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きょうのことば『ペテロのように』

毎週日曜日は自分の行っている教会の説教をICレコーダーから起こし掲載しております。何かを考えるときのヒントともなればと願っております。

2012年5月27日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会℡019-646-2924)國光勝美牧師によるペンテコステ礼拝説教です。

説教題『ペテロのように』

聖書引証 第二ペテロ1章1~11

1 イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから、私たちの神であり救い主であるイエス・キリストの義によって私たちと同じ尊い信仰を受けた方々へ。
2 神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。
3 というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。
4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。
5 こういうわけですから、あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を、
6 知識には自制を、自制には忍耐を、忍耐には敬虔を、
7 敬虔には兄弟愛を、兄弟愛には愛を加えなさい。
8 これらがあなたがたに備わり、ますます豊かになるなら、あなたがたは、私たちの主イエス・キリストを知る点で、役に立たない者とか、実を結ばない者になることはありません。
9 これらを備えていない者は、近視眼であり、盲目であって、自分の以前の罪がきよめられたことを忘れてしまったのです。
10 ですから兄弟たいよ。ますます熱心に、あなたがたの召されたことと選ばれたこととを確かなものとしなさい。これらのことを行っていれば、つまずくことなど決してありません。
11 このようにあなたがたは、私たちの主であり救い主であるイエス・キリストの永遠の御国に入る恵みを豊かに加えられるのです。

【説教】

きょうはペンテコステ(五旬節)を迎えております。新約聖書から申しますと、イースターから50日目にイエスさまのお弟子さんたちに聖霊が降り教会が誕生した日です。また旧約聖書で申しますと、ユダヤの人たちが過越しの祭りから50日を経て祝う仮庵の祭りに相当するものです。過ぎ越しの祭り、七週の祭り(刈り入れの祭り)、仮庵の祭りはユダヤの三大祭です。仮庵の祭りというのは、エジプトから出たイスラエルの民が、神に導かれて荒野を旅したことを忘れないように行った祭りです。過ぎ越しの祭りというのは、イスラエルの人々の苦役の地エジプト全土に神の裁きが下るときに、鴨居に子羊の血が塗ってあるイスラエルの家は裁きを下さずに過ぎ越してくださったことを記念する祭りです。それから50日後にはさまざまな説がございますが、モーセがシナイ山で神さまから十戒を与えられた記念日であるとされております。神の新しい契約が石の板に神の指で記された日、これが即ち新約でいうところのペンテコステ、新しい契約が神さまから与えられ私たちの心に刻まれる、ペンテコステの意味の大きさを思うことでございます。

ペンテコステのときに風が起きて天から聖霊が与えられ、そこに臨んだ弟子たちがみな変えられたのです。この弟子たちを変えた力とは一体どんなものでしょう。それは罪の力、死の力に勝つ力です。使徒の働き1:8「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」というその力です。そして「地の果てにまで、わたしの証人となります」とありますが、キリストの証人たり得るためには、何としてもこの聖霊の力を必要とします。

きょうは第二ペテロを引証とし、説教題を「ペテロのように」といたしました。みなさんは、あのペテロのどんなところを思い出すでしょう。

ペテロ、ヤコブ、ヨハネは三大使徒徒と呼ばれ、弟子たちの中でもより多くイエスさまの傍近くで教えを受けました。ペテロはガリラヤの漁師でしたが彼の兄弟アンデレとともに「わたしについて来なさい」とイエスさまに召し出されました。そしてペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と信仰告白したとき、イエスさまはこのペテロの信仰をいたく喜ばれました。そしてマタイ1618にあるように「ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます」と仰ったのです。これがペテロの位置づけであり、三大弟子の筆頭格です。

ペテロはヤコブとヨハネとともに、十字架を目前にしたイエスさまのヘルモン山でのすがた変りのとき、モーセとエリヤが現れたことを見、父なる神がイエスさまを「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と仰せられたその声を聞いています。後にペテロは自分がまもなく殉教するであろうというときに、第二ペテロ116に「私たちは、あなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、うまく考え出した作り話に従ったのではありません。この私たちは、キリストの威光の目撃者なのです。」と、このように書き留めています。イエスさまのゲッセマネの祈りのときにもペテロはおりました。イエスさまの復活のとき、真っ先に空虚な墓の中に飛び込んでいったのもペテロです。たしかにイエスさまはよみがえられた。そしてその後、これからガリラヤにもどってそこでわたしと会う、というよみがえりのイエスさまからの伝達を聞いたとき、ペテロやお弟子さんたちはガリラヤに行き、ほんとうにイエスさまにお会いしたのです。これが幻ではない証拠は、イエスさまは弟子たちのためにパンと魚で朝餉の備えをしてくださっていた。

イエスさまが捕縛され十字架に向かうとき、恐れてついていくことができなかったペテロ。十字架上で死を遂げたイエスさま、この大きなイエスさまという柱を失ってしまい路頭に迷うがごとくであったときに、ペテロはペンテコステ、聖霊降臨を体験します。そしてネロによるヤコブ殉教にもすこしも恐れることは無かった。ペテロは投獄されたときに、教会の祈りによって牢獄の扉が開き、祈っている信徒たちの前に姿を現わすという体験もしています。そして彼は最後にペテロ第一の手紙、第二の手紙を記しました。また忘れてはならないのは、マルコの福音書には多くのイエスさまのエピソードが書かれていますが、これはペテロから聞いたものであります。

あのペテロがなぜこれほどまでに変えられたのか。ペテロはイエスさまによって名前を岩と変えられました。聖書の場合、名前が変わることはその本質も変わることを意味します。イエスさまがペテロを変えてくださった。ペテロはペンテコステのときに力を得て変えられたのです。あのペテロがとは言いましたが、さて私たちはどうでしょうか。

ペテロには、あらゆる面でエリートであったパウロのように学ぶ機会はありませんでした。ガリラヤの漁師一筋でした。しかしある日イエスさまと出会い、このお方こそ生涯かけて従うべきと後についていった。しかしそこに数多くの失敗があり、イエスさまの赦しとお取り扱いがあった。私たちもそうです。あるときイエスさまに出会いました。従い続けて今日あるお互いです。イエスさまは聖霊によって私たちを変えてくださる。

これからのアメリカの大統領選の行方はわかりませんが、かつてオバマ大統領は言いました。「チェンジ!」、「イエス・ウィ・キャン!」。変わろう! 変えるんだ! 我らはやればできるんだ! ホーリー・スピリット、ペンテコステの聖霊の力によって!! あのペテロがこれによって変えられたのです。そしてこれこそが、聖書によるところの変貌を私たちに可能とさせるのです。

ペテロが大きく変えられたことの一つに、自分とは正反対であるパウロへの意識の変化も挙げることができます。パウロは出自の家柄も学歴も社会的な地位もペテロのそれとはかけ離れた存在でした。それを踏まえてか、ペテロはユダヤ人の救いに大きく用いられ、パウロは異邦人の救いに大きな役割を果たしました。2人ともに福音のために貴く用いられたのですが、タイプは違っておりました。確執もあった。ペテロがついユダヤ教の律法主義に譲りすぎてしまったときに、パウロはペテロに面と向かって指摘する。ペテロにすれば大先輩の自分によくも言ったものだと不快感を持ったでしょう。しかしペテロは第二ペテロ315に「また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。それは、私たちの愛する兄弟パウロも、その与えられた知恵に従って、あなたがたに書き送ったとおりです。」とこのように書き記している、「愛する兄弟パウロ」と。

続く16説でもパウロの手紙のことを言っているのですが、「16 その中で、ほかのすべての手紙でもそうなのですが、このことについて語っています。その手紙の中には理解しにくいところもあります。無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の個所の場合もそうするのですが、それらの手紙を曲解し、自分自身に滅びを招いています。」

パウロの手紙の中には解りにくいところもある、率直に特にわたしのような無学な者や心の定まらない人たちには無理にわかろうとしてパウロの言わんとするところを曲げてしまっている、とこのようにパウロの書簡を曲解から守ろうとしています。これには心が温かくなります。ライバルが自分より用いられ活躍している場合、妬ましい思いが先に立つでしょう。しかしパウロを尊重しパウロの言わんとするところがそのまま理解されるようにと心底から願ったペテロでした。

ペテロはネロの迫害で殉教いたしました。そのときに我らの主と同じ十字架では申し訳ない畏れ多いことだと、自ら逆さ磔(はりつけ)選び殉教しました。ペンテコステが彼のチェンジのときでした。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」 

彼は変えられました。彼は変わりました。イエスさまが十字架に磔となり、次ぎに捕まるのは自分たちだと恐れに震えていた弟子たちに聖霊が降ったときに、弟子たちの恐れはもはや消えて、人々の前に立って、あなた方が十字架につけたあのお方こそ神さまが救い主としてお与えくださったメシヤだ、と大胆に伝えていったのです。私たちは主の前に祈り求めましょう。

※例話など割愛したところがあります。文責:中ぶんな

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