仰のゆえの患難があります。クリスチャン信仰ゆえに嘲笑、迫害、不利益を受けることがあります。このように、私たちが世の中にある限り必ず試練がある。この世では患難がある。
「しかし勇気をだしなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」とイエスさまは仰っています。
理由のわからない患難にどう立ち向かったらいいのか。
私は敢て言います。患難の理由はわからなくていい、わかる必要はないと。私たちにわからないことはいっぱいある。しかし、それを別な角度から見直すとき、視点を変えてみるとき、腑に落ちるものがある。
中学校の幾何で図形の問題を解こうとするとき、一本の補助線を引くことがある。それで問題の解決が見えます。こういうことだったかと納得します。信仰はちょうどこの補助線なのです。信仰の補助線を引いておけば、天国に行って、ああこういうことだったのかと解ることになる。神さまの側ではすでに解決済みなのですが、今はわからない。しかし神さまの最善を信じ、神さまに委ねるというこの補助線を引くときに、もうすでに問題は解決しているのです。とあり、
ヤコブ1:12には「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」
ローマ5:8~11には「8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいるのです。」とあります。
なぜこの苦難が、患難が、不条理がと問いかけたときに、私は回答を得ました。それは、有史以来、キリストの十字架ほど不条理なできごとはないということです。神の愛するひとり子が、神に敵対していた私たちのために命を捨てたという事実。情け深い人のためなら自分の命を捨てる人も或いはいるかもしれない。しかし敵対している者のために御自身を捨てて私たちの罪の身代わりとして十字架の苦しみをその身に負われた。これほどの不条理がいったいあるでしょうか。この不条理のまえには、私たちの疑問や当惑は沈黙するのです。信仰という補助線と言いましたけれども、それはキリストの十字架のことです。これを引いたときに、私たちの疑問、当惑は沈黙します。
私たちが、なぜ今このような苦しみに遭わねばならないのか。なぜあの人ではなく私なのだろうと思うことがあるでしょう。しかし、キリストの十字架がわかったときに、それらが腑に落ちるのです。
旧約聖書に、ヨブという人物が出てきます。彼の時代にあって、彼ほど正しい人はいませんでした。しかし次つぎに彼のあずかり知らぬ理不尽な出来事が起ります。ヨブの友人たちは、或る者は善意で、或る者は裁判官のように、彼らなりの人生観、価値観をもって、ヨブにそのことを説明します。しかし、ヨブが言いたかったことは何でしょう。それは「苦難の理由はわからなくていい」、このことではなかったでしょうか。「ヨブ、わかったか」と神さまはヨブにご自身を示されました。「ヨブ、わたしだよ、わたしは神だよ」。「やっぱりあなたは、あなただったんですね」とヨブ。ヨブはもうそれで十分だったのです。もしヨブ記がこのような主題のもとに書かれたとすれば、このヨブ記こそは、新訳を解くカギであるような気がしています。
私たちは何故なのかはわからなくていい。イエスさまの十字架がわかったときに、それで十分なのです。
「わかりました。わたしは口をとざします」
イエスさまが十字架の贖いというこれほどの不条理を私たちのために成してくださったとするのなら、私たちはこの苦難を通して神を喜ぶという幸いに与るのです。
※この説教は読みやすさを考慮し、約半分の長さに編集しております。
文責:中ぶんな
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