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2012年7月

存在証明

 日本時間午前5時からのロンドン五輪開会式のフィナーレを飾ったビートルズのヒット曲「ヘイ・ジュード」。ポール・マッカトニーの健在ぶり、スタジアム6万人が永遠に終わってほしくない世紀のライブに陶酔した。流石に侵略の歴史は見えてはこなかったが、英国ならではのプロデュースに共感もしながら、実は自分のしごともしながら観ていたのだが、いま真っ先に甦るのが最後の場面である。

 北京のときにはどこの国が数多くメダルを揚げるかが興味だった。日本にできるだけ多く取ってほしい、衰退日本は見たくない。せめてアジアでトップであってくれ、それが無理ならどこそれの国にだけは負けてくれるな。
 「あれから40年」といえば綾小路きみまろの台詞だが、あれから4年。どう変わったかと言えば、「北島康介、男子平泳ぎ決勝5着に終わる」といったニュースなどには何か腹がたってくるのだ。「しかし」とつづくことば。本人も期待を背負ってどれほどハードなメニューをこなし調整怠らずに臨んだかことか。そういった報道の仕方に本人の気持なってみると、何かがじわりとこみ上げるのだ。ではどう言えばいいのかと問われても答はないのだが。何れメダルの数はそれは多ければそれにこしたことはないけれど、メダルじゃなくたっていい、もうオリンピックに出ただけで大したもんじゃない。そんな心境になっている。
 
 きょう松本薫が女子柔道57キロ級で日本に初の金メダルをもたらした。凄いことだと思った。女子が格闘技で世界一。世の中変わったのだなと思う。なでしこにしても日本の若い女の子達のこの強さには脱帽でもあり、最早ついてはいけないという思いもないではない。女性の中にあのようなリアルな闘争心を見たのは松本選手が初めてである。

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 きょうは午前中は地区担当員として月2回の広報物の配布で町内を一巡。これもまた予測だにしなかった役目をさせていただいている。午後は1時間ばかり近所の方のところでコーヒーブレイク。あとは台所の片付けや鍋、薬罐研き、冷蔵庫のそうじなど。夕方50㏄で明日のための買い物に。肴町のアーケードに入ったところで雨が降り出し、買い物を終えて帰ろうとしたところで、これがほんとうに晴れていたので難なく帰宅。去年までは暑さが辛かった。ぐったりと過ごしていた。ところが今年は暑い盛りに働くことや歩くことがさほど苦痛ではなくなっている。

 かくいうあいだに、7月も終わろうとしている。あすは聖会に一泊で参加、ブログの更新はできない。ブログ書きはわたしの存在、稼働証明みたいなものだ。

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弦楽の灯

  昭和30年、この盛岡にトリオが生まれた。正確にいえば、その昔、大正にも仁王トリオが存在した。セロ梅村保、ヴァイオリン原彬、ピアノ下総覚三だった。昭和30年のトリオはチェロ村井正一(ラジオ商)、ヴァイオリン小柳達男(岩手大学教授)、ヴィオラ内藤裕一(県庁職員)だった。5月29日に県教育会館で“試演会”というのを開いている。曲目はヴェートーヴェン作品八 セレナーデニ長調。

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 これ以前、戦前にも、村井正一氏は度々カルテットを組んでいる。ところがメンバーは幾度も交替。それでも村井氏は何とか陣容を整えてはカルテットの灯を絶やすまいと尽力してきている。板谷英紀氏がどこかのコラムに、これを“村井氏の芸術的欲求から”と書いておられた。この村井氏が岩手県民オーケストラの立ち上げにも大きく関与されている。
 どこまでこの音楽の軌跡をひろっていくことができるかは予測しかねるが、少しずつでも検証してみたいと思っている。

 それできょうも図書館へ行ってみたが、空振り。といっても昭和31年頃のアマチュア無線の人気、また村の全戸にラジオが入ったときの様子などがわかり、これは村井氏の生業との関連事項、これはこれで面白かった。それと何といっても図書館のほうが過ごしやすい。午前は台所のガラス拭きで汗を流し、午後は図書館で涼んだとこういった一日だった。

 ところで、土曜日には盛岡第四高校のコンサートがあったようだ。賛助出演が梅村圭一、隆一、智佳子の三氏。知ったときには既にアーサー・ホーランド牧師の講演に行くことを決めていたのと、また夜でもありコンサート会場がちょっと遠いので残念だったけれども行かないでしまった。

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きょうのことば 『不退転の祈りこそ』

 毎日曜日は、私が行っているインマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けしています。何らかの参考になればと願っております。きょうは2012年7月22日(日)の説教です。

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説教題 『不退転の祈りこそ』
聖書引証 マルコ伝10:46~52

46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群集といっしょにエリコを出られると、テマイの子バルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐに立ち上がって、イエスのところに来た。
51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

【説教】
大分県の別府教会の徳田先生ご夫妻と4人の会員の方々が、23日に、3・11の被災地の視察にいらっしゃいます。別府教会はすぐ目の前が海であり、また教会の敷地内に活断層が走っていることも分っております。南海トラフが予測されておりますが、これに備えるための視察です。3・11のとき、別府教会からも格別な祈りと支援をいただいております。
一日という限られた日程で、津波の脅威を最大限に捉えることのできるご案内をしたく願っておりますが、花巻、東和、遠野から釜石に入り、唐丹町にできた津波の祈念碑を回り、釜石の高橋先生に連絡を取ってありますのでご意見をいただきながら鵜住居の防災センターを見ていただき、大槌町役場、山田、そして宮古コミュニティーチャーチの岩塚牧師のお話を伺ってから盛岡に戻るつもりでおります。
どうか明日、目的が果たされますようにお祈りいただきたいと思います。

7月のはじめにはMAYさんの特集を持ち、初めての方々をお迎えすることができました。またバザーの御協力をチラシで求めたところ、ご近所の方々から供出品が寄せられました。教会の営みが好意的に受け入れられております。私たちが特集をしたり、夏の聖会をしたり、或いは10月にも特集をもちますが、いったい私たちは神さまに何を求めたらいいのか。何を求めようとしているのか。そこできょうはマルコ伝の10章、「バルテマイの癒し」という標題で括られるこの箇所をお開きしております。バルテマイという名が出ているのは、四福音書のなかではマルコ伝だけです。マルコ伝10章と同じ内容の記事がマタイ伝20章とルカ伝18章にあります。それぞれを見ながら、どういうポイントがあるか、内容を立体的に捉えてみましょう。

先ずマタイ20:29には「彼らがエリコを出ていくと」。マルコ10:46「彼らはエリコに来た」。ルカ18:35「エリコに近づかれた」。このところです。
ちょうど私が信仰に導かれた当時に、丸の内教会でマタイ伝の連続講開をしておりました。ちょうどマタイ20章でした。いったいエリコに近づいたのか、出たのか、どうなのかが語られていたのです。さまざまな説が語られていましたが、ただ面白いなと思ったのは、マタイ20には「ふたりの盲人が」とある。マルコ10には「バルテマイという盲人」とバルテマイに焦点が合っている。ルカ18では「ある盲人が」とあります。果たして盲人の方が1人なのか2人なのか、極端に解釈すると同じようなことがふたつあったのか、解釈はやはりさまざまです。何れ2人いたのでしょう。そして代表的にこのバルテマイが印象的な取り扱われ方をしているので、この人物に焦点をあてようと思います。

 三つの福音書に共通しているのは、「ダビデの子」という呼びかけです。
このときのイエスさまのお心は、人々から退けられ、しかし私は贖いのために来たのだという使命感をもってエリコに近づき、そしてエルサレムに向かおうとしている。そこに、世の中から顧みられない、道ばたで物乞いをしている人たちが、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
ユダヤの人たちにとって、ダビデというのは、やがて来るメシヤはダビデの子孫から出るという民族的な待ち望みの称号なのです。この「ダビデの子よ」という呼びかけが、学者パリサイ人、その時代の権力者、知識人から発せられるのではなく、むしろ、その時代にのけ者にされているような人々たちが、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と斯くも叫びたてた。イエスさまがこれをどれほど意義深く受けとめ、これにどれほど慰められたことでしょうか。そしてイエスさまは立ち止まって言われます。「あの人を呼んで来なさい」。お呼びがかかったのです。さらに言われました。「わたしに何をしてほしいのか」。このときのバルテマイの反応がおもしろい。彼は上着を着けるんじゃなくて、脱ぎ捨ててイエスさまのところにすっ飛んでいった。「先生。目が見えるようになることです」。目を開けてください、見えるようにして欲しいんですと彼は言った。イエスさまの心をぐっと掴んで離さないこのバルテマイの叫び。イエスさまはこれを聞き入れて、「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」と言われました。
 私たちはこのバルテマイのように叫んでいるでしょうか。イエスさまの近くには、この他にも多くの群衆がいたのです。しかしこのような恵を受けることができませんでした。イエスさまに切実に叫ぶとき、大きな業をなしてくださるのです。

 よく「あわれんでください」とお祈りします。イエスさまはそのとき、「それをもっと詳しく明確に何々をして欲しいと言ってご覧」と言われる。勿論、「あわれんでください」と祈ることが適切であり、そうとしか祈れない場合があります。それは十分に承知しながら、否それをしっかりと受けとめた上で、尚私たちが何かを具体的に進めていこうとするとき、課題を一括りにしてイエスさまの前にどんと持ち出すのではなく、イエスさまは、それをほどくのを待って、「何をしてもらいたいのか」と扱ってくださる。何をしてもらいたいのか。バルテマイは他の人々が黙らせようとしても叫び立てて訴えつづけた。これがイエスさまのお心に通じたのです。私たちは、このバルテマイのような祈りを捧げることができるでしょうか。
 パウロはローマ8:32に、「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」とこう記しています。
「何をしてほしいのか」と訊いているのは神の御子です。そのお方が、あなたは本気か? わたしに本気で願っているのか? それをわたしが聞き入れても聞き入れなくとも、どちらでもいいのか? 本気で祈っているのか? と問うておられる。私たちは渇きをもって、切実に主に求めましょう。

 「何を求めるのか」とイエスさまに言われたときに、「どうか、この夏に救われる方が起りますように」。そして「何をして欲しいのか」と問われたときに、「どうか救われて受洗者が与えられますように」と率直に神さまの前にお祈りをしていきたいと思うのです。これがもし単に利己的な競争心や野心、名誉欲や栄達、比較のためだとしたら、祈っていても力がありません。人間的な思いをぜんぶ洗われて、ただ神さまの御栄光のために、この夏、救われる魂、受洗する方々を皆さまとご一緒に求めていきたいと思います。勿論、健康のこと、職場のこと、経済のこと、その他諸々を祈ってもよいのです。そして私たちは先ずいちばんに神さまの御栄光のために、イエスさまを信じて救われる魂、受洗する魂を祈り求めましょう。

「 私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。」

※この説教は約半分に編集してございます。文責:中ぶんな

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三上勝久のCD「臆病者の言い訳」

 アマリリスが7輪咲いて、完全数の祝福と浮かれていたところが、三上勝久のCD「臆病者の言い訳」(制作:株式会社ヒューカム)の中に、「7×70」という意味不明のタイトルの曲が収められていた。

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 7×70
   作詞・作曲:三上勝久 編曲:古川初穂
絶対許せねえ事がある
死んでも許してなるものかと
そんな理不尽な事はねえと思う
いつも被害者が泣き寝入りかい
そんな時にあんたは言うんだ
それでも許しなさいと言うんだ
それでも愛しなさいと言うんだ
7を70倍にしても

思えば何度許されて来た事だろう
何度愛されて来た事だろう
7度を70倍赦されて来たオイラだから
7度を70倍許しなさいと教えてくれた

いろんな奴等がやってきた
ヤクザや売春婦や乞食や病人たちが
みんな「罪」という重い荷物を背負い込んで
イエス様のところにやってきた
そこには愛が溢れていた
その風にみんな感染しちまった
許し合い分け合い
愛に満ちていた
それが神の家族だと教えてくれた


天国はあそこにある
ここにあるんじゃない
あんたの心のど真ん中にあるんだろうが
だから愛し合いなさいというんだ
だから許しなさいと教えてくれた

絶対許せねえ事がある
死んでも許してなるものかと
そんな理不尽な事はねえと思う
いつも被害者が泣き寝入りかい


You Yube に「7×70」を見つけることができませんでしたので、
You Yubeにある三上勝久の「最大の武器」を検索して、是非、心のままの言葉にこもる真実をお聴きください。

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは勿論オリンピックの開会式を観ました。後半を観ながら、説教の起しをしました。そして雑務。午後1時からは、もりおか童話の会に出席。夕方6時からは盛岡劇場でアーサー・ホーランドの講演を聞きました。そのときに手に入れたのがご紹介のCDです。アーサー・ホーランドは自らを「不良牧師」と宣言するまじめな牧師。ミッション・バラバを結成。率直でユニークな伝道で神の愛を伝え、多くの方々を、それこそヤクザのような人たちをもイエスさまの救いに導いています。

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七つめの花

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 アマリリスの七つめの花が咲くかどうか気掛かりだった。これが綻びかけたところで、重みで倒れたので根元から切り取って花瓶に生けておいた。待つうちにほかの三つがしぼみはじめた。それでもどうにか七つめが咲いてくれた。屋内でフラッシュを焚いて写したので色あいは違っていますが同じものです。上を向いて咲く七つ目の花。天からのプレゼントに、完全数、精一杯に咲く美しさの完全、いのちの完全をもらった気がして嬉しかった。

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   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは時間が空いたので図書館で半日過ごそうと思い、開館しているかどうかをネットで確かめると、何と七月中の唯一の休館日、カレンダーの27日だけが赤マークだ。それで急遽上田公民館へ。地下にある図書館は午前中にたった4人ほどしかいなかった。この夏場にもっと活用したほうがいい。マイクロがある。ところが目当ての項目は見つからず、キリシタン殉教の連載にばかり目がいってしまった。記者名はない。たぶん一冊となって刊行されているのではと思い、こんどは市立図書館の方に移動。それらしい本を見つけかねたけれども、岩手のキリシタン弾圧のページを捲っているうちに、南部利直公のときに、キリシタンの夫婦のうち先に夫が処刑される。継いで妻が首を刎ねられるところなのだが、怯まないために両肩の肉を深く削がれたという。それでも妻は天に向かって「神さま感謝します」と。そして首を刎ねられ殉教していった。これを虎に喰わせようとしたところ、虎は奇異な行動を取るばかりだったという。

 50CCバイクの身軽さで盛岡ハリストス正教会に行ってみた。工事中だった。足場が組まれて銅板の屋根の葺替えが行われていた。吹き替えられた部分が強烈な夏の光に眩しかった。その足で聖寿禅寺の墓地へも行ってみた。その一帯を巡ってみたが、一般の墓地のようにきちんとした区画がない。山の斜面をまるで思い思いに確保し埋葬したかの景観。舟越氏が父の墓参をしたという時代には、しかも大雪が降っていたとなれば、あの斜面で雪を漕ぎ登る物寂しさと大変さが思い遣られた。
 正確な時間はわからないが、図書館を出た時の時刻から、もう1時近いだろうと坂をくだる。また後日来ることにして家に戻る。 


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ラーゲリのうた

 どんな音楽が、歌が人の心に染みるものか。それはその人の置かれた状況によってそれぞれであるようだ。
 ここのところ岩手県立手県立図書館の郷土にあったシベリア抑留体験記を3冊ばかり読んでいるが、その中で竹田正直著「酷寒シベリヤ抑留記」にあった、北原白秋作詞、中山晋平作曲の「さすらひの唄」に興味を持った。トルストイの「贖罪」を戯曲化した作品「生ける屍」の中でジプシーのマーシャに扮した松井須磨子が歌っていた。

    さすらひの唄♪

1、行こか戻ろか/北極光(オーロラ)の下を/露西亜(ロシア)は北国/はてしらず/西は夕焼東は夜明け/鐘が鳴ります中空に

2、泣くにや明るし/急げば暗し/遠い燈もチラチラと/とまれ幌馬車/やすめよ黒馬(あお)よ/明日の旅路がないぢゃなし

3、燃ゆる思を荒野にさらし/馬は氷の上を踏む/人はつめたし/わが身はいとし/街の酒場はまだ遠し

4、わたしや水草/風ふくまゝに/ながれながれてはてしらず/晝は旅して/夜は夜で踊り/末はいづくで果てるやら

 シベリヤでは収容所によって置かれた環境、また取り扱いがかなり違っていたようだ。都市部と地方では格段の差があった。どこでも同じ唄が日本人捕虜の心を捉えていたといえるものかは分らない。ただ、この「さすらひの唄」について、竹田氏はこういっている。
 収容所では、ソ連兵と捕虜のあいだの緊張状態も次第に和らいだ。最も帰国が決まってから脱走を企てて射殺されるという何ともいえない悲劇も起きてはいるけれども。
 ただ和らいできたときに、民主化運動の指導的立場にあった者たちが先頭に立って演芸会が企画、実行された。
 落語、ソ連兵から借りたマンドリン、バラライカ演奏、朗読劇、タップダンス、そして最後は歌謡曲だった。「花摘む野辺に日は落ちて」などが歌われた。そして「さすらひの唄」は殊にも著者の心に染みたという。
「ロシヤの大地で白夜の季節に、今自分は日本人によってこの歌を聞いている。…それまでにも笑い泣きしたり、こみあがるものを押さえきれず、そっと目頭に手をやるものが大勢いたが、このときは、全員が故郷を想って静かに泣き濡れていた。」

  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 酷寒のラーゲリとは正反対に猛暑となったきょう一日だった。700人からの方々が熱射病になったらしい。
 高校野球、岩手県では盛岡大附が代表となった。

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 この町内では、こどもみこしが運行。太鼓の音とワッショイ!ワッショイの掛け声で御輿が練り歩いた。夏の風物詩として記録しておこう。

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実るトマト

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 トマトがいまたくさんの実をつけている。ゆっくりだけれども次つぎに赤くなったものを収穫する。赤いものにも青いものにも実ったもの特有の美しさがある。
 いま、野菜を讃える音楽がないかを検索してみると、「やさいのうた」というのが出てきた。リズミカルで楽しく、美味しそうで栄養がありそうに聞こえるのだが、野菜の素晴らしさにはほど遠い。やはり野菜は絵に描くことがいちばんかもしれない。活き活きとして瑞々しく艶やかで見事な形をしている。実質的な豊かさも感じさせてくれる。
 国道455号線(盛岡ー岩泉)沿いに「ちいさな野菜畑」という産直がある。住所は盛岡市三ツ割鉢の川となっている。ここに野菜を描いたすばらしい油絵が掛かっているのを今思い出した。私が認識している野菜がそこには描かれていた。こんど作者が誰であるかを確かめてきたい。

   ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 この雨模様で、この町内会の行事「子ども御輿」が明日に延ばされたようだ。高校野球も。さてどうなるか「花巻東 対 盛大附」。ことしになってどちらにも勝たせたい。そんな気持になった。花巻東校応援ブログと掲げてはいるけれども。
 きのうのイチローにもじんわり。プロの世界の苛酷さ冷酷さ。そして尚戦う姿の美しさ。スタンドのイチローコールの温かさ。
 
 

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豊かに咲いた花たち

こんなに華麗に咲いてくれたアマリリス。

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アマリリスはふつう、花は四輪。ところがアンカーは何と花が七輪だった。真ん中のちっちゃな蕾がその七輪目。球根、かなりお疲れかも。

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この春に植え替えたベルケア。

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いつのまにこんなに咲いていたのか。紫陽花が植木の蔭に。

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分け入ってよく見ると、はっとするようなその青さ蒼さ碧さ。

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 いま窓外には、暗闇の中で五階建ての建物をぼんやりと円形に照らして、まるで季節外れの巨大なアリウムのような電灯が白く灯っている。くるまが飛沫をあげて、おそらくはあの角の信号の青をめがけて疾駆しているらしい。
 G.カサドの無伴奏チェロ組曲が、半分に落とした照明の下に流れている。
 きょうは何をしたっけ…、そう…、舟越が美校にいたときに盛岡に帰省し、大雪の降る中を難渋しながら、反抗しては苦しめた父の墓参りに行ったときのことを考えていたのだ。やっと着いたその墓とは、おそらくは南部家菩提寺聖寿禅寺の奧にある聖ハリストス聖教会墓地ではなかろうか。そんなことを思っていた。
 そして午後には友人に誘われるままに絵画展へ。喫茶ママだ。画歴からルオーを思い出していた。運良く友人が遅れた。よく人を待たせる身としては文句を言える筋合いではない。そのあいだに、「喫茶ママ70年誌」というのを開いていたところ、舟越が奥様とつれだってこの喫茶店にたまに来ていたことや、原稿を寄せたその方が、ママが縁で舟越と知り合い、「白鳥」の運搬を手伝い、舟越から「白鳥」のデッサンをもらい受けたことが書かれてあった。

 雨音が激しくなった雑然とした部屋、先日処分できるものはみな処分したはずだが、なぜか健康がもどった途端にまた散らかりはじめたこのへやに、いまはカザルスの「鳥の歌」が流れている。村井正一先生は子どものころからいつも病気がちだった。他の子ども達のように思いっきり外を駆け回ることもできなかったろう。このチェロが友だちであり遊びであり慰めであったに違いない。すぐそこにいて、等身大で語ってくれる、きょうはチェロをそんなふうに感じながら聴いた。

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そこに自分の考えはあるかー吉田秀和ー

 今晩のNHK番組クローズアップ現代、観る予定はなかったのだが、主人が「きょうは吉田秀和だ」というので観ることにした。

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 吉田秀和氏は1913年生まれ。ー番組とは関係ないが、岩手県のアマチュア音楽家村井正一氏や彫刻家舟越保武氏、画家松本竣介氏が生まれた翌年に生まれた方かとその長寿に改めて驚く。ー5月に98歳で亡くなられた吉田秀和氏のクローズアップ。日本の音楽文化の礎を築き、「そこに自分の考えはあるか」と、音楽評論を通して自分で考えることの大切さを訴えてきている。丸谷才一は、「彼は音楽が社会の中で位置を占めるにあたって最も必要なもの、聴衆をつくった」と追悼したという。

 カラヤンの『田園』については、「それはいわばアウトバーンを快速で走る自動車の中に座ったままドイツの森の杉や檜や楡といった木立とその傍らの名もないような野草や灌木まで見逃さない 優れたカメラのような目を感じさす。しかもその各個の映像の明らかなこと。それはごつごつした輪郭をすこしも持っていないにも拘わらず一つ一つがはっきり わかる」、このような調子なのだが、評論を読むとき、私はいつも詩を読んでいるような感じがした。そして押しつけがましくないのだ。

 「文章で表現するのは難しいといわれる音楽の世界を卓越した文章力で紹介、演奏家の内面や音の構成にまで入り込み深く見つめる鋭い視点。客観性をだいじにしつつも自分の感動から出発し自分で考えたこと自分でわかったこと、特に自分に感じられたことを中心に書き語った。クラッシック音楽に詳しくないひとの想像力をも掻きたて文章を読んで、その音楽に耳を傾けたくなるような魅力で人々を惹きつけた。世間の空気や既存の評価にはとらわれない。自分を持つという姿勢をもっとも大切にしていた。自分の目から離れてはいけない、そこに自分の考えはあるかと問い続けた。」と解説していた。感じたことに素直に生きようとする確固たる信念だったという。

 意外だったのは、オーディオルームや最新式の音楽機器は一切無かったことだ。ただ、「機械は立派なものの方がいいとおもうけども、そうでなきゃいけないともおもわない」と語っている。

 吉田秀和の名がしれわたるきっかけとなったのは、やはり、グレン・グールドをめぐる論争。いち早く天才性を認めたことだった。
「グールドはわたしたちより遙かに微視的な感受性を持っていて異常に鋭敏で迅速な感覚を持っているのではないかという気がしてならない。これだけの演奏をきいて冷淡でいられるというのは私にいわせれば到底考えられないことである。私は日本のレコード批評の大勢がどうであるかとは別にこのことに関しては自分一人でも正しいと考えることを遠慮無く発表しようと決心した。」、こう語っている。この後、グールドは日本人に最も愛されるピアニストの一人になったという。

 20歳代で音楽翻訳をしていたのが内閣情報局への転属となる。新聞出版などの検閲、戦争反対の弾圧、統制への加担だった。勿論本意にははんすることだった。片山杜秀氏は、この時期を潜ったからこそ、「わたしはどんな小さなことにしろ自分の本当の仕事がしたくなったのだった。そうして死が訪れたときに、ああ、自分はほんとうに生きていたのだという気がする、そう思える生活に入りたいという願いだけがあった。」という思いを彼は持ったのだと言っていた。

 1983年の20世紀最高のピアニストホロヴィッツ78歳の日本公演に対する“罅”評に私は一種聞くに堪えない思いがしていた。いやしくもあの素晴らしい最盛期を持つホロヴィッツに対していう言葉だろうか。失礼じゃないか。しかしやはり、その時点での聞いたまま観たままをそのままに語るのが正しい優れた評論というものなのだと知らされるのだ。これが評論家の責任ある姿勢というものなのだろう。ここが単なる1ファンとの決定的な違いなのだ。評論家であるからには、音楽の神様がやってくると一枚数万円のチケット我先に買うところまでは赦されても聴いた後の行動、言動には責任が伴うということなのだろう。 

 「骨董としてのホロヴィッツ。罅が入っている。珍品、欠落、完成を欠く。」として次に続くことばはこうだった。「私たち今日の日本人は流行におそろしく敏感になっている。何かが流行ると誰も彼もが同じ事をしたがる。こんな具合に流行をまえにした無条件降伏主義、大勢順応主義と過奮(?聞き違いかも)症をこれほど正直にさらけ出している国民は珍しいのではないかとわたしは思う。…みんなが表ばかり見ないで裏側を、何が裏にあるかを日本人は考えないできたのではないか。前に進むばかりで。21世紀はそういう走り方じゃないものを学ばなければいけないというところに立っているのではないか。」

 そして最後に、吉田氏と親しかった慶應義塾大学準教授片山杜秀氏が国谷さんの「信頼の源は?」との質問に以下のように答えていた。
「直感力、明察力。見抜く力がすごい。天性のものでなく。たとえばグールドのバッハのゴルドベルクを聴いて、バッハの音楽というのはこれだけの可能性がある。現代のピアノで聴くとどうなるか、現代人のセンス、感性はどうなのか。そのときグレングールドのあのスタイルとバッハを組み合わせてそれが許されるのか、素晴らしいのか、可笑しいのか、そういうことがあっというまに判断できる。だからそのセンスの裏にあるバッハとは何かグレングールドとは何か、現代人がピアノを弾くとは何か、現代人のスピード感覚とは何か、そういうことがぜんぶ入ったうえで、ぱっと閃いてしまう。閃いたことをただ閃きとして示すのではなく、いまいったようなことを嚼んでふくめるように、しっかりと確かめながら文章に書いていく、その文章力、表現力の素晴らしさですね。こういったことがぜんぶトータルに入ってでできるというのは他の日本人では真似できる人がいなかったということです。」
国谷さん「ホロヴィッツ3年後に吉田に聴かせたいとまたやってきてます」
片山氏「冒険なんだけれども、自分の判断で、ぱっと言うことが如何に大事か。みんながいいといっているものをいいと言ってしまっては生きている甲斐がないという姿勢をしっかりとお持ちだった、しかも、吉田さんがいって説得力をもってしまうのは、吉田さんは白州次郎、白州正子ご夫妻とか青山二郎とか小林秀雄とか交際して骨董品というものをよく知っているんですよね。そういう意味でも最高の目利き。良い骨董はいいんだけれども欠けているものは欠けている。でもいいというニュアンスが必ずあるんですよね、あの批評には。だからホロヴィッツのことをものすごく認めている。認めているんだけれども、ここは駄目なんだということははっきりという。ただ立ち上がって拍手してああよかったと思いこもうとする人に常にブレーキをかけながら相手に対する礼も欠かさない、そういうスタイルでものを言い、書けたということですね。」

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きょうのことば 『福音を語り続けよう』

  毎週日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会(電話019-646-2924)の説教を載せております。一週間遅れですので、きょうは2012年7月15日(日)の説教です。日々を生き抜くためのコツを手にしていただければと願っております。

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説教題 『福音を語り続けよう』
聖書引証 使徒の働き18章9~11節

9 ある夜、主は幻によってパウロに、「恐れないで、語り続けなさい。黙ってはいけない。
10 わたしがあなたとともにいるのだ。だれもあなたを襲って、危害を加える者はない。この町には、わたしの民がたくさんいるから」と言われた。
11 そこでパウロは、一年半ここに腰を据えて、彼らの間で神のことばを教え続けた。

【説教】

 いよいよ夏の営みが始まっていることを実感しております。7月15、16日には教会学校のキャンプ、そして、7月30日~8月2日の3日間は花巻市での東北聖会に臨もうとしております。このときに、過ぐるMAYさんたちの集会を新たに心に留め、そして主が願っておられるような教会の歩みをさせていただきたく、その備えの聖日をもつようにと導かれ、使徒の働き18章
9~11節をお開きしたことでございます。
 主はパウロたちに「この町には、わたしの民がたくさんいる」と励ましのことばをかけておられます。これはパウロが、コリントで伝道しようとしたときのことです。きょうは、ここに焦点をおき、この主のパウロへの励ましが、この盛岡の地に、また私たちの教会にありますようにと願うものでございます。
 このたびの特集に関して、MAYさん方から、「私たちは一般的な音楽会というのではなく、できるなら福音を伝えるための集会を望みます」との申し出がございましたので、その意向を尊重してチラシを作り、それに沿った配布、広告を選択いたしました。その結果、幸いなことに電話での問い合わせがございました。またこのご近所の方々もお見えになりました。さまざまなことを通し、「この町には、わたしの民がたくさんいる」と励ましをいただいたことです。

 さらに、ここに主の約束があります。
「わたしがあなたとともにいる」
 私どもは40年近くこのところで伝道しておりますが、種を播いても播いてもそれがなかなか受け入れられない困難があります。しかし主はいわれる。「わたしがあなたとともにいる」。
これは神さまが、コリントという町に伝道していたパウロに仰ったことばです。当時のコリントは大変繁栄しておりました。しかし道徳的な頽廃もひどかった。いま私たちがこの盛岡で伝道するよりもはるかに困難な中でパウロは伝道しようとしていた。そのときに神さまは、大丈夫わたしがあなたとともにいる。だから困難や失敗や人を恐れてはいけないと語られた。宣教の働きには、主の励ましは不可欠です。パウロを偉大な聖徒とイメージしがちですが、パウロもまた主からの励ましを必要としていたのでした。

 ここでわたしはエリヤの記事を思い起こしました。カルメル山におけるエリヤの仕えるまことの神さまと偶像神バアルの対決の場面です。火をもってこたえる神を神としようと闘いの火ぶたは切られます。バアルに仕える預言者たちがいくら神を呼び叫んでもこたえはなかった。しかしエリヤが供え物をのせた焚き木に水を注いでまことの神に叫び呼ばわると、天から火がくだり、供え物が受け入れられました。凱旋的な勝利が与えられたのです。

 私が心に留ったのは、その後のことです。エリヤは疲れ果てました。そこに、王の后イゼベルがエリヤを殺そうと企んでいると聞いて逃げ出してしまったのです。ああわたしはもう生きていても仕方がない、死んでしまいたい。そんなときに神さまはエリヤに水とパンを備えエリヤの疲労回復を待って、そして御自身がエリヤとともにいることをお示しくださいました。
 パウロにも多くの課題が次つぎにのし掛ってきた。パウロも神様から、パウロ、だいじょうぶだ、わたしはあなたとともにいると励まされているのです。

 疲労、失望、落胆、現実逃避、これらは私たちの生活にも現実にあります。この問題がいつまで続くのか、どうして解決しないのか。そんなとき私たちは疲れます。そして失望、落胆し、逃げ出したくなる。これは何も誰か一人にだけ襲いかかる特別なことではない。パウロもペテロもエリヤも、あのダビデでさえそうだった。ダビデは自分の子どもに反逆され、命を付け狙われるという苦しい経験さえしています。主よ、いつまでですか。通る苦しみはみな同じです。このようなときに、「神さまは私たちと共にいる」、この事実が確認されたなら、私たちはしっかりと立つことができるのではないでしょうか。

 さて、もう一つの語りかけがあります。
9節には「恐れないで、語り続けなさい。」
MAYさんのイベントで、私たちは精一杯のことをさせていただきました。しかしこれは、もうこのときで終わるのではありません。継続して語り続けること、神さまはそれを願っておられます。
 こんどMAYさんの三回にわたるすばらしい賛美を三枚のCDにまとめました。頭出しもできるようにいたしました。
 今回来てくださったT兄弟のお兄さんが「よかったよ~、それでまた来たんだ」と、7日だけの予定だったのを8日も来てくださいました。いらした方々が感動したと聴いてくださいました特集を記録したこのCDを、どうぞ、あの方この方に差し上げ、聞いていただき、主の恵み、神様の愛をお伝えいただければと思います。

「語り続けなさい」
 今年の3月には、3・11を祈念して東北・希望の祭典がありました。そして今回はMAYさんの集会。こんどは秋にも予定しております。
語り続けましょう。黙っていてはいけないと聖書にはございます。何もしないことは怠惰の罪です。私たちは神さまのこのお約束をうけて、どうかこの夏、そして秋に向かって福音を語り続けましょう。黙っていてはいけない。それをひたすらにさせて頂きたいと思います。「この町には、わたしの民がたくさんいる」とイエスさまは励ましてくださいました。どうして語り続けなければいけないのか。福音には救いがあるからです。もし福音を知らなかったなら、滅びに行ってしまう。だから私たちには福音を語り続ける責任があるのです。

「この町にはわたしの民がたくさんいる」
 そうです。この町には私の民、即ち、イエスさまを信じ、イエスさまの十字架の贖いに与るべき人々がこの町にはたくさんいるのです。
 語り続けましょう!!

※ICレコーダーから起こしています。誤りがある場合にはご指摘ください。
 文責:中ぶんな

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チェリスト村井正一氏の弟子ーチェリスト渡部宏(こう)氏ー

 村井正一氏にお伺いしたときに、「芸大に入ったのがいる」と仰っていたことを思い出す。村井氏にレッスンを受けていた方々がいた。受験指導もされていた。最近になってヴァイオリンのメンテナンスをお願いした松本伸氏から、最後の弟子は東京芸術大学に入った渡部宏氏であることを知った。マイスター・ミュージックから2枚のCDが出ている。一枚は『愛の言葉~チェロ小品集~』。そして一枚が以下の写真の『鳥の歌~無伴奏チェロ作品集~』である。

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渡部宏氏プロフィール

東京藝術大学卒業、ドイツ・フライブルグ音楽大学卒業。スペイン政府の奨学金を受けてスペイン音楽夏期講習会に参加。ミュンヘン音楽大学マイスター・クラス修了。
教会音楽にも携わりバロック音楽における通奏低音についての研鑽も積む。
1988年より毎年リサイタルを開催して好評を博している。

同郷・岩手の作家<宮沢賢治>に因んだコンサート「どうして賢治はチェロを弾きたかったのか」も同時に展開、NHK・FM、テレビ出演、CSラジオ放送で は「渡部 宏チェロの世界」と題し、チェロ音楽の歴史的な変遷を中心に番組制作を行なった。
  また、月刊「ストリング」誌における誌上レッスンでは「チェロ・ソナタを中心としたピアノとのアンサンブルについて」また、「チェロの演奏法の入門編」なども執筆、さらに、同誌「清水勝雄のチェロ基礎」講座の再現執筆も担当した。
  チェロの音を深く味わい、物語るような演奏に定評を持つ。
宮沢賢治音楽作品集「イーハトーブ組曲」(中村節也編)監修。また歌曲作品などの弦楽合奏の伴奏編曲も数多く手掛けている。

            

  村井正一、小澤弘、三木敬之、広田幸夫、倉田澄子、R・フラショー、M・セルヴェラ、W・ノータス,清水勝雄の各氏に師事。岩手県芸術選奨受賞 東京ヴィヴァルディ合奏団音楽監督、東京藝術大学音楽学部管弦楽研究部(藝大フィルハーモニア)首席奏者。
  2006年東京ヴィヴァルディ合奏団創立45周年を記念し、ソロ・CD~鳥の歌~無伴奏チェロ作品集をリリース、音楽各誌にて絶賛される。
2007年12月25日 2枚目のCDアルバム「愛の言葉」をリリース。「 希望郷いわて文化大使」として岩手文化の紹介等に携わっている。

 「私は私なりに、平凡な町の音楽屋につきることを願っている」と仰っていた村井氏だった。しかし氏が教授した音楽は、今もこのように脈々と生きつづけている。

 

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忘れてはならない音楽家ーチェリスト村井正一氏ー

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 この方がどなたかご存じの方々は多くいらっしゃるはずです。岩手県盛岡市長田町に住処を構えて、地道な音楽活動を貫き続けたアマチュアのチェリスト村井正一氏です。
 私が村井氏に初めてお会いしたのは、村井氏最晩年のとき、ちょうど奥様の介護をしておられたときでした。大正時代に太田村に産声をあげた弦楽四重奏団太田カルテットの主宰者梅村保氏についてお話をきくためでした。その時点では、太田カルテットを調べることに手一杯で、実は、村井氏ご本人についてはあまりお聞きしないでしまったのです。ところが近年になって、当時かき集めた資料を捲っているうちに、盛岡の音楽史には重要な方であることに気づくとともに、岩手に於いて僻地といわれるところに、或いは、それこそ良い感性の糧、温かさを必要とする少年院のようなところにも、如何にしてか音楽の楽しさを届けようと尽力されている。地域への貢献が、昭和42年時点で東北ではただひとりの日本青年会議所のゴールドメダル受賞となり、また少年院への貢献が、昭和48年の法務大臣感謝状となったわけです。
 村井正一氏は1912(大正元年)11月10日生まれ。この年には、12月7日一戸町小鳥谷に彫刻家舟越保武が生まれ、同じく1912(明治45)年4月19日東京渋谷には画家松本竣介(佐藤俊介。後に松本禎子との婚姻で松本竣介となる)が生まれています。この3人は後年揃って旧制盛岡中学校(現県立盛岡第一高等学校)に入学。しかし村井氏は5月半ばに喀血。僅かひと月半で退学せざるを得ませんでした。松本も入学した年に脳脊髄膜炎のために聴力を失っています。松本は3年次で退学し上京、太平洋画会研究所で絵画を学びます。舟越は1933(昭和6)年に盛岡中学校を卒業.。3年を経てから東京美術学校彫刻科に進学します。
 村井氏は独学で無線技術を習得し昭和14年東芝の技術部入社。同15年その子会社である七欧無線に入っている。本職よりも音楽に重きを置いている。
 音楽歴からいえば5、6歳の頃から梅村保宅に出入りしてはチェロを習っていた。昭和6年頃には梅村保らとともにカルテットを演奏している。これが村井氏の音楽の初発であるが、戦中戦後を通じて音楽界にあっては本流にあったと私は考えている。また1960年頃に武田忠一郎が、「音楽を職業とせずほんとうに趣味に生きる為に楽しんでいる人、しかも専門家以上のレベルに達している名手もいる。たとえばチェロの村井正一氏のごときである。この人などは日本でも一流の列におるべき人とわたしは思っている。」とこのように村井氏を讃えている。即ち、芸術に於いては、舟越保武、そして松本竣介に並ぶはずの方であると私は理解している。

 このことに今にして気付いているのだが、私は、村井氏が応召になり、外地に渡り、そして捕虜となってシベリヤに連行されるわけだが、この時期も、村井氏の音楽上には大切な時期となっているが、村井氏が、果たしてシベリヤの何という収容所にいたかなど、今以てまったく掴めていない。「デウという小さな町の病院にいた」とある、このデウという地名も探してみたがまだ見つけることができないでいる。最晩年にお会いしたあのときに遠慮せずに聴いておくべきだったと残念に思う。

 

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お悔やみ

 きょうはなかなかこのページを書きはじめることができなかった。
 東日本大震災前に亡くなられた友人宅の弔問であるが、これが、東日本大震災があったために、またご遺族のさまざまな事情で、またこちらのさまざまな事情で今日までできかねていたのだが、きょう、やはりその方の関係者であられるIさんとともに沿岸のご自宅を訪問させていただいた。ご遺族に関して、ここに記すことはご遠慮申し上げようと思う。
 その方の家は山の斜面にあり津波を免れたが、すぐその下の一帯はやはりむき出しの土台が広がっていた。
 昼前に失礼したわけだが、田老がどのようであるかいちど見ておきたく思い北上。確かに営業していると見えるのは45号線筋のガソリンスタンドだけだったように思う。ほんとうに厳しい状況と私には映った。
 久方ぶりに250キロばかりの日帰り長距離運転。106号と45号のトンネルの入り口の暗闇と出口の明るみを繰り返し繰り返しくぐり抜ける。
 田老に広がる海の蒼さが焼き付いている。

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吉田秀和氏のハイフェッツ

  よくCDを聴きながらパソコンを打っている。何かをしながら音楽を聴くのは、これが確かに滋養になったという実感が得られないために物足りなさが残る。しかし、じっくり音楽ばかりを聴いているわけにもいかない。それをやっていると生活全般が停滞してしまうのだ。それといまあるCDをほとんど聴かないうちに一生が終わってしまいそうだ。それよりは、“ながら”でも聴かないよりは聴いたほうがいい。実際何かをしながらでも、音がないよりは心地よく、神経系が素直になるのを覚える。
 ここのところ、ずっとバッハのチェンバロ協奏曲第1~4番の日々、カール・リヒターだ。奏者もさることながら、チェンバロという楽器の典雅な響きに捕まってしまったというのが本音だ。

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 わたしは常々、CDを聴いただけで生演奏も聴かずに演奏を聴いたと言えるのだろうかと疑問だった。しかしチケットはなかなかに高く、小遣いを他に使いたいことがなければ、ぜんぶ音楽に注ぎ込んでしまってもいいだろうが、他にもあれもこれもとなれば、そうそうコンサートにばかり投じてもいられない現実がある。音楽評論をなさっている方々はさぞやチケットもCDも舞い込みコンサートにいくのに支障を来すということなど無いだろうと思いこんでいた。

 ところがレコード芸術7月号を開いてみると、2012年5月22日に亡くなられた吉田秀和氏が野村あらえびすについてこう語っておられる。
「あの方はー私の想像では、多分ーたいていの演奏論は、ただレコードをきいただけの経験から書いていたのであって、実際に演奏にふれた上での話はほとんどなかったのではないかしら?」
 吉田秀和氏は最期まで、あらえびすを音楽評論家として信頼に足る位置に置いていたように思う。またあらえびすが評価し選んだSPレコードは『あらえびすSP名曲決定盤』として10枚組のCDが発売されており、著書もまた復刻版が出ている。

 あらえびすのお薦めに、やはりハイフェッツが入っている。
 ハイフェッツのヴァイオリンに関して吉田秀和氏は、
「やっぱりハイフェッツは、まず、音。どの音もたっぷり、少したっぷりすぎるかも知れないほど滋味豊かで、おいしいヴィブラートのかかった音。しかも無類の厳密さで弾きわけられた音程と音色の多彩極まりない音。胸のすくような透明度を具えた音。」
また
「ヴァイオリンのハイフェッツとピアノのホロヴィッツは20世紀前半の演奏の一つの頂点を築いたものとして、好一対なのだ。…解釈の点では、難点があったかもしれない。でも美しい磨かれきった音をつくった。この点では他の誰も及ばない。」

 私がヤッシャ・ハイフェッツに興味をもったのは、盛岡市の弦楽四重奏団のはしりである太田カルテットが、大正12年11月に来日したときのヤッシャ・ハイフェッツの演奏を聴いているはずだと考えたのがきっかけだった。
 これは大正12年9月1日の関東大震災のチャリティーのためにやってきたのだが、そのときの彼の演奏がどれほどに素晴らしいものであったかを思う。
 ハイフェッツをこのように評した吉田秀和氏でさえ、ハイフェッツの生演奏を聴いたのは生涯にたった一度だけで、ニューヨークのブロンクスのホールだったらしい。既に全盛を過ぎ、伝説化した「完璧さ」に翳りがでかけていた時期だった。それでも音盤に従って吉田氏はハイフェッツを上記のように評価している。
 大正12年の焼土と化した東京でのハイフェッツの演奏がどれほどすばらしいものであったかを思うと胸が熱くなる。
 チェンバロは今日で区切りをつけ、明日からはまたハイフェッツ復刻盤を聴くことになるだろう。

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裏の畑の野菜の天ぷら

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  三連休も終わった。終わってきょうが17日、この17という数字に音もなく時間のレールを移された今この時点にある自分を見出す。
 裏庭の野菜は水をたっぷりと吸って自信ありげに葉を広げ、その蔓をのばし、実を誇示している。ゴーヤの苗として買った2本のうちの1本は何と植えるとまもなく南瓜の葉っぱを繁らせ、これはおそらく品種改良したゴーヤに違いないと見守るうちに、それが確かに南瓜である証拠に、球形の南瓜の実までつけてみせてくれた。近所でもゴーヤとして買った苗が南瓜として育っているところがある。
 帰省した息子に、育てた野菜を天ぷらにして出したところ、美味しいと言いながらたべていた。たった一つなったナス、ピーマン、サヤインゲン(写真 )、紫蘇の葉、菊の葉だ。それにスナックエンドウ、胡瓜、トマトをサラダにした。自己満足に過ぎないかもしれないが、世の中の大方はこの自己満足で事足りていることが多いのだろうが、何れ理屈はどうでも、こんなときにこそ私は豊かさを感じる。
 息子は友だちと会ったり庭のようすを見たり墓参りを済ませて昨夜また勤務地に帰っていった。


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きょうのことば 『賛美の力』―「MAY。。。」特集 その2

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左から、ピアノの木下真樹子姉妹、ソプラノの西谷葉子姉妹、メゾソプラノの石鍋敦子姉妹

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【メゾソプラノの石鍋敦子姉妹のお話】(写真)―8日(日)午後の集会でー
 先ほどバイブルキャンプに時々参加していたとお話ししましたけれども、小さい頃から私はキャンプやさまざまなイベント、バーベキューや運動会が大好きな活発なこどもでした。中学生のころは友だちとの遊びに夢中でひどい成績をとることもよくありました。でもそんなことはまったく気にもせずに友だちと会うのが楽しみで学校が大好き。天真爛漫ではありましたが、しかし、自分が大嫌い、自分の存在自体が恥ずかしくいつも下を向いていた時期がありました。その辛い時期を乗り越えて私の心に起きた大きな変化をお話させていただきたいと思います。
 私は音楽大学で歌を学ぶ中で、思うように歌えないもどかしさと劣等感でいつも悩むようになりました。人からどのように見られているか気になって、人前で歌うのが恥ずかしい、見ないでほしいという日々が続きました。そしていつも学校の中を小さくなって下を向いて歩いている、そんな時期がありました。ひどいときには、学校からの帰り道、家の近所の交差点に来るといつもここで事故に遭えばあした歌わなくても済むと思うほど悩んでいた時期がありました。因みにその頃の口癖は消えちゃいたいということばでした。そんな悩みの中でほんとうに信頼していた友人に裏切られるということが起りました。そのときに、歌は下手だし、そして大切にしていた友人には裏切られるし、私には何にもないと心から自分自身に絶望しました。そんな中で、体調を崩して10キロぐらい痩せました。精神的にも体力的にもどうしたらいいか分らなくなった私は思いあまって歌の先生に相談しました。その先生はクリスチャンでした。そしてある聖書のことばを教えてくださいました。
「私の目にはあなたは高価で尊い。私はあなたを愛している。」
 そして神様はそのままのあなたを一人子を十字架につけるほどに愛してくださっているのよと、涙を流しながらお話ししてくださいました。自分でもこんな自分を愛することができないのに、こんな私を愛してくださっている方がいる。私にとってこれ以上嬉しいことはありませんでした。そして、こんな私を愛していると言ってくださる神様のことをもっと知りたい、その大きな愛の中で生きていきたいと思って5年半前に西谷さんと一緒にイエスさまを自分の救い主として受け入れる決心をしました。自分のことが大嫌いな私でしたけれども、神様に愛されている、その安心感の中でありのままの自分を受け入れることが少しずつですけれども、受け入れることができるようになりました。そして、苦痛でしかなかった歌の学びが、いまこうして神様を賞めたたえるように変えられたのです。勿論神様を知ってからも、次つぎにつらいことや苦しいことが出てきます。そして時には、どうしてですかと涙を流しながら神様に尋ねることもあります。でもそんなとき、さっき歌った足跡の歌詞にもありますけれども、私を背負って、そしてそばにいて、いちばん誰よりも心配してくださる神様がいることを思い出します。そしてそのとき、悲しくて悲しくて泣いていたその涙が、ほんとうに神様ありがとうございますという感謝の涙に変えられるのを心から感じることができます。いまも生きてわたしのことを誰よりも心配してくださり愛してくださっている神様とその神様が教えた聖書のみことばを信じてこれからも希望をもって歩んでいきたいとおもいます。

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  ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 「お人形のアリア」。西谷姉妹がすっかりお人形になりきってくださって、会場を一巡り、お一人お一人と握手してくださいましたよ。いたずらな「ニ匹のねこ」もとっても愉快でした。最後は東北希望の祭典のときに、デービッド・松本先生が被災地を回られたときに、被災された方々にお会いしたときに作詞された「ふるさと」を全員で歌いました。

♪イエスの愛はいまでも
 私を日々引きあげ
 心のきずをやさしく癒す
 永遠(とわ)のいのち主の愛

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きょうのことば 『賛美の力』―「MAY。。。」特集 その1

  毎週日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えしておりますが、2012年7月7、8日は「MAY。。。」さんをお迎えしての特集でした。礼拝も、この3人の音楽家たちの賛美と証しが中心となりました。

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【ピアノの木下真樹子姉妹のお話】
 私の家庭は父も母もクリスチャンでした。小さいときから教会に行っておりました。これほどの愛情の中に育ったなら、子どもも天使のように育つだろうと思うほど温かい家庭でした。けれども、残念ながら私は汚い心を持った子供でした。小学校2年の時、母が大好きだったにも拘わらず、母に、ここで言うのも恥ずかしいような言葉を吐いてしまったのです。落ち込んでいたのでしょう。母が夕食後に私を呼び、「いっしょにお祈りをしましょう」と言ってくれました。そのとき母は聖書を開きました。
第1ヨハネ3章1節「 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。
 これを分りやすく解説してくれたのです。「あなたは罪を持っていますね。でも、ほんとうはあなたが、その罪のために十字架にかかって死ななければならない。でもイエスさまが、あなたは十字架に架からなくてもいいよ、わたしが架かってあげるからと言ってくれて、代りに十字架に架かって死んでくださったのよ、だからイエスさまに、有難う、そしてごめんなさいと言おうね」と言ってくれました。わたしは単純に、イエスさまは私の代りに十字架に架かって死んでくださったんだ、イエスさま、ごめんなさい、有難う、とお祈りをしました。続けて母も祈りました。母は「このイエスさまの十字架を一生忘れないで過ごしていきますように」と祈ってくれました。
以来、幾度もぎりぎりのところを通りましたが神様のことを忘れないで、十字架を疑うことなく40数年経ちました。そして喜びと感謝に生かされています。
 いま言えることは、わたしがイエスさまと一緒にいるということがどれだけ素晴らしいことかということです。きょうも天に帰ったら力の限り神様を賞めたたえたいという賛美を車の中で歌いながら、ぽろぽろ涙がとまりませんでした。

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【ソプラノの西谷葉子姉妹のお話】(写真左)
 私は言葉の行き違いから友だちとの人間関係に行き詰まってとても悩み落ち込んでしまったことがありました。声楽のレッスン中にその思いが溢れてしまって、先生に悩みを打ち明けました。するとクリスチャンの先生は私のために涙を流しながら、肩に手を置いて祈ってくださいました。先生がご自分のことのようにそれを捉え、そして涙を流しながら祈ってくださったことに私はとても感激し、また癒されました。そのことをきっかけに、その先生とクリスチャン門下生でできた賛美グループがあったのですが、そのグループの祈り会ですとか練習に一緒に参加させていただくようになりました。そして少しずつ教会でのコンサートなどにもご一緒させていただけるようになりました。そしてそのグループのコンサートで木下さんが先ほどのお話をされたのです。それを聞いて、私は友人との人間関係において、自分が言ってしまった言葉で彼女を傷つけてしまい、逆に自分も深く傷ついたことで悩んでおりましたが、言葉で人を傷つけることも罪であると初めて知りまして、それまで罪という言葉に抵抗があったのですが、私も罪人なのだと初めて自覚しました。そして素直にその罪ということを受け入れることができたので、その夜、罪と思われることを一つずつ言葉に出して神様に告白しました。その初めてのお祈りはとても長くなったのを覚えています。そして後から聞いた話ですが、木下さんは、実は、別の話をしようと準備をしていたところに、神様に先ほどの話をしなさいと召されてしてくださったということで、それは私のためにそのように導いてくださったのだなと思いました。それ以来私は毎日お祈りするようになりました。そして神様とのお祈りの時間は私にとってとても大切な時間となっていきました。しばらくすると、辛い出来事がまた重なってやってきました。小さい頃から母と同じように母のお友だちが私を大切にしてくれていたんですけれども、その方が癌で亡くなってしまったり、また兄弟に癌告知がされたり、また家族が私に心を閉ざしてしまったりということが同じ時期に重なってやってきました。わたしはいつもよく食べて直ぐに眠れるほうだったのですが、まったく食事も摂れなくなり、夜になっても眠いのにまったく眠れない。もう何も手に着かない状態がしばらく続きました。そして心から神様助けてくださいと思い先ほどの声楽の先生にまた祈って勇気づけてもらいたいと先生の通っておられる教会の礼拝に出席をしました。そこで流れる音楽を聴いたときに溢れる涙が止まらなくなりました。それは辛いからではなくて何か温かくて大きなものに包まれたような安心感でいっぱいになったからです。そして泣きながらも、客観的に私の魂が喜んでいると思いました。それから毎週教会に通うようになって、そして出会った石鍋さんと一緒に5年半前に洗礼を受けてクリスチャンになりました。いまでは試練がきても神様はそのことを通して私に何を教えようとされているのかなと前向きに物事を捉えられるようになりましたし、先ほどお話しした友人や家族のためにも心からのお祈りができるようになって、また信頼関係も戻って、今ではまた大切な存在になりました。このように私を作り変えてくださった神様にほんとうに心から感謝しています。

【国光師の説教】
 与えられておりますおことばをご紹介しようと思います。詩篇40篇1~3節です。

1 私は切なる思いで主を待ち望んだ。主は私の方に身を傾け、私の叫びを聞き、
2 私を滅びの穴から、泥沼から、
引き上げてくださった。そして私の足を巌の上に置き、私の歩みを確かにされた。
3 主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。多くの者は見、そして恐れ、主に信頼しよう。

 今まで、この口からどのような歌が歌われていたのか。それまで歌ったことのない新しい歌、それは我らの神への賛美。私たちを愛して十字架にお架かりくださった、それほどまでに救いを成し遂げてくださったお方を心一杯賛美する、その賛美を主は与えてくださった。多くの者はそれを見てそして、ああそうだ、こういう人生があるんだ。恐れという、日本語の漢字ですと恐怖といったようなイメージがありますけれども、畏れかしこむというように理解いただくと相応しいかと思います。そして、私もあのような新しい歌を歌う生涯を歩みたい、これが聖書の中の賛美、これがもし紅白歌合戦にあったなら、大取りに出てくるのがダビデの賛美だろうなと私は思っているのですが、ダビデの賛美。これを覚えていただきたい、もしこれを覚えていただいたならきょうの御用は足りるのではないかと思っております。
 このような人生の歌を歌いながら歩むことができたならどんなに幸いでしょうか。

      ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 礼拝後、昼食をはさんで、午後2時からも、この音楽と証しの集会がありました。こんどはメゾソプラノ石鍋敦子姉妹のお話と、3人の童謡、賛美ですが、つづきは明日掲載いたします。
 コンサートの数日後、参加されたお客さま方から、「感動した」、「心が癒された」というお電話を頂戴しました。これは「MAY。。。」さん方の歌が、心からの祈りであったことの証左であると私は思いました。文責:中ぶんな

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息子の帰省 & 北の文学出席

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 今朝10時頃に長男が帰省した。久方ぶりに主人と長男と3人で近場の温泉へ行く。二男は家族とよりも友だちとの予定が多い。二男ともいつかゆっくりとどこかに出かけたいものだ。曇り空のもと、潤む緑の中に車を走らせる。山の峰にゆっくりとガスが動く。なかなかいい景色だ。牧歌的な景色に心癒されながらゆっくりとお湯に浸かり、帰りは評判のよい蕎麦屋に立ち寄り、帰る道すがら、らら倶楽部で花の苗を入手。ちょうど明るく日がさしてきたところで帰宅。club

 夕方5時から利衛門で「北の文学」の集まりがあった。第64号で優秀賞となった渡邊治虫さん(66歳)のお祝を兼ねた合評会だ。渡邊さんがもりおか童話の会のメンバーであることから、同メンバーが渡邊さんを含めて7人参加。童話の会という名称ではあるが、いまは童話と小説の会である。

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 北の文学では、いま若い女性の書き手が頑張っている。プロの作家の先生方も力を入れ育てる意向のようだ。若い男性の書き手が見えなくなったのはどういうわけか、是非頑張ってもらいたいとの檄もあった。spade

 今後自分が作品を発表していけるものかどうか、これはもう今の私にとっては天の意向がどうあるかにかかっている。北の文学から曲がりなりにも出欠の有無を問う葉書がもし届かなくなったらこれもまた寂しい。ただ今回で文学と自分との間に何らかの距離を覚えたこともまた事実である。とは言うものの何かを書けそうであるうちは書こうとする自分であることは確かだ。pencil 

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自分で種から育てた花たち

 種から育てた花たちが次つぎに咲いている。サフィニアの種は植えようとピンセットで摘んだものの、摘めたという手応えもなければ、確かに土に埋め込んだという実感がともなわないほどに小さい。しかし確かに埋め込まれていたようで、芽を出し苗となりさまざまな色合いの花を咲かせている。パンジーは成長期のシーズンは過ぎたというものの、毎日一つずつ花を咲かせている。マリーゴールドはあまり手がかからない。
 アガバンサスは4つがそれらしく5センチ丈に育っているが、花が咲くという5年後まで生かすことができるものかちょっと自信がない。このうちの一つでも花を咲かせることができたならこれはもう奇蹟に近いのではないか。

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 咲き終えた花の種をできるだけ取っておいている。いまのところ、エニシダ、ロベリア、黄色い花のオダマキ、ニゲラ。ニゲラは確実に咲くだろう。秋にはもっと増えるに違いない。
 樹木を種子から育てている方を何と気の長い物好きと思ったことがあるが、その楽しさをいまは理解できる。


 
 

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感謝いっぱいアマリリス

 きのうもきょうもアマリリスを観ながらコーヒーを飲んだ。観ながらというよりもアマリリスといっしょにという感覚だ。
 こんなに精一杯に、こんなに感謝いっぱいに咲いている。

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 ほかの春の花、ありとあらゆる春の花の苗が、自分の頭上のはるか高いところで、大切にあつかわれ、こまめな水やりに安心しながら活き活きと最初の花を誇らかに開示しているその下で、外皮が取りつきにくく剥がれ形がいびつとなって、まるで芽吹きのチャンスを逃したかに、5、6個の球根とともに器に転がされ、自分たちが果たして生かされるのか、それともうち捨てられてしまうのか不安におののきながら、それでもいつかは咲ける日もくるかもしれない、そうだ自分は咲きたいんだ、何とかして咲きたい、咲いてみたい、精一杯に、力限りに咲きたい、咲いてみたい。そして、命の可能性を抱きつづけていたに違いない。

 感謝いっぱいのアマリリス。一つの球根からそれぞれ4つの花芽を天に向け、5輪、6輪、5輪と咲き、それとまだ閉じたままの花芽が一つ。力限りに、感謝いっぱいに咲いている。
 いま流れているのはバッハのチェンバロ協奏曲第1番だよ。これが君へのきのうの賛歌、そしてきょうの賛歌だ。そう、君にぴったりの曲さ。いまの君に、そして球根のときの君にね。

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エフレム・ジンバリスト 1932年来盛

 エフレム・ジンバリスト(1889~1985)ロシアのヴァイオリニスト、指揮者、作曲家。ユダヤ系音楽家。ペテルブルク音楽院でレオポルド・アウアーに師事。卒業後ベルリンでデヴュー。1907年ロンドンデヴュー1911年ボストン交響楽団と共演しアメリカデビュー。アメリカ定住。息子はテレビ俳優、娘は女優で、ともに世界的に有名。1922年初来日、以後四度にわたって来日した。1941年カーティス音楽院院長に就任。日本の江藤俊哉は高弟のひとり。1962~1966チャイコフスキー・コンクールの審査員。『アメリカ狂詩曲』『交響詩ダフニスとクロエ作曲』(ラヴェルのダフニスとクロエのほうが有名)『ヴァイオリン協奏曲』を作曲。

 このエフレム・ジンバリストが1932(昭和7)年10月20日に盛岡の岩手県公会堂に来ている。主催は盛岡コロムビア特約店、後援は岩手日報社。そのときのプログラムがあります。

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 このときにジンバリストを岩手公園に案内したのが民謡研究家の武田忠一郎先生だった。ジンバリストは武田先生の持っているコンチェルトの楽譜ぜんぶにサインしてくれ、そして「盛岡は芸術の都と聞いてきましたが、この温床の上にやがて小さな花が咲く日も来るでしょう」といったという。桜山神社側の入り口のエノキの大木にしばらく佇んでいたらしい。それから公園の上に立って一羽のトビが輪を描いて飛ぶのをうれしいといっていつまでも眺めていたという。

 

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アマリリス ーこんなにー

 一つの球根から出る花芽は一つ。そして一つに咲く花の数は4つ。これが私の思うアマリリスのごくふつうの姿だった。ところが、

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上の写真はどちらもピコティ。青い鉢のほうは花芽が二つ出ている。

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この赤いアマリリス、一つの鉢に二つの球根を植えたところ、どちらからも花芽が2つ出て、つまりは花芽が4つとなった。一挙に蕾が膨らみ、よく見ると、何と右の方には蕾が6つ、左の方には蕾が5つ付いている。これにともに花芽のままのが予備軍のように待機している。いったいどうなることかと毎日観ていたところ、

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両方とも先ず4輪が一斉に開いて残る蕾はすこしゆっくり目。投げ売りされていた球根だった。それがもう苦しいばかりに花をたわわに咲かせている。圧倒されてしまった。まだ花芽の分が開いていない。ぜんぶ咲いた有様は壮観だろう。アマリリスというよりは、何とももの凄い生き物たち。庭の中でどの花よりもどでかい存在を誇示しながら赤々と君臨している。

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三田照子さん、95歳で、著書『ぐるぐる回しー私の戦後史』 を出版

 この6月に花巻市にお住まいの三田照子さん(95歳)が、著書『ぐるぐる回しー私の戦後史』 を出版された。
 第1部は「私の戦後史」で5~156頁。味わい深い短歌を叢林に咲き出でる花のように随所に散りばめながら、夫三田善右衛門氏とともに歩んだ人生、そして、善右衛門氏亡き後、米寿を迎えるまでの感動の人生を綴っている。  
 第2部は「エッセイ集」で161~205頁。1986~2008年に新聞掲載されたもの。
 弟3部は「小説」で209~226頁 。第49回岩手芸術祭県民文芸作品奨励賞受賞作品。

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 既に出版されている三田照子著『再見』、そして三田善右衛門著『光陰赤土に流れて』を読んでいるが、またこの著書を開いて新たな感動があった。
 特筆したいのは、夫の三田善右衛門という方は、すべてを他人の為に注ぎ込んだ人物だった。満州から引揚げる目処が付いたその時、「まだ難民が北方から来るし、今動かせない病人もいる」といって、妻子を先に帰国させ、自分は最後の帰国列車にも乗らずに彼の地に留まり同胞の面倒を見、また日本人難民収容所で自分が最期を看取った814人もの名簿と遺品、家族への伝言、遺言を預って帰国し、それを何年にも亘って遺族に問い合わせ、面会し、届けている。そして遺族が見つからない方々を法要を以て礼を尽くした人である。善右衛門氏の人生は、その友人の証言にもあるが、すべてこのようだった。善右衛門氏の終戦直後の同胞の救済は、その人となりを見そなわした天の配剤であると思われてならない。その妻である照子さんが、どれほどその使命を理解し、ひと言も不平を言わず幾多の困難を乗り越えながら快く協力してきたかは想像に難くない。照子さんの精神土壌は聖書であり、クリスチャンである彼女は事ごとに祈りながら様々な局面を乗り越え、そしてそれが感動の積み重ねとなっていることである。多くの人々を生かそうとする夫を生かし、自らを生かし、3人の息子たちを生かし、そして、夫亡き後は、夫の遺志を生かそうと生きた証しの書がこの『ぐるぐる回しー私の戦後史』です。
 晩年ガンと闘い復帰。そしてまた昨年12月骨折するという試練に遭われましたが、厳しいリハビリも人の2倍の意志と努力とで退院できるまでにお元気になられました。
 この感動の1冊を、どうぞ手にお取りください。

申込先:岩手県花巻市高木20-200-350 ℡0198-23-4804  三田宅

     花巻市御田屋町1-33 ℡0198-22-3030 三田商会 まで

【三田照子氏略歴】
大正6(1917)年山形県鶴岡市に生まれる
昭和9(1934)年県立鶴岡高等女学校卒業
昭和13(1938)年仙台市宮城学院専攻科卒業(現宮城学院女子大学)
昭和16(1941)年中国に渡り結婚、中国青年のための無料夜学塾を開く
昭和20(1945)年敗戦 夫善右衛門、日本人難民救助活動を行い、日本人全員帰国に加わらず、中国にて活動を続ける。
昭和21(1946)年帰国 夫は遅れて帰国
昭和22(1947)年東京にて職を得て一家上京
昭和33(1958)年夫の郷里花巻市にてガソリンスタンドを開業
昭和36(1961)年夫善右衛門死亡により、三田商会を引き継ぐ
昭和47(1972)年照子の『再見』(ヅァイジェン)出版と夫善右衛門遺稿集を『光陰赤土に流れて』として共著出版
昭和60(1985)年以降、この頃より中国残留孤児帰国、その支援活動に参加する

 当時、一攫千金を求め、或いは職を、或いは新天地での経済的な夢を求めて満州に渡るかたが多かったが、三田善右衛門氏は五族共和を純粋に信じて渡ったことは、その前後の人生の在り方からも知ることができる。また照子氏晩年の中国残留孤児の支援には長男三田望氏も、孤児達のために集められた物資、家電の配送、孤児の身元引き受けに関わる煩雑な書類手続きなどを担ったと照子氏より聞いております。

 7月7日には、花巻市のホテル花城において出版パーティーが開かれ、100人余りの方々の祝福を受けました。

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きょうのことば 『賛美の力』―ベラカの谷の勝利―

 日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教を書かせていただいております。2012年7月8日(日)のきょうは、昨日7日に引き続き「MAY。。。」さんをお迎えしての集会でした。感動でした。

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以下に掲載するのは,2012年7月1日の説教です。

説教題『賛美の力』―ベラカの谷の勝利―
聖書引証 第二歴代20章14~23節

14 ときに、主の霊が集団の中で、アサフ族の出のレビ人ヤハジエルの上に臨んだ。彼はマタヌヤの子エイエルの子ベナヤの子ゼカリヤの子である。
15 彼は言った。「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたに仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。
16 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。
18 それで、ヨシャパテは地にひれ伏した。ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して主を礼拝し、
19 ケハテ族、コラ族のレビ人たちが立ち上がり、大声を張り上げてイスラエルの神、主を賛美した。
20 こうして、彼らは翌朝早く、テコアの荒野へ出陣した。出陣のとき、ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住人よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」
21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
23 アモン人とモアブ人はセイル山の住民に立ち向かい、これを聖絶し、根絶やしにしたが、セイルの住民を全滅させると、互いに力を出して滅ぼし合った。

【説教】
 先週の29日金曜日には、マリオス小ホールで、日本聖書協会主催によるジョン・チャヌ氏のすばらしいヴァイオリン演奏会がありました。こんどは、7月7、8日と、この教会で、MAY。。。さんのコンサート集会をもつわけですが、ジョン・チャヌ氏のコンサートから、何かそのための励ましをいただいたように思います。パイプオルガンも備えたマリオス小ホールに比べて、この教会は小さいですけれども、MAY。。。さん方は、プロフィールからも、仮にマリオスを会場にしたとしても十分な音楽の力をお持ちです。それでも入場料は無料。「汝の口を広くあけよ」と仰る神さまへの期待が心に満ちてまいります。どうか一人でも多くの方々に、この集会をご案内いただきたく願っております。

 この一ヶ月は賛美の力というものを心に留めてまいりました。きょうお話するのは第二歴代誌からです。この時代はBC874年頃でヨシャパテという王の時代です。イスラエルが北王朝イスラエルと南王朝ユダに分裂したことは前に申しました。ユダの国は、このヨシャパテのときに、敵対する周囲の三つの国が同盟を結び大挙して攻め込んでくるというピンチに陥りました。第二歴代誌20章1、節をご覧ください。
1 この後、モアブ人とアモン人、および彼らに合流したアモン人の一部が、ヨシャパテと戦おうとして攻めて来た。2 そこで、人々は来て、ヨシャパテに告げて言った。「海の向こうのアラムからおびただしい大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツァルォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」
これはヨシャパテが統治していたユダの国の首都エルサレムのもう目と鼻の先に敵の大軍が押し寄せ絶体絶命に追い込まれた場面です。20:3には
3 ヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。
国中が心一つとなって断食し神の憐れみを請うたのです。
12…私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」
13 ユダの人々は全員主の前に立っていた。彼らの幼子たち、妻たち、子どもたちも共にいた。

 この大きな危機をまえに、ヨシャパテと幼子にいたるまでの国中の者たちが、ひたすら神に求め祈っている姿がここにあります。
福音を宣証しようとするとき、往々にしてこのような心境に陥ることがあります。この世の勢力があまりに強く、個人の力の何と乏しいことか。

 このときに14節から見ると、アサフ族出身のレビ人ヤハジエルに預言者のように神さまの霊が臨みます。そして彼は神さまからのメッセージを力強く述べました。
15 「ユダのすべての人々とエルサレムの住民およびヨシャパテ王よ。よく聞きなさい。主はあなたがたに仰せられます。『あなたがたはこのおびただしい大軍のゆえに恐れてはならない。気落ちしてはならない。この戦いはあなたがたの戦いではなく、神の戦いであるから。16 あす、彼らのところに攻め下れ。見よ。彼らはツィツの上り道から上って来る。あなたがたはエルエルの荒野の前の谷のはずれで、彼らに会う。17 この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ。ユダおよびエルサレムよ。恐れてはならない。気落ちしてはならない。あす、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにいる。』」
 この17節のおことばは何と示唆に富んでいるでしょうか。「この戦いではあなたがたが戦うのではない。しっかり立って動かずにいよ。あなたがたとともにいる主の救いを見よ」というのです。
 私たちとともにおられる神はこのような神であることに心を留めたいと思います。

 さて、神に戦っていただくためには、私たちはどうしたらいいのでしょうか。いまMAY。。。さんの集会を持とうとしておりますが、この戦いは私たちの戦いではなく、神さまのものであることを確認したいと思います。これは、神さまの戦い、抜き身の剣をさげてヨシュアの前に出でておられる主御自身の戦いなのです。主御自身が、「わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ」と仰って、乗り出し戦ってくださるのです。アーメンです。
 それから2番目、神さまは人間の弱さを用いて戦ってくださるということです。ヨシャパテは、敵の軍勢には到底太刀打ちができないことを知っていました。弱いことを自覚していた。これは、神さまが、弱い者を通して御栄光をお取りくださるための備えではないでしょうか。小さなこの教会の働きです。しかし、だからこそ、神さまはこの弱い小さな者を通して栄光を現わしてくださる。

 それから3番目に肝要なことは、この教会の強勢拡大のためではなく、人の評価を得る為にでもなく、ただ神の御想いであるところの滅びゆく魂の救いのために祈ることです。御意に適った祈りをするなら、主は必ず聴いてくださる。これこそが、私たちの神に対する確信です。そして日々神に祈ることです。祈りのない行為は神を蔑ろにすることです。祈らずに何かができると思うのは、それは傲慢です。弱いからこそ、神の御栄光を拝するために、日々神の前に祈る者でありたく思います。

20…ヨシャパテは立ち上がって言った。「ユダおよびエルサレムの住人よ。私の言うことを聞きなさい。あなたがたの神、主を信じ、忠誠を示しなさい。その預言者を信じ、勝利を得なさい。」21 それから、彼は民と相談し、主に向かって歌う者たち、聖なる飾り物を着けて賛美する者たちを任命した。彼らが武装した者の前に出て行って、こう歌うためであった。「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」
 賛美する者たちは武装した者たちの前に出ていって賛美したのです。そして22節
22 彼らが喜びの声、賛美の声をあげ始めたとき、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。

 一ヶ月、賛美というものに心を向けてまいりました。賛美歌は神さまに共鳴する。神の力と共振する。その証しがこれであるように思います。どうか、MAY。。。さんの2日間に亘る集会が、福音を覆い、暗黒の力が牛耳っているこの今に、突破する、打ち破る2日間となりますように。
 24、25、26節を見ますと、
24 ユダが荒野に面した物見の塔に上ってその大軍のほうを見渡すと、なんと、死体が野にころがっている。のがれた者はひとりもない。
25 ヨシャパテとその民が分捕りをしに行くと、その所に、武具、死体、高価な器具を数多く見つけたので、これを負いきれないほど、はぎ取って、自分のものとした。あまりにも多かったので、彼らはその分捕りに三日かかった。
26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえた。それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。
 明らかに、戦ったのは神でした。ヨシャパテの軍は、戦わずして分捕りに3日もかかったという。これがベラカの谷の勝利であります。
 最後に26、27節をお読みいたしましょう。
26 四日目に、彼らはベラカの谷に集まり、その所で主をほめたたえた。それゆえ、人々はその所の名をベラカの谷と呼んだ。今日もそうである。
27 それから、ユダとエルサレムの人々はひとり残らず、ヨシャパテを先頭にして、喜びのうちにエルサレムに凱旋した。主が彼らに、その敵のことについて喜びを与えられたからである。


※プロジェクターで使用された絵画、資料などは割愛、また読みやすさを考慮し、説教を約半分に編集させていただいております。文責:中ぶんな

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なつかしいあの歌、この歌ー「MAY...」とともに

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 高校生だったとき、私は何をどう勘違いしてか、或いはそれでよかったのか、芸術は書道を選択してしまった。あとで音楽をやりたかったと後悔。姉は音楽を選択し、私が覚えたいと思うような曲ばかりを楽しそうに口ずさんでいた。「教えてちょうだい」と頼んだところ、これが断わられてしまったのだ。後年このことを訊いてみると姉はいった、「あなたは生意気だったから」。この姉は、いま西日本に住んでいて滅多に会うことがない。あのころに歌いたかった歌を、たくさんの人たちといっしょに歌うチャンスがやっと訪れた。それがきょうだった。
 MAY。。。というユニットが、私の行っている教会に来て、いっしょに歌ってくださったのだ。写真左から木下真樹子姉妹、西谷葉子姉妹、石鍋敦子姉妹の3人のクリスチャン音楽家たち。力強いピアノ伴奏は木下姉妹でした。

 「夏は来ぬ」、「椰子の実」、童謡9曲「どんぐりころころ」など、「手のひらに太陽を」、「幸せなら手をたたこう」をもう誰に気兼ねもなく、身振り手振りで思いっきり歌い楽しみました。

 それから、西谷・石鍋両姉妹が歌ってくださったヨハン・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」からの『乾杯の歌』、デラクア作曲『ヴィラネル』、なかにしあかね作曲・星野富弘作詞『秋のあじさい』、素晴らしかったです。

 若い日に歌い損ねた不満は一気に解消。まるで憑きものが落ちたときのような晴れやかな気分で、スクーターを30~40キロ近くの速度に保ちながら、途中あしたの愛餐会のために作るマリネ用の青魚をスーパーで買い込んで無事帰宅しました。

 明日8日(日)もあります。
午前10時半~礼拝・お祈り・音楽
愛餐会(昼食会)ー来会した方々と
   初めての方大歓迎
   美味しいお料理がいーっぱい!!
午後2時~
   またまたMAY。。。さんたちとごいっしょに音楽します!!


インマヌエル盛岡キリスト教会はこの地図で
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MAY。。。とともに童謡や賛美歌を歌おう!! 2012/07/7(土)・8(日)インマヌエル盛岡キリスト教会

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       アマリリスも咲いて

 いよいよコンサート!! 「MAY。。。」、これは、木下真樹子氏、西谷葉子氏、石鍋敦子氏の3人のユニットです。

なつかしいなつかしいあの曲、この曲、さあ、ごいっしょに歌いましょう!!

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西谷葉子(ソプラノ):桐朋学園大学音楽学部卒業。同研究科修了。イタリア、ミラノ音楽院修了。イタリアではアンジェリ教会、劇場、学校でのコンサートやオペラに出演。全国学校教材用CDやPCソフトに100曲以上を収録。第34回鎌倉音楽コンクール第1位、鎌倉市教育委員会賞、第8回全日本ベストプレイヤーズコンテスト第1位。横浜市民広間演奏会会員。ユーオーディアアカデミー声楽専門コース卒業。同声楽科講師。単立桜台恵み平安キリスト教会メンバー。
石鍋敦子(メゾソプラノ):東京音楽大学声楽演奏家コース卒業。同大学院修了。
ユーオーディアアカデミー声楽専門コース卒業。チャペルコンサートや各種オペレッタ、ソロなどで活躍中。桜台恵み平安キリスト教会メンバー。
木下真樹子(ピアノ)
:フェリス女学院短期大学音楽科卒業(ピアノ専攻)同専攻科修了。ユーオーディアアカデミーピアノ専門コース卒業。同助手。日本ホーリネス教団上池キリスト教会メンバー。
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SFマガジン8月号(早川書房)に立川ゆかり氏の連載ー「是空の作家・光瀬龍」第7回ー

 立川ゆかり氏がSFマガジン(早川書房)にSF作家光瀬龍の評伝を連載していますが、これが第7回となりました。
 立川氏は、「いわての同人誌 天気図」の編集長、毎年発刊のシーズンには同人のみながお世話になっています。光瀬龍先生は「北の文学」の編集委員でもあられました。

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前号までは、概略といったものを書かせていただいておりましたが、若干偏った紹介をしていたかもしれないと反省し、今号からは発刊となったお知らせのみといたします。ひとりでも多くの方々に読んでいただきたいと思います。

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重篤のチェロ、ヴァイオリン 復活

 石巻で重傷となったチェロを松本伸氏が修理、復活させ、このチェロでコンサートが開かれる。7月7日開演午後7時、仙台市青葉区のcafe Mozart Atelier(カフェ・モーツァルト・アトリエ ℡022-266-5333)。チケット予約が必要。チェロの持ち主は飯沼一宇氏。演奏は仙台フィルの主席チェロ奏者原田哲男氏。

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 これをご案内する理由は、このチェロを復活させたのが、弦楽器をお持ちの方は必ず工房を訪れたことがあるはずですが、盛岡市本町に弦楽器工房を開いておられる松本伸氏です。演奏会の案内はよくしますが、ヴァイオリン製作者のお話を聞くチャンスは少ないのではないかと思います。大学時代にスペイン、イタリアの現代の名工の工房を訪れ感銘を受け、植木繁氏に弟子入り。1986年弦楽器工房を開設。以来国内外のプロ演奏者などの注文を受け、弦楽器製作、修理、修復を手掛けています。2002年チェリスト藤原真理氏の要請で宮澤賢治所有のチェロも手掛けました。

 松本氏の工房へは、開設したばかりの頃に主人に連れられてゆき、盛岡にも弦楽器製作者が存在することを知ったわけでした。今回奥様がこのチェロのいきさつについてちょっとお話くださいましたが、たぶんこれは7日のゲスト出演でお話なさる内容でしょうからここでは伏せておきますが、チェロにまつわる興味深いドラマが、また復活させるまでのおもしろいお話があるはずです。

 そして、どうしようもなくなった私の2挺のヴァイオリンも松本工房に入院。コマ調整、弓毛替え、弦1セット&e弦、魂柱削り・調整、指板削り、アゴ当て新調1コ+金具調整、楽器本体みがきなどの治療を施し、無事復活させていただき、日曜日の午後に退院してきました。この日主人が松本氏に質問したのは、楽器のことではなく、ある音楽家の消息でしたが、どこでどうしていらっしゃるか詳しくご存じで、音楽関係者の出入りの多さ、情報の多様さに驚いたことでした。

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 左側のヴァイオリンは、もう絶望的な状態で、廃棄も考えていたのですが、引き取りに伺ったときにすっかりきれいになっており、帰って弾いてみたところ練習にはまだ耐えてくれそうな状態になっていたので、つい小曲を数曲弾いてみました。
 右側のは、これだけの治療を受けているのですから、鳴らしてみなくとも鳴るはずですので、まだ弾いてみてはおりません。 


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MAY。。。とともに童謡や賛美歌を歌おう!! 2012/07/7(土)・8(日)インマヌエル盛岡キリスト教会

 きょうはMAY。。。、これは三人のユニット、木下真樹子さん、西谷葉子さん、石鍋敦子さんによるコンサートのお知らせです。

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  思えば、誰でもが知っている曲、誰もが歌える曲がいかにすばらしいか。旋律で、歌詞で一度にたくさんの人たちが心一つになることができる。そこに子どもが いて、大人がいて、男の人も女の人も、そして、ありとあらゆる職種の方々が会することができたなら。そんな人たちのさまざまな声が一つになって響いたな ら。
 MAY。。。の歌声に耳を傾け、そしてご一緒に歌いましょう!!


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          ☆ ☆  ☆  ☆  ☆


 きょうはアマリリスのピコティが咲きました。写真を撮るには、どうも光がいまいち。くもっているというわけではないけれど、これだ! いまだ! と納得する瞬間がなく、カメラを持ち出すところまではいかなかった。
 それにしても暑い一日だった。けれども無駄にはしなかった一日だった。
 今朝は紅海が二つに分れた光景が頭から離れなかった。無性にそんな絵が描きたいと思った。あの旧約聖書の記事だ。ただ単に海が分れ、渡ることができたのではない、喜びにわきかえりながら誇らしく現れ出でた道を渡っていったに違いない。

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友だちの庭訪問

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 二男は日曜日の夜、新幹線で勤務地に戻る。あとすこしでアマリリスが咲くところだったのに。しかし二男は二男で友だちと過ごし、楽しんだもよう。駅まで送り、車を降りるときに言うことは、「俺がいないうちに趣味でもやって人生のばしてよ」。“苦労かけたね”とも聞こえたけれど。こっちもそんなに立派な親じゃないから、あなたにも苦労かけてるね、体をこわすまでは無理しなさんな、などと思いながら「愉しかったよ、元気でね」と車窓から見送る。

 きょうは午前中は皐などの苅込。やらなければならない作業が気にかかる。若干の焦りを覚えながら苅り進んでみると、西洋すぐりが真っ赤になっているのを発見。すぐりが大好きな天沼三津子さんにさっそく連絡。午後にいらっしゃるという。天沼さんがいらっしゃっているところに長男から電話が入った。
 電話は滅多にないので、「どうしたの?」と訊くと、「こっちでアガバンサスが咲いているのを見たから、そっちが気になって」。どうも1週間のカゼをこじらせ、医者に診てもらった帰りらしい。向こうに姉一家がおり、従兄弟達ともしばしば行動を共にし、よく姉からも様子を聞いているのでそれほど心配はないかと思う。アガバンサスで思い出してくれたこの嬉しさは。

 こんどは大信田時子さんから電話。「アマリリスが咲いてるからどうぞ」。天沼さんとともに大信田さん宅へ移動。

これよりは大信田さんの庭です。

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テーブルに寛ぐ人影は大信田さん

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             アマリリスを撮る天沼さん

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 というわけで、夕食後はついついいねむり。はっと気がつくと

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 9時半。こんな月が。かくして10時半就寝はきょうもならなかった。

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きょうのことば 『小さな証人』ーある将軍の救いー

 

2012年6月24日(日)のインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の礼拝説教をお伝えします。

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説教題 『小さな証人』ーある将軍の救いー
聖書引証 第二列王5:1~14

1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士で、ツァラアトに冒されていた。
2 アラムはかつて略奪に出たとき、イスラエルの地から、ひとりの若い娘を捕らえて来ていた。彼女はナアマンの妻に仕えていたが、
3 その女主人に言った。「もし、ご主人さまがサマリヤにいる預言者のところに行かれたら、きっと、あの方がご主人さまのツァラアトを直してくださるでしょうに。」
4 それで、ナアマンはその主君のところに行き、イスラエルの地から来た娘がこれこれのことを言いました、と告げた。
5 アラムの王は言った。「行って来なさい。私がイスラエルの王にあてて手紙を送ろう。」そこで、ナアマンは銀十タラントと、金六千シェケルと、晴れ着十着とを持って出かけた。
6 彼はイスラエルの王あての次のような手紙を持って行った。「さて、この手紙があなたに届きましたら、実は家臣ナアマンをあなたのところに送りましたので、彼のツァラアトを直してくださいますように。」
7 イスラエルの王はこの手紙を読むと、自分の服を引き裂いて言った。「私は殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。この人はこの男を送って、ツァラアトを直せという。しかし、考えてみなさい。彼は私に言いがかりをつけようとしているのだ。」
8 神の人エリシャは、イスラエルの王が服を引き裂いたことを聞くと、王のもとに人をやって言った。「あなたはどうして服を引き裂いたりなさるのですか。彼を私のところによこしてください。そうすれば、彼はイスラエルに預言者がいることを知るでしょう。」
9 こうして、ナアマンは馬と戦車をもって来て、エリシャの家の入口に立った。
10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、
主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このツァラアトに冒された者を直してくれると思っていたのに。
12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で、洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。
13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい』と言っただけではありませんか。」
14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりにヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。


【説教】
 きょうは6月最後の聖日礼拝となりました。7月に入りますと、7、8日の2日間、MAY。。。さんの「童謡と賛美歌を歌う集い」が開かれます。このような特集を前にしたときに、必ず思い浮かぶ聖書箇所は、一つは、イエスさまの5000人の施食
で、一人の少年が持っていた僅かなおべんとうがイエスさまによって、5000人以上の食べ物となったこと。そしてもう一つは、旧約聖書にあるナアマン将軍の重い皮膚病が、奴隷の身として仕えていたイスラエルの少女の話をきっかけとして癒されるに至った話です。この少女のように、一人にでも福音をお伝えすることのできる者とならせていただきたいと、きょうここを立ち上がることができたならば、きょうのメッセージのお役目が果たされるのではないかと思っております。

 きょう教えられるのは一人の少女からです。このときの背景を簡略に申しますと、イスラエルはダビデ、ソロモンの後、北王朝のイスラエルと南王朝のユダに分裂します。南王朝は領土としては北王朝よりも狭い。しかしダビデの直系ですから血筋としての正当性があります。北王朝は対立したがゆえに成立しました。領土は広いけれども、直系ではないという難点があります。
 きょうお話に登場するエリヤとその弟子エリシャは北王朝の預言者です。ときは約BC850年頃のことです。南王朝ではヨシャパテ、ヨラムといった人物の時代です。
 北王朝イスラエルの北方にはアラム(現在のシリア)という隣国がありました。このシリヤとイスラエルは絶えず緊張関係にありました。国力ではアラムが強く、イスラエルに攻め込み、人々を売買するために捕え連れ去ったことがありました。このとき捕えられた中に、後にアラムの将軍ナアマンの妻に仕えることになった少女がいたのです。
 マアマン将軍は戦いでは必ずアラムに勝利をもたらす人物でした。王から人々から尊敬と敬意を集める勇士だったのです。当時の価値観としてはそのような人物でした。しかしこの将軍はツァラアトという重い皮膚病を患っていた。誰にも言えないこの苦しみを将軍の妻はよく知っていた。

 もしきょうの集会が伝道会であったなら、このツァラアトを人の罪としてお話したでしょう。人間の本質である罪。社会的にどんなに高い地位、名誉があろうと、人望も篤く幸福そうであろうとも、重い皮膚病を持っている。これが次第にツァラアトという病を成して表れてくる。ナアマン将軍は即ち私たちの姿です。

 ナアマンの妻は、略奪してきた少女から、イスラエルには、ツァラアトを治すことのできる神がいることを知って、王に告げると、王自らが、家臣を治してくれるように敵国に謙り、貢ぎ物をもって頼み込んでいる。ところが、自分の国にまことの神さまに仕える預言者たちがいるというのに、イスラエルの王は神さまを信じていない。いやしくも神の民であるというのにです。これは言いがかりに違いない、まことの神さまがいて何でも癒すはずだと言いながら、次には癒されないじゃないかと難癖をつけ、攻撃をしかけようという魂胆だろう、そう思ったでしょう。
そこで本気になって、この解決を神さまに祈り求めるべきところでそれをしない。
 結果的にナアマンは癒されるのです。

 福音は異邦人にももたらされた。ところが片や、神の民たちはこれを求めてはいない。イエスさまはご自分の民のところに来たのに、民は光よりも闇を愛して受け入れなかった。拒絶したのです。私たちクリスチャンも気をつけませんと、あの北王朝イスラエルの王のように不信仰なすがたを露呈してしまうのです。
 いま罪に悩み求めている人たちがいるはずです。悩み苦しみに直面し、どうしたらよいかわからない方がいらっしゃるときに、まことの神さまを提供する少女の立場にあるか、あの北の王のようであるか。もしあのとき、王に信仰があったなら、すぐにエリシャを紹介し、大きな栄光をあらわすことができたはずでした。しかしそれをしようともしなかった。

 私たちはどうでしょうか。あの少女は聖書に名前も記されていません。悲劇的な状況を潜ってきているわけで、自分の境遇を嘆き、神さまを怨んでいたとしても不自然ではない。しかし彼女は、この遠い異国にあって、きっと、神さまを賛美し、祈りながら、主を証ししていたでしょう。そんな少女にナアマンの妻は悩みを告げたのです。
 いま賛美の力に心を向けながら聖日を守っておりますけれども、私たちもこの少女のように、生けるまことの神さまを信じ生きていくとき、私たちの周囲の方々も、あなたの持っているものはなにか、あなたの持っているものが欲しい、このように問いかけ求めるようになるのではないでしょうか。

 また、あのときナアマンは、自分を戦勝国の将として丁重に遇さないエリシャに、自分の地位に相応しく迎え治療行為をしてくれないことに激怒します。しかし家来に、何も面倒なことをいっているのではない、たったこれだけの簡単なことさえやればいいんですからと諭され、ヨルダン川に7回身を浸しただけで見事に癒されたのです。
 「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」
 難しいことをしなさいというのではありません。ただこれだけで救われるのです。このような救いをもたらすことのできるMAY。。。さんの集会であることを願うことです。

※プロジェクターに用いられた参考資料は割愛しております。また45分の説教を約半分に編集しております。文責:中ぶんな

 

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