きょうのことばー『新しく力を得る、新しい力』
2012年4月29日インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019―646―2924)國光勝美牧師の説教をお届けします。
説教題『新しく得る力、新しい力』
聖書引証 イザヤ書40章27~31節
27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と。
28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
31 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。
【説教】
全国ニュースで盛岡のきょうの最高気温が25度になると報道されておりました。桜が一気に開花するでしょう。所用で盛岡地方裁判所を通りかかりましたが、国の天然記念物の石割桜には観光バスから降り立った多くの人たちがカメラを向けていました。春を待ちわびていた私たちの心がここにも表れているような気がいたします。
いまは「待ち望む」ということに心を留めながらおりますが、きょうはイザヤ書40章27~31節をお開きしております。預言書であります。聖書の預言書には、イザヤ書の他にもエレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書等々があります。いったい預言書とは何でしょうか。たまにテレビを見ますと、マヤの長期暦は2012年12月には重大事が起ることを予言しているとか、また過去にはノストラダムスが1999年に人類が滅亡すると予言したと書かれた本に惑わされた人々がありました。しかし聖書に書かれている預言は、一般にいわれるそういった予言とは意味が大きく違います。
聖書でいう預言とは、まず第一には、イザヤ書でいいますと、BC7C頃にイザヤという預言者が活躍していた時代に、その民族に神さまが語られたメッセージのことです。そして第二には、やはり、後々に起ることに関するメッセージでもあります。
預言者イザヤは、彼が生きた時代よりもはるか後に救い主イエス・キリストが生まれることを預言しています。特にイザヤ書53章には、あたかも、イエス・キリストの十字架に立ちあった者が書いたかと思われるような十字架の場面が記されています。それだけではなく、彼は、やがてこの国がバビロンによって滅ぼされること、そしてその国が再び回復されること、神は滅びの預言とともに回復の希望の預言をも与えて下さっていること等、さまざまなメッセージを語っています。
第三には、預言書は、今日の私たちクリスチャンたちへのメッセージであるということです。昔も今も同じ神さまが私たちにどのようなお約束をくださり励ましをくださっているのか、この視点が預言書を学ぼうとするときには大切です。
第二ペテロ1:21を引用しましょう。
「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。」
またイエスさま御自身がエマオ途上で旧約聖書を引用して語られたことがルカ24:25~27に出ております。
「24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。25 するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』
27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。」
イザヤ書は1~39章、そして40~66章の二つに分けることができます。大まかにこの時代背景をいいますと、イスラエルは南王朝のユダと北王朝のイスラエルとに分裂しておりました。イザヤは南のユダで活躍しておりました。彼の時代にイスラエルはアッシリヤに滅ぼされてしまいます。ユダはアッシリヤの脅威からは逃れますが、イザヤは、しかしユダもやがてはバビロンによって滅ぼされることを預言します。しかし神さまは必ず顧み救い主を与えてくださること、イスラエルの将来に栄光を与えてくださることをも預言します。
イザヤ書40:31に目を留めましょう。
「 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
「主を待ち望む者」とは、消極的にいうならば人に頼らない者、積極的には神にのみ頼る者ということです。私はこの二つの意味あいにおいて、きょうイザヤ40:27~31をとりあげてみたいと思っています。
新改訳では「新しく力を得」と訳しています。新しく力を得る。力が更新されるということです。40:29、30にあるように若い男も疲労困憊し躓き倒れることがあります。私はまもなく60歳になるというときに、念願だった北アルプスの常念岳に登りました。ふつうは山小屋で一泊するのですが、日程に余裕が無かったのでその日のうちに下山しました。下山途中、何のこともない沢で足を取られ転んだのです。疲労困憊とはあのことだろうなと思います。若者も疲れ躓き倒れる。
しかし、ここに、イエス・キリストへの信仰のあるところには、泉が湧く。「私を信じる者はそのからだの中に生ける水が川々と湧いて流れ出る」。主を待ち望む者、神さまのみに頼っている者にはこの力の更新がある。色々な人たちがさまざまな方法で疲労回復すべく手段を試しているけれども、神のみをあてにし、神のみを避け所としている人には、神さまがそれを越える力を更新してくださる。決して涸れることのない水が私たちに与えられることを覚えたいと思います。
またいま一つ、「新しく力を得」は、世の中の人たちが持っている力とはまったく質の違う力とも訳することができるその力とは、それは霊的な力、霊的な力を得ることができる。霊的というと誤解されやすいのですが、世の中が与える力とクリスチャンが神さまを待ち望むときに与えられる力は違います。それは先ず罪に勝つ力です。罪を犯し罪をそのままにして勝利はありません。しかし十字架によって罪が赦され解決したときに新しい霊的な力が与えられます。
霊的な力と言いながら、病の癒し、或いは異言を語るといった現象にのみ足場を置き偏っていく教会があるのですが、聖書のいうところの霊的な力はキリストのような人格になる力であり、キリストの証人たり得る力であって、このキリストの人格ということを離れて“力”ということに行ってしまったなら、それは、微妙なことですが、ほんとうの福音からは外れたものとなってしまいます。
新しい力を得て御霊に満たされ生きている方には、イエスさまをそのうちに感じることができます。先週も合同研修会の話をしましたが、そのとき長老派の先生が御講義くださいました。そして近しく交わりをさせていただいたとき、先生にすばらしいキリストの香りを感じたのです。神学的にはインマヌエルとは違った整理の仕方、背景、表現があるわけですが、先生が仰るところは、まさしく私たちがいうところのきよめに生き円熟しておられるというものでした。
先生は奥様から、「あなたはAさんに対する挨拶とBさんに対する挨拶には差があります」という指摘を受けたそうです。よく自分を吟味したときに、自分にどういう立場を取ってくれるかで区別していたことに気づいたそうです。そしてイエスさまが接するような在り方を試されたと仰いました。きよめというのはそのようなところに光が与えられて、それがしだいに成長してゆき、気がつかなかったところにも光が届き、それを示されたときに自己弁護をせずに、主よその通りですどうぞ私をあわれんでくださいといって出ることです。このように歩んでおられる先生はまさにきよめの生涯を歩んでおられるのだという思いを強く深くしたのであります。
キリストのような人格的な成長、それが新しい力なのです。私たちが日々主を待ち望むときに、イエスさまのようになっていく。イエスさまが「わたしの証人になる」というような新しい力、これは一番目に申し上げました「新しく力を得る」こととある意味セットになっております。
「鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」
どうぞこの恵の中に、私たちは主を待ち望みつつ歩ませていただきましょう。
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