きょうのことば 『不退転の祈りこそ』
毎日曜日は、私が行っているインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けしています。何らかの参考になればと願っております。きょうは2012年7月22日(日)の説教です。
説教題 『不退転の祈りこそ』
聖書引証 マルコ伝10:46~52
46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
【説教】
大分県の別府教会の徳田先生ご夫妻と4人の会員の方々が、23日に、3・11の被災地の視察にいらっしゃいます。別府教会はすぐ目の前が海であり、また教会の敷地内に活断層が走っていることも分っております。南海トラフが予測されておりますが、これに備えるための視察です。3・11のとき、別府教会からも格別な祈りと支援をいただいております。
一日という限られた日程で、津波の脅威を最大限に捉えることのできるご案内をしたく願っておりますが、花巻、東和、遠野から釜石に入り、唐丹町にできた津波の祈念碑を回り、釜石の高橋先生に連絡を取ってありますのでご意見をいただきながら鵜住居の防災センターを見ていただき、大槌町役場、山田、そして宮古コミュニティーチャーチの岩塚牧師のお話を伺ってから盛岡に戻るつもりでおります。
どうか明日、目的が果たされますようにお祈りいただきたいと思います。
7月のはじめにはMAYさんの特集を持ち、初めての方々をお迎えすることができました。またバザーの御協力をチラシで求めたところ、ご近所の方々から供出品が寄せられました。教会の営みが好意的に受け入れられております。私たちが特集をしたり、夏の聖会をしたり、或いは10月にも特集をもちますが、いったい私たちは神さまに何を求めたらいいのか。何を求めようとしているのか。そこできょうはマルコ伝の10章、「バルテマイの癒し」という標題で括られるこの箇所をお開きしております。バルテマイという名が出ているのは、四福音書のなかではマルコ伝だけです。マルコ伝10章と同じ内容の記事がマタイ伝20章とルカ伝18章にあります。それぞれを見ながら、どういうポイントがあるか、内容を立体的に捉えてみましょう。
先ずマタイ20:29には「彼らがエリコを出ていくと」。マルコ10:46「彼らはエリコに来た」。ルカ18:35「エリコに近づかれた」。このところです。
ちょうど私が信仰に導かれた当時に、丸の内教会でマタイ伝の連続講開をしておりました。ちょうどマタイ20章でした。いったいエリコに近づいたのか、出たのか、どうなのかが語られていたのです。さまざまな説が語られていましたが、ただ面白いなと思ったのは、マタイ20には「ふたりの盲人が」とある。マルコ10には「バルテマイという盲人」とバルテマイに焦点が合っている。ルカ18では「ある盲人が」とあります。果たして盲人の方が1人なのか2人なのか、極端に解釈すると同じようなことがふたつあったのか、解釈はやはりさまざまです。何れ2人いたのでしょう。そして代表的にこのバルテマイが印象的な取り扱われ方をしているので、この人物に焦点をあてようと思います。
三つの福音書に共通しているのは、「ダビデの子」という呼びかけです。
このときのイエスさまのお心は、人々から退けられ、しかし私は贖いのために来たのだという使命感をもってエリコに近づき、そしてエルサレムに向かおうとしている。そこに、世の中から顧みられない、道ばたで物乞いをしている人たちが、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
ユダヤの人たちにとって、ダビデというのは、やがて来るメシヤはダビデの子孫から出るという民族的な待ち望みの称号なのです。この「ダビデの子よ」という呼びかけが、学者パリサイ人、その時代の権力者、知識人から発せられるのではなく、むしろ、その時代にのけ者にされているような人々たちが、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と斯くも叫びたてた。イエスさまがこれをどれほど意義深く受けとめ、これにどれほど慰められたことでしょうか。そしてイエスさまは立ち止まって言われます。「あの人を呼んで来なさい」。お呼びがかかったのです。さらに言われました。「わたしに何をしてほしいのか」。このときのバルテマイの反応がおもしろい。彼は上着を着けるんじゃなくて、脱ぎ捨ててイエスさまのところにすっ飛んでいった。「先生。目が見えるようになることです」。目を開けてください、見えるようにして欲しいんですと彼は言った。イエスさまの心をぐっと掴んで離さないこのバルテマイの叫び。イエスさまはこれを聞き入れて、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。
私たちはこのバルテマイのように叫んでいるでしょうか。イエスさまの近くには、この他にも多くの群衆がいたのです。しかしこのような恵を受けることができませんでした。イエスさまに切実に叫ぶとき、大きな業をなしてくださるのです。
よく「あわれんでください」とお祈りします。イエスさまはそのとき、「それをもっと詳しく明確に何々をして欲しいと言ってご覧」と言われる。勿論、「あわれんでください」と祈ることが適切であり、そうとしか祈れない場合があります。それは十分に承知しながら、否それをしっかりと受けとめた上で、尚私たちが何かを具体的に進めていこうとするとき、課題を一括りにしてイエスさまの前にどんと持ち出すのではなく、イエスさまは、それをほどくのを待って、「何をしてもらいたいのか」と扱ってくださる。何をしてもらいたいのか。バルテマイは他の人々が黙らせようとしても叫び立てて訴えつづけた。これがイエスさまのお心に通じたのです。私たちは、このバルテマイのような祈りを捧げることができるでしょうか。
パウロはローマ8:32に、「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とこう記しています。
「何をしてほしいのか」と訊いているのは神の御子です。そのお方が、あなたは本気か? わたしに本気で願っているのか? それをわたしが聞き入れても聞き入れなくとも、どちらでもいいのか? 本気で祈っているのか? と問うておられる。私たちは渇きをもって、切実に主に求めましょう。
「何を求めるのか」とイエスさまに言われたときに、「どうか、この夏に救われる方が起りますように」。そして「何をして欲しいのか」と問われたときに、「どうか救われて受洗者が与えられますように」と率直に神さまの前にお祈りをしていきたいと思うのです。これがもし単に利己的な競争心や野心、名誉欲や栄達、比較のためだとしたら、祈っていても力がありません。人間的な思いをぜんぶ洗われて、ただ神さまの御栄光のために、この夏、救われる魂、受洗する方々を皆さまとご一緒に求めていきたいと思います。勿論、健康のこと、職場のこと、経済のこと、その他諸々を祈ってもよいのです。そして私たちは先ずいちばんに神さまの御栄光のために、イエスさまを信じて救われる魂、受洗する魂を祈り求めましょう。
「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」
※この説教は約半分に編集してございます。文責:中ぶんな
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