チューリップ事件
すこしでもこの界隈が明るくと思い植え込んだチューリップの花がみな切り落とされているのに気づいたのは昨日の昼頃。花が5~10センチ丈に切り落とされていた。隣に勤めていらっしゃる方が教えてくださった。「可哀想に」としきりに残念がってくださる。見事にぼたぼたと落ちていた。なぜかわからないが不思議に腹がたたなかった。花を拾い集めて花器に飾るととても豪華だ。
塀の外側に植えたものは無くなってもよいという意識で植えている。鈴蘭が、勿忘草が姿を消したことがある。それらはたぶん何処かで生きて咲いているに違いない。しかしこのチューリップは謂わば無益な殺生ともいうべきものだ。尤も球根は残っているわけでいのちまでを失ったわけではない。けっこう増えるので塀の内側のそちこちにまだたくさん咲いている。
どうして切ったのだろう。きょうは一日小雨。流石にこのスペースがものさびしい。さてどうしたものか。
種苗ポットでは現在パンジーが48ポット植え込んだうち黄色15ポット、白が5ポット、ペチュニアは30ポット植えたうち5ポット芽がでている。定植するにはいましばらくの時間が要るだろう。しかし後陣は着々と育っている。まだ二種類の花の種苗ポットも芽が出ないまでも発芽のためのウォーミングアップぐらいはしているだろう。
午前中は増えたばかりのサクラソウも丹念に植え替えた。沿岸の方には気の毒な雨となっている、けれどもここではそう悪戯なあめというわけでもなく、この雨のお陰で元気に育ちそうな気配だ。
苗から植えたスナックエンドウ4本、キュウリ2本、サヤインゲン2本、ゴーヤ2本はまずまずに育っている。今朝見ると、二十日大根、春菊の芽が一斉に発芽し、地の表を緑色に覆っていた。どの程度に大きくなるかは兎も角ほんとうにすばらしい光景だ。
税金対策で畑地を手放さざるを得なくなった友人が、その畑に工事車輌がはいり先祖代々耕し続けてきた畑が宅地化されるため簡単に破壊されていく音に耐えられず電話で「この音を聞いてちょうだい」と受話器に流して聞かせてくれたがその気持がわかるような気がした。
土が命を育み産物を、実をもたらしてくれる光景が失われることが如何にさびしいことであるか、それはどんな優れた工業製品を手にしたとしても埋め合わされるものではないだろう。
思えば買い込んだ花の種も野菜の種も中国のものだった。
花が切られたチューリップはそれでも来年はまた咲くだろう。しかし見捨てられ放棄された耕作地の多くはただの荒れ地となってゆく。多くの豊かなすばらしい景観が失われてしまうのだ。
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