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きょうはサン=サーンスの大伽藍

 けさは朝4時半起床で半日は家事。早朝の墓参り。昨日午前中に二男が帰省。すこしはきれいなところに、すこしは美味しいものをと心配りを(したつもりだが)。
 「何が食べたい?」と訊く。「何をしたい?」とは訊かない。スケジュールはいつも決めてから帰ってきている。
 「きのこのお汁が食べたい」 といわれ、内心マツタケは高いな~と算段するうちに、はたと気づいた。エノキダケのことだ。エノキダケと豆腐の味噌汁。とにかく作った汁物が食べたいらしい。インスタント味噌汁で間に合わせていたのだろう。

 連日すこし遅いめの就寝ですこし疲れ気味。もうすこし体力が欲しいなと思う。しかし持てるだけの体力にうまくつき合っていかなければならないのだ。

 庭の石の上に置いた月下美人の花芽が出ていることに気づいていたのだが、去年のように家の中に入れないでしまった。きょう見ると、咲き終えた月下美人の花房が垂れ下がっていた。咲きはじめることを予告していたものを。花開いた瞬間を見逃してしまった。何か申し訳ないような気持がした。

 ずっとチェンバロ、チェロが続いた。きょうはサン=サーンス。交響曲第3番(オルガン付き)たしかに見上げるような大伽藍の下に自分が立っている、そんな心地よい錯覚をくれる。
 聴きながら、民謡というものが主に第一次産業に従事する人々のあいだに生まれたことをなぜか思い出した。土や森や林、海とそして光との、そして対価である穀物や野菜、果物、木材、魚との関わり、労働の汗から自然発生的に生まれたものといっていいのだろうか。
 一方作曲家たちが曲を産み出そうと向かうのは先ず先人達の名曲。環境、経験、学びによって培われた感情を潜らせ、呼び出し、そして五線譜に向かい書き付ける。幾多の推敲を経て曲は完成する。
 現代の民謡は、すでに労働からはかけ離れあらゆる曲想にアレンジされた、謂わば「芸謡」ともいうべきものだという。
 民謡は、もしかすれば、そのように生きてみなければ決してわかって歌い聴くことはできないのかもしれない。民謡の根底には労働の苦しみがある、そんな気がする。 

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