吉田秀和氏のハイフェッツ
よくCDを聴きながらパソコンを打っている。何かをしながら音楽を聴くのは、これが確かに滋養になったという実感が得られないために物足りなさが残る。しかし、じっくり音楽ばかりを聴いているわけにもいかない。それをやっていると生活全般が停滞してしまうのだ。それといまあるCDをほとんど聴かないうちに一生が終わってしまいそうだ。それよりは、“ながら”でも聴かないよりは聴いたほうがいい。実際何かをしながらでも、音がないよりは心地よく、神経系が素直になるのを覚える。
ここのところ、ずっとバッハのチェンバロ協奏曲第1~4番の日々、カール・リヒターだ。奏者もさることながら、チェンバロという楽器の典雅な響きに捕まってしまったというのが本音だ。
わたしは常々、CDを聴いただけで生演奏も聴かずに演奏を聴いたと言えるのだろうかと疑問だった。しかしチケットはなかなかに高く、小遣いを他に使いたいことがなければ、ぜんぶ音楽に注ぎ込んでしまってもいいだろうが、他にもあれもこれもとなれば、そうそうコンサートにばかり投じてもいられない現実がある。音楽評論をなさっている方々はさぞやチケットもCDも舞い込みコンサートにいくのに支障を来すということなど無いだろうと思いこんでいた。
ところがレコード芸術7月号を開いてみると、2012年5月22日に亡くなられた吉田秀和氏が野村あらえびすについてこう語っておられる。
「あの方はー私の想像では、多分ーたいていの演奏論は、ただレコードをきいただけの経験から書いていたのであって、実際に演奏にふれた上での話はほとんどなかったのではないかしら?」
吉田秀和氏は最期まで、あらえびすを音楽評論家として信頼に足る位置に置いていたように思う。またあらえびすが評価し選んだSPレコードは『あらえびすSP名曲決定盤』として10枚組のCDが発売されており、著書もまた復刻版が出ている。
あらえびすのお薦めに、やはりハイフェッツが入っている。
ハイフェッツのヴァイオリンに関して吉田秀和氏は、
「やっぱりハイフェッツは、まず、音。どの音もたっぷり、少したっぷりすぎるかも知れないほど滋味豊かで、おいしいヴィブラートのかかった音。しかも無類の厳密さで弾きわけられた音程と音色の多彩極まりない音。胸のすくような透明度を具えた音。」
また
「ヴァイオリンのハイフェッツとピアノのホロヴィッツは20世紀前半の演奏の一つの頂点を築いたものとして、好一対なのだ。…解釈の点では、難点があったかもしれない。でも美しい磨かれきった音をつくった。この点では他の誰も及ばない。」
私がヤッシャ・ハイフェッツに興味をもったのは、盛岡市の弦楽四重奏団のはしりである太田カルテットが、大正12年11月に来日したときのヤッシャ・ハイフェッツの演奏を聴いているはずだと考えたのがきっかけだった。
これは大正12年9月1日の関東大震災のチャリティーのためにやってきたのだが、そのときの彼の演奏がどれほどに素晴らしいものであったかを思う。
ハイフェッツをこのように評した吉田秀和氏でさえ、ハイフェッツの生演奏を聴いたのは生涯にたった一度だけで、ニューヨークのブロンクスのホールだったらしい。既に全盛を過ぎ、伝説化した「完璧さ」に翳りがでかけていた時期だった。それでも音盤に従って吉田氏はハイフェッツを上記のように評価している。
大正12年の焼土と化した東京でのハイフェッツの演奏がどれほどすばらしいものであったかを思うと胸が熱くなる。
チェンバロは今日で区切りをつけ、明日からはまたハイフェッツ復刻盤を聴くことになるだろう。
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