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2012年5月

ヤッシャ・ハイフェッツのCD「バッハ ヴァイオリン協奏曲集」

  息子が自分の部屋の置き所に困ってたまに実家に送ってよいかを打診してくるものを一応みな受け入れている。近頃はよく見もせずに棚に並べておいている。ところがこの小さな部屋で近頃展開している掃討作戦でとにかく捨てられるもの処分できるものを探しているうちに図らずも手に取ったのが何とヤッシャ・ハイフェッツの復刻版だ。HEIFETZと眼に入ったときにはまさかと思った。顔写真を見ると紛うことなくたしかにハイフェッツ。あったのだ。この部屋の中に。今までそれに気づかずにいたのだ。

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 ヤッシャ・ハイフェッツは過去に於ける天才ヴァイオリニストであることに加え、私の中では謂わば骨董的価値というものも付加されている。個人的な興味の糸口は、やはり大正時代の盛岡市の弦楽四重奏団太田カルテットのメンバーたちが帝国劇場で彼の演奏を聴いたと考えられるからだ。関東大震災のときにも被災支援のため来日している。1949年にはルービンシュタイン、ピアティゴルスキーと「百万ドル・トリオ」と呼ばれるトリオを組んだ。彼自身はこのニックネームに嫌悪感を持っていたという。
 彼の写真を見るとき、ハイフェッツに特別な感懐を抱いている自分を覚える。これは何も暗喩でいうのではなく、若干は調べようと努力したところから来ているように思う。彼もやはりユダヤ人だ。

 このアルバムに収録されているバッハのヴァイオリン協奏曲第1、第2番は1953年12月にハリウッドで録音されているが、この2つの協奏曲は彼が残した唯一の演奏である。
共演はウォーレンスティン指揮ロサンジェルス・フィル他。「2つのヴァイオリンのための協奏曲」は1946年10月にやはりハリウッドで録音されている。共演はフランツ・ワックスマン指揮RCAビクター室内管弦楽団。ともにハイフェッツの絶頂期の名演奏である。(株)ソニー・ミュージックエンタティメント2001


諸石幸生 解説
バッハのヴァイオリン協奏曲第1、第2番
 絹のようにやわらかくて艶々とした音色、すべての音が正確かつ明快に、しかも充分な豊かさをもって響きわたる爽快感、そして何よりも冷静かつ客観性に優れた鏡のような演奏といえようか。一時期、ポーカーフェイスの名手が作り出す演奏は、技術的な完璧性のみがクローズアップされ、「冷たい」「自動機械のようだ」「情緒に乏しい」などと避難されたこともあるハイフェッツだが、半世紀を経た今耳を傾けると、完全無欠の技巧と徹底した読みを背景にした演奏はかえってモダンで新しく、時代の荒波を超えて生き続ける普遍的演奏、演奏活動の一つの理想像のようにも映ってくる。
 ハイフェッツは情緒に傾かなかったのではなく、あくまでも作品そのものに焦点をあて、その真の姿を謙虚かつ誠実に音にした演奏家であったことが痛いようにわかってくるバッハといってもよいであろう。情緒不足などではなく、余情を混入させて作品を汚すことを戒め、自身がもつ技術と音楽性とをただひたすらに作品に奉仕させた実に潔い演奏なのである。それは何かといえば個性や感情表現が喧伝される時代にあっては潔いほど無垢な美しさにあふれた演奏であり、ハイフェッツに耳を傾けていると個性などというつまらないもので作品の姿がゆがめられるくらいなら、ない方がまし、そんな感慨にすら襲われてしまうほどである。素晴らしい歌心にあふれた第2楽章も、ハイフェッツで聴くと凜とした気品があり、毅然とした甘美さとでも言えばよいのか、感情や個性といったものに逃げない演奏のすごみのようなものを感じさせられるが、そうした感慨を抱くのは決して筆者だけではあるまい。
2つのヴァイオリンのための協奏曲
 …当時としては画期的な多重録音の技術を駆使したもの…ハイフェッツは2つのソロ・パートを一人で弾いている。…ハイフェッツは理想のバッハ演奏を実現させるため、巡礼のような気持でこの録音に臨んだのかもしれない。2人のソリストは可能な限り似通っているべきだとハイフェッツは考えていたと伝えられる…。しなやかで何よりも融和度の高いソロは光の波が歌を交わすかのような境地すら作り出しており、他に2つとない二重協奏曲の世界へと聴き手を誘う名盤となっている。

 しかしできるだけ身の回りのものを処分しようと思いたったはずが、結局さまざまな発見をすることとなり、これら音盤も整理処分することは中止。手狭な空間ではあるがすべて保存してゆこうと決めた。大改革はいったい何だったのだろう。
 いま第2番のアレグロが鳴っている。切れの良さが心地よい。終日の暑さは消え、いま窓から吹き込む涼しい風を受けながらこのすばらしい演奏を聴くことに与る幸せを何に感謝したらよいのか。すべてにだ。こんなに幸せなときは神に、家族に、人みなに、ものみなに、この風にさえも感謝できるのだ。


 

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吉田秀和 かたる グレン・グールド

 グレングールドが1955年にだしたレコード、バッハの『ゴールドベルグ変奏曲』は一大センセーションを巻き起こした。Hショーンバーグは「グールド以前は、バッハはピアノでも弾ける、であった。しかしグールド以後は、バッハはピアノでこそ弾ける、に変わったのだ」(バッハの鍵盤曲はオルガンは別としてクラビコードかチェンバロで弾くものであった)とすらいったものらしい。

 しかし海外のヒットとは裏腹に日本での評価は低かった。吉田秀和はそれに対して著書に「ピアノの歴史を変えるといっても過言ではない、これほどの名演奏を前にして、これほど『冷静』でいられるとは、日本という国も、本当に面白い国である」と書いている。また『音楽の友』には、1955年の『ゴールドベルグ変奏曲』について「レコードのジャッケットにものを書いたわたしの最初の仕事であり…グレン・グールドのようなピアニストが、日本のLP批評家にさんざんやられているのをよむと、私は、おどろきを通りこして、腹がたつ」とこのように書いている。

 『レコード芸術』2011年7月号では吉田秀和の特集を組んでいる。
「特集 吉田秀和 ー音楽を心の友と」の序文は次のようである。
吉田秀和…なぜその文章は、こんなにも面白いのか。そしてなぜ読み手は、そこで紹介される音楽を聴き、同じ愉しみを味わいたいという欲求に強く駆られるのか。音楽や演奏そのものが面白いから、ではない。吉田秀和氏が面白いのである。音楽のある場所に行き、見聴きして帰ってくる氏というフィルターそのものが、抜群に面白いのである。…繰り返し言う。面白いのは吉田秀和氏である。答えは、音楽を心の友として生きる、その中にあるのだ。」

 1960年代の吉田秀和のレコード評のなかにあるグレン・グールド評は次のようだ。
「(彼の演奏したバッハは)いかに彼が「音響」を、単に感覚の遊びや感情の吐露とは違ったものとしてうけとっているかが、はっきりでている。彼の演奏を聴いて、私たちは、音質の微細な変化、活き活きとしたリズムの伸び、旋律の陰影にとんだ緻細な歌わせ方その他に、心から感嘆しないでいられないのであるが、(例は無数にあり、で始まるかっこ内の例示は割愛)、そういう見事さは仔細にきくと、すべてが、いわば一音一音の和声音、非和声音を問わず各音の音楽的機能の本当に無理のないーということは、アクセントのおき方から音色の選び方にいたるまで、音楽的秩序に即した処理から生まれているからであって、外から加えられた意味づけによるのではまったくないことがわかる。
 ここではちょうどバッハにおけるように、直観が論理となっているばかりでなく、秩序が直観を導いている。ー吉田秀和全集第6巻「ピアニストについて」171頁を満津岡信育が編集ー

 いまの時代、グレン・グールドに否定的な方がどの程度いるかはわからない。しかし1955以降の一時期、グレン・グールドに対する冷ややかな中に、熱い評をもって世に真価を知らしめた吉田秀和さんであった。吉田さんのご逝去は、映画界から淀川長治さんが旅立ていったときのような寂しさである。
 

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グレン・グールド

 ここのところ自分の部屋に溜め込んだ“紙くず”を何とか減らそうと躍起になっていた。あとはどれだ、あと捨てられるものはないか。…月刊「レコード芸術」の5年分に目がゆく。思い切って1年分だけ残してあとは捨てようか。5月号にグレン・グールドの特集が載っているのを思い出しページを捲る。グレン・グールド、CD、DVDはたしか無いはず、などと思いながら、さてこの雑誌をどの程度処分しようかと算段していた。

 今朝の「天声人語」は音楽評論で活躍した吉田秀和さんを悼み惜しんでいた。その中で「奇人扱いされていたピアニスト、グールドの天才を早くから買っていた。権威に曇らぬ批評眼のゆえだったろう」という箇所を読んで、「レコード芸術」5月号をまた開く気になった。

 グレン・グールド(1932~1982)カナダのピアニスト、作曲家。先ずは演奏の断片なりとも聴かねばと思いYou Tubeを検索するとやはりバッハだ。画像を見ながら聴いているうちに面白いと思った。言い表すためにはまだまだ聴きこむべきなのだろう。バッハの偉大な演奏者とされている。グールドは自らを最後の清教徒であると称している。この点にも興味が湧いた。

 「レコード芸術」5月号。没後30年記念特集「再聴 グレン・グールド~その芸術の深層へ~」
には青柳いづみこ、満津岡信育、鈴木圭介、喜多尾道冬、宮澤淳一、他の各氏が執筆。

 青柳いづみこはこの企画の「イン・コンサート 1951~1960」盤の解説でこう述べている。「グールドはつくづくピカソだと思う。古典的なデッサンに秀で、その土台の上に前衛的な画風を展開したピカソと同じように、グールドもまた、優れた古典的『文法力』をベースに演奏のモダニズムに乗り出したのだ。彼のライヴ録音は、あらためてその類まれな『文法力』を思い知らせてくれる。」

 やはり「レコード芸術」は捨てられない。グレン・グールド特集、吉田秀和さん追悼コラムのお陰をもって、結局この雑誌は狭苦しいわが部屋で再び余命を伸すこととなった。

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月曜日は

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 月曜日はとにかくゆっくり休みたい、このひと言できょうはおわりにしようと書き始めたところが、土曜日は土曜日で忙しかったというよりも忙しくしたことなどが思い出された。
 天気のよい日の朝はよく庭でコーヒーを飲む。たまに蝶やアブ、蜂がとんでいる。足元にはアリが忙しそうだ。樹木の枝や葉っぱをつたう芋虫毛虫を見つけたときにはピンセットで摘んで捕獲。春に樹木に咲く花はみな散ってしまった。ボケの実がぎっしりとなっている。みなこそぎ落とした。毎年この何分の一かのボケの実が大きくなり落下していとも容易くと見えるのだがそちこちにまた新たな木を芽生えさせる。これの始末が容易ではない。それでことしは1センチにもならないうちにみな落としてしまった。天気がよく六魂祭は大当たり。1時からは雅声会があるはずと思いながら1時からの同窓会総会に顔を出す。主人の従妹が句集を出版したということで会場に持ってきていた。3時半に会場を出て、それから主人と祭りへと移動。何が来たかと見るが見えるのは人の頭、頭、頭。おもちゃをなくした子どもの泣声。やってきた救急車に担ぎ込まれた人と太鼓。4時半頃人垣を遠慮がちにかいくぐりやっと四竿の灯の曲芸業に感嘆。ねぶた、さんさ、花笠、巨大ワラジ。貫禄のある橡の並木に立ち上がり倒れかけて倒れず、またしても倒れず、しかしついに倒れたものあり、しかしどこまでも貫き通し倒れない竿燈は心ゆくまで見ていたい一大曲芸だった。
 日曜日は教会に持って行く花を求めに、近所のT子さんを誘って6時起きで朝市に。けっこうじっくりと買い物をすることとなり、ついつい買い込んでしまった花、花、花の苗。それもついにスイカの苗まで買ってしまった。面白そうというのがその理由。「一つのつるに幾つなります?」「んだなぁ、一つに一つずどごがな」。え?一つもなるの? ならないだろうという想定で買い込んだ苗二つ。いったいどこに植えるの? とつい自問してしまった。主人はまだ知らない。知ったらあきれ果てるだろう。朝市価格コーヒーを200グラム豆で買い、彼女と飲もうと淹れたコーヒーを2つ買う。その向かいでゴマ餅3個入れを1ケース買ったところ、「ここで飲んでって」と指さされた椅子。え? 腰掛けていいんですか? 嬉しい、有り難い。ゆっくりとゆっくりと朝市のようすを楽しみながら飲むコーヒーはまた格別でした。
 10時には教会に出発。午後の集会にも出て帰宅は14時。それから説教の編集。

 そして月曜日のきょうは、やはり朝に外でコーヒーを飲み、塀の一角にアサガオ用のネットを取り付け、4本のトマト、これは大きくなった苗を買って植えたものだけれども、これに支柱を立ててやって、あとは草取り。午後からは来客。これがゆっくりと休みたかった月曜日の今日一日でした。

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きょうのことば『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-3』

 2012年5月20日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えします。

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説教題 『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-3』
聖書引証 ガラテヤ5:16~26

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

一年のうちで今がいちばん過ごしやすいときかと思います。よく山が笑うといいますが、盛岡周辺の山々、ほんとうに若々しく瑞々しい緑が豊かです。

 来週はいよいよペンテコステを迎え、聖餐のテーブルがもたれます。この日ひろ子先生は青森の教会でのご奉仕となりますが、このことも併せ、すべてが最善に為されますようにと思うことでございます。

―このあと聖宣神学院の創立記念日のお祈りがなされましたー

先週の礼拝の恵を簡単に振り返りますけれども、ガラテヤ人への手紙第5章に「御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」というおことばがあります。クリスチャンの基礎はすべて新生経験にあります。聖霊によって新しく生まれ、そして聖霊との関わりを持って生きることにより信仰生活が成長していきます。前回は旧約聖書から神と共に歩んだ人物としてエノク、ノア、アブラハムを挙げましたが、みな神と格別な生命的な関係のあった人たちです。

私の育った松本市に女鳥羽川という川があり、よく沢ガニを捕ったりして遊んだものですが、川底には金色に光る砂がありました。小学校のときに金というものがあると知ったとき、私はその光る砂を拾い集め、「川でこんなに金が取れたよ」と家に持ち帰ったことがあります。しかしそれは金ではなかった。金ではないものを金だと思いこんで後生大事に持ち帰ったのでした。世の中にも往々にして本物ではないものを本物だと思いこみ、失うまいと握りしめている方がいらっしゃいます。すばらしい人格、立派な生活態度等々。しかしそこに神のいのちがないならば、それは本物であるとは言えません。

私たちも始めは世の中の人たちと同じものでした。しかしある時にイエスさまを信じて命が与えられました。聖霊という神さまと関わりのある命を持つことができるようになったのです。さきほどの例でいうなら本物の金を持つようになった。それゆえに神さまに感応できる性質を私たちは持っている。これが新生したクリスチャンです。先週も申しましたが、ただの鉄線のようであった私たちに一たび信仰によって電流が流れたときに、そこには強力な磁界が発生し、周囲に影響を与える力を生じる。これが、使徒の働きの1章に書かれている「8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」というこのことなのです。

このようにせられた私たちは、まず神さまの前に出て静まることです。そして聖霊を通して神さまから与えられるおことばを待つことです。これに対して私たちは願い事をする。これは祈りです。いきなり願い事をするのではなく、まず神さまの側からのおことばを待ち、そして願い事をする。するとまた神さまはおことばを加えてくださいます。それに対してさらに私たちが応答する。このような心の営みが聖書を媒体として行われるとき、さっきの磁力線ではありませんが、これが頻繁に為されるほど、私たちには霊的な影響力、感化力が増し加わってくる。一日を始めるにあたって静まり、みことばを受け取り、そしてどれだけ多く受け入れたかで一日が非常に祝福されたものとなる。

蔦田二雄先生は、もし聖書を一日1章読むのが大変なら、デーリーライトといったものをテキストにしてもいい、それを読み、おことばを捕えて一日を始めるだけでも随分違うのだと仰いました。

私たちはよく、大きな課題或いは試練のときに神さまからおことばを与えられる経験をします。それを有難うございますと受け取って神さまの前に備えられるときに、みことばとそして願い、応答というものが非常にしげくなる。これが多いほどなお一層大きな感化力となります。

ところが私たちの心には依然として罪の性質が混じっている。これが神さまとの純粋な交わりを妨げている。しかしこの罪の性質が一つまた一つと消えてゆくときに、みことばと願いの応答とが順調にいくようになります。今まであんなに大変だったことが、自在に高速でなす事ができる。旧式のパソコンでは写真の取り込みに数分かかっていたのが、最新のパソコンでは数秒で事足りるようになるといったようなものです。かつての自分なら長い間悩んだことが、信仰に成長してくると、いとも容易くその課題を消化し乗り越えてゆくことができるようになることを経験します。

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

このガラテヤ5章25節は、まさに今お話したような信仰生活をいっているのではないでしょうか。心に罪があると、せっかくのおことばの通りが悪くなったり、或いは与えられたおことばを都合の良いように曲解してしまったりします。罪はみことばをストレートに受け取ることを妨げます。罪があると応答が遅かったり自分に都合の良い応答になってしまう。パウロは第二テモテ4章で「 人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」といっています。

あなたの心の中にある罪が問題だと指摘されたときに、それが人間だなどというところに逃げてしまうことが有り得る。

ガラテヤ524節には「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。罪が一つあったから十字架につける、また一つあったから十字架につける、また一つあったから…というのではなく、「我キリストとともに十字架につけられたり、最早我生くるにあらず、キリスト我がうちにありて生くるなり」とあるように、「十字架につけてしまった」のであり、「つけ続けます」ということではありません。「つけてしまった」、これが私たちの依って持って立つきよめというものの恵です。

罪の性質をいつまでも持っていたならば、その人の信仰生活は祝福されないし、成長もしません。罪の性質がいつまでも残っていると素直におことばが入ってこないし、手前勝手な応答になってしまう。しかしキリストの十字架によってほんとうに罪が解決したときに、私たちは、ガラテヤ52223にある「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。」というこのような実を豊かに結ぶことができることでございます。どうぞ御霊によって生きるなら御霊によって歩ませていただこうではありませんか。

40分間の説教のうち、用いられた図や例話など一部割愛してございます。文責:中ぶんな

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活き活き

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 けさはほんとうに爽やかなでした。アマドコロについた滴。こんな写真が撮りたかったのです。

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            エニシダ

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 トマトの苗が48本も。これをさらに間引きして24本ぐらいにするのがいいのでしょうが、これだけ植える畑がなく、もし丈夫に育ったならどなたかに引き受けてもらうつもり。この他にパンジー40本、これは時期が遅すぎ。マリーゴールド32本、ペチュニア20本、もう一種類はなまえ失念でこれはもう70本ほどは育っている。出荷する予定は無し。

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  ここでアクセントにビオラの写真

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二十日大根

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春菊。畝は立てません。それでもまめに間引けばこの通り。

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ピーマン












                 ゴーヤ

みな輝いている朝でした。

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「思い煩ってはならない」

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                      Michal Mojzykiewicz

 雨が降っている。5月22日の地区担当員の総会の後の講演で文部科学省の航空機モニタリング調査による「空間放射線量の状況」でその範囲を見て恐ろしくなった。青森の一部を除き東日本全域に及んでいる。これはある一定時間の範囲ということはできるが、何れこれほどまでに拡大されている。雨音も、もはやシューベルトの「涙の雨」のようには響かない。もっと重くて深刻だ。それがいま雨とともに地上に落下し、土に染みこみ川に海に下ってゆく。
 放射性物質を中和できるフルボ酸、フミン酸の存在も発表されてはいるらしい。しかしこれも汚染された全区域を“解毒”できるほどにあるとは思えない。
 しかし、「あすのことを思い煩ってはならない」。これは、「おばかさんだねあなたが心配したってどうにもなるもんじゃないよ、もっと有能な科学者達が必死に方策をいま研究中なんだからね」という意味ではなさそうだ。放射能からまもられるように手を尽くしたなら、これ以上思い煩うのは今という時間を失ってしまうだけだよ、そう諭してくれているような気がする。
 何やらこの夜の闇のどこかが幾分明るみを帯びてきたようだ。
 

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片付け

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 自分の部屋が雑然として容易には片付きそうにない。先頃帰省した息子が言った。「ずいぶん小屋の中に物があるようだけど、あれ、できるものなら処分できるものは処分しておいて欲しいな」。あるものは所謂お宝ではない。LPレコードだの火鉢だの冠婚葬祭の引き出物、捨てるには惜しいかといって部屋に置くには手狭すぎるといった書籍などである。
 そんなことばに触発されて、自分の部屋にあるものも思い切って捨ててしまおうと片付けにかかった。ふつうの方々に比べると、わたしは物を買い込むということはしない。だから飾り物だとか、装身具だとかいったものはほとんど無く、あるのは謂わば紙くずの山である。これには何が書いてある。あれは何々のメモ書きだ。あれはこれにに参考になる等々、紙くず類が山積している。そこで思い切ってゴミ袋を準備し、大々的に捨てる作業に取りかかった。捨てる作業というのは今後の自分の行動の範囲を取捨選択することでもある。衣類なども同じく着ないものはどんどん袋に詰め込む。ものを捨てる作業は自分の人生を片付ける作業だとも感じられた。これを次の代に遺したとして喜ばれるだろうか。そんな疑問が湧くときには処分の袋行きとなる。自分の人生をすこしでも自分の手で片付けておく、そんな感じがした。

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勝て! 輝け!!

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  ブルーベリーの花

  きのうアクセス数がこのブログとしては急激に増えていた。滅多にテレビを見ることはないのだが、昨夜は舘野泉さんがNHKのクローズアップ現代に出演。舘野さんのピアノ演奏を私はまだ聴いたことがなかった。片手だけで果たして音楽たりうる音楽を奏することができるのか。わからなかった。しかしこの番組で演奏を聴き、芯のとおった説得力があると思った。片手で弾き始めて長いあいだ、これは音楽ではないという大変な葛藤があったようだ。しかしついに舘野さんは、音楽といえる音楽を演奏できる境地に至る。何とかみなの前で弾きたい、コンサートをしたいという一念を実現させたのだ。

 私はここでTVを消すつもりだった。ところが次ぎに映し出されたのが「パラリンピックへの挑戦」で水泳の鈴木孝幸選手だった。北京パラリンピックで金メダル獲得。このとき私はこのブログに鈴木選手を書いている。アクセス数上昇は鈴木選手に検索が入ったからだった。すごい選手だなと思った記憶が戻った。あれから4年。光陰矢のごとし。北京以降自己記録が伸び悩んだようだ。トレーナーと一緒になって使っていない筋肉の猛トレーニングの今だ。彼ははっきりと言った。「勝ちたい」「輝きたい」。

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 みなが「勝ちたい、輝きたい」、誰もの胸のうちにあるこの熾烈な願望を思うときに涙さえ滲む。ここのところ久しく忘れていたが、自分にしても、そうあろうともがいた一時期もあった。もがいた時にはさしたる成果もなく、淡々と歩めそうな今は体力の限界を感じる事が多い。今は「勝とう」というよりも「無理をせずに何か一つをのこしたい」というささやかな望みに変わってしまっている。

 どこまでも勝とうとするならば、どんなに歯がゆかろう、苦しかろう、辛かろう。

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 凄まじいまでの努力だ。その万分の一の努力もできなかった自分だ。何としても勝って欲しい、輝いて欲しい。 

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雅声会「心のふるさと 日本のうた をたずねて その三十五年」 2012/5/26(土)14時開演 岩手県民会館中ホール

雅声会のコンサートがあります♪♪
収益金の一部は東日本大震災の義援金となります。

    「美しい海と山、そして里の復活を願いながら」

          2012年5月26日(土)
         岩手県民開館中ホール

【曲目】
(唱歌)故郷の空、桜井の決別、ポプラ、四季の雨、他
(歌曲)荒城の月、時計台の鐘、朝、椰子の実
(歌謡曲)丘を越えて、あざみの歌、ニコライの鐘 他


【出演】
(歌)阿部佳代、奥崎由樹子、工藤和子、駒木美和子、駒木恵、長鈴晴香、新田順子、平野紅子、穂積佳穂子、丸岡千奈美、横山由希子、大畑孝夫、小坂博、澤村憲照、松田晃
(ピアノ)小笠原宜子、鈴木牧子、森明美
(ナレーション)松田晃
(編曲)加藤學


※当日、私は、同窓会総会があるため残念ながら行くことができませんが、ご案内だけでもさせていただきます。

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日食

 金環日食ということで日本中が大騒ぎ。土曜日、コンサートの行き帰りに日食メガネを買おうとしたところどこのメガネ店、薬店、雑貨店でも売り切れ。関心の高さには驚いた。結局夕べのうちに主人が偏光板を使って製作した日食“メガネ”の登場となった。

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  一緒に観ようと来てくださったSさんご夫妻(上の写真)ともども庭のテーブルでコーヒーを飲みながら代る代るのぞく。たしかに二つの点のあいだの湾曲する二本の曲線に囲まれた部分を見たときは感無量でした。そしてSさんのポロシャツの一面に木漏れ日が届けたその形が幾つも映っているのに気づいたときのみなの歓声。さっそく主人が自分のカメラに納めました。

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 それともう一つ気づいたことは、この木漏れ日をくれたアオキから4匹の青虫が糸で垂れ下がっていたことです。Sさん方が不快かと思い私はこれを払い落としたのですが、もしかすれば、これも日食と何らかの関係があったかもしれません。青虫が何という虫の幼虫であるかはまだ調べておりません。図鑑に青虫の形状を照らし合わせるよりも、一旦アオキを食樹とする虫を絞り込む方が近道かもしれない。日食のときの生物の行動だけを研究している方もいるらしい。自分のカメラでは撮らないでしまったのが残念と思っていたら今し方写真がパソコンから送られてきました。
 それにしてもメディアが「金環食だぞ~」とラッパを鳴らせば日本中がこぞって見上げる。けれども虫たちは「金環食だぞ~」とどこからも言われなくとも何か知っている気配。

      ☆    ☆    ☆    

 昼近くになってまたまた嬉しいことが一つ。裏庭に一匹のクロアゲハが舞っていたのです。昨年T子さんに飼育してみないかと3頭もらった幼虫がみな成虫になり旅だっていった日のことを思い出しました。そのクロアゲハと関係があるかどうかはわからないが、あのときの蝶が戻ってきてくれたかのような嬉しさがあった。

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 私がもらい受けた幼虫はグレープフルーツに産み付けられたものだった。サンショウもたしかに食べた。しかし秋でもありサンショウの葉はすっかり硬くなっていた。それと若芽を探すのが難しいサンショウの葉だけではとても賄えず、グレープフルーツの葉をもらいに走ったりもした。そんなこともありアゲハの食樹であるサンショウは、このサンショウは庭のいたるところに生えているのだが、どれも抜かないで生かしてある。

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きょうのことば『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-2』 その2

※前ページの続きとなっています。

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  【説教】

今週はガラテヤ書5章からメッセージをと導かれております。ガラテヤ書の手紙は論争の手紙、お叱りのお手紙といったらいいでしょうか。パウロがせっかく福音をのべ伝えたのにも拘わらずガラテヤの人たちがいとも容易く異なった教えに惑わされて、私たちが伝えもしなかったような教えに流れてしまっている。いったいこれはどういうことなのか。もし私が伝えた福音と異なるものをあなた方に伝え惑わしたものがいるなら、よしそれが御使いであったとしても、それは決して赦されるべきことではないとパウロは非常に激しく、私たちは信仰によって救われるものなのだ、律法によって救われるのではないということをはっきりと宣言したものでございます。きょうはその中から御霊に導かれて進もうではないかというこのところに焦点を合わせて、ペンテコステ、聖書との関わりにおいて私たちの在り方を留めていただきたいと願っていることでございます。

 最近横浜の幾代子先生からおもしろいことを聞きました。或る方のお葬儀で故人の思い出を語っていただきたいと依頼があったそうです。しかし幾代子先生はその方が病床にあられたときに3回しかも短い時間お会いしただけでした。これには背景があるのですが、故人の娘さんが神学院の教会におられる方だった。夫以外の親族はクリスチャンではなかった。お父さんの在世中に何とかイエスさまの救いに与ってもらいたいという切なる祈りがありました。娘さんは病床のお父さんに向かって「お父さんは戦争に行ってきたでしょう。悪い事もいっぱいしたでしょう。このままでは天国に行けないからはやくイエスさまを信じてちょうだい」と言ったらしい。お父さんは「お前は自分の亭主をクリスチャンにしただけでは気がすまなくて俺までクリスチャンにするつもりか」と立腹。娘さんは諦めずに「じゃ、私がお連れする方のお話を聞いてちょうだい」と幾代子先生を呼んだのです。初めてお会いしたのは今年であったと聞いています。こども讃美歌「まことの神さまただひとり」を歌ったところが教会学校に行っていた頃を思い出され心を開いてくださった。2回目でも讃美歌で心が整えられていった。お父さんが「お前の話は聞きたくないがこの人の話なら聞いてもいい」と仰ってついに罪を悔い改めイエスさまを信じ救われたそうです。そして「俺の葬式は神学院教会でやってくれ」と言ったときに、お父さんの頑固さをよく知る娘さんの親族はみな、「ほんとうにそうお願いするのか」と驚いたそうです。実際ついこの前そのようにお葬儀が執り行われました。

 幾代子先生はお葬儀でこの3回面会したときのようすを語りました。参列した親族のぞくん方々が、なぜ父がこのようなことを言ったのかわかりましたと深く頷かれたそうです。たった3回の面会でも心を開いていただきお救いに与っていただくことができる。

 磁石や電流の磁場には磁力が発生します。私たちが神さまと交わりを持つとき、この交わりを電流にたとえるなら、そこには霊的な感化力を生じる。そういう存在に私たちは成りうる。面会がたった3回だったとしても、その人が神さまと交わって生き続けているとき、その周りには霊的な感化力が及んでお救いに与る方々が与えられる。聖書には「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません」とございます。私たちは新しく生まれることにより聖霊というお方のお力による影響力をもって、周囲の方々に思わない祝福を与えていくことができます。このような先達として旧約聖書の創世記に出てくるエノクがおります。彼は死を見ずして天に帰っていった人物です。

22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
23
エノクの一生は三百六十五年であった。
24
エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 このように創世記5章に、エノクという人物が神と共に歩んだ器であったことが書かれております。

 またノアがいます。創世記69

9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。

 それからアブラハムという人物も。創世記17章1節

1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。

 エノクにしてもノアにしてもアブラハムにしても、御霊によって歩むということをその生涯をかけて自分のものとしていった。

第一テモテ47~8節には

7 俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。
8
肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。

 このようにあります。御霊によって歩むということがどれほど重要であるかはロマ書8章にもあります。

6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。

 さあ、では私たちがどのようにしたらエノクやノア、アブラハムのように御霊によって歩むことができるのでしょうか。具体的にどうすれば可能なのでしょう。

 きょうは「うちにいたもうお方にきく」ということに焦点を合わせてみたいと思っています。御霊によって生きる、つまり神の声を聞く技術、スキル、これを挙げてみたいと思います。

 先ず神さまの声を聞くための防音壁を持っているでしょうか。もう一つ、私たちは神さまの声を聞く集中力を持っているでしょうか。そして私たちは神さまの声を聞く習性を持っているでしょうか。これらのことが適切に為されているときに、私たちには御霊の実というものが結実されていきます。きょうの残るときをこの三つのことに心を向けてみましょう。

 先ず、エノクにしてもノアにしてもアブラハムにしても、彼らは防音壁を持っていました。つまり、世の中の声に煩わされない神の声を聞く自分自身の場所、これを持っていた。イエスさま自身「イエスは朝はやくまだ暗いうちに起きてさびしいところへ出ていき、そこで祈っておられた」。世の中の慌ただしさ喧噪な社会から離れて謂わば防音壁に囲まれたその場所を持っておられた。世の中の価値観のざわめきが大きいときに、どうか神さまのお声を聞くために、防音壁のある場所に身を置くこと、これは一つの提案であります。

 またそれとともに、御霊によって歩んだ人々は、神の声を聞く集中力を持っていた。よし防音壁のある場所ではないとしても、世の中に身を置きながら神さまのお声を聞き分けることができる。マイクは音の全部を拾ってしまいますが、人間の耳は音を選択的に拾うことができる。人間の耳は関心のあることに集中することによって、他の雑音にそれほど煩わされなくても聞くことができる能力があります。「わたしの羊はわたしの声を聞く」、この能力が与えられているのが私たちです。

 世の中の価値観は、AがよいBではない、というでしょう。しかし神に従おうとする私たちの道の選択の仕方は、AではないBという道を、誰も選ばない狭い道、細い狭い道だけれどもBを選ぶようにという命に至る道を選び取っていくことです。エノクもノアもアブラハムもそのそうな耳を持っていたはずです。

 ノアは山のてっぺんで箱舟を造りました。みなが彼をあざけった。しかし洪水から救われている。

 アブラハムは神の声を措いて周囲の声に負け、女奴隷のハガルを通してイシマエルという子どもを得ました。イシマエルが生まれてからアブラハムへの神の声は途絶えたともいわれています。しかしアブラハムが99歳のときに神があらわれて「汝わがまえに歩みて全かれ」とお声をくださった。「我が羊は我が声をきく」。

 もし私たちがアブラハムのように誤った選択をし、神の声が遠くなったとき、悔い改めて御前に出ていくならば、「これが道なりこれを歩むべしと後ろべにて語る声を聞かん」とイザヤ書の中にありますが、それを聞く耳を私たちは持つことができるのではないでしょうか。そしてこのことが、信仰の先達たちにとっても習性となっていたはずです。

 私は特に皆さまがたに提案したいと思います。御霊とともに歩みましょう。もしそう願うなら第一テサロニケ51618

16 いつも喜んでいなさい。
17
絶えず祈りなさい。
18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 ものごとに当たるとき、いつでもこのおことばに立ち戻って、人と会ったり、或いは行動の選択をしてみてはいかがでしょうか。

 いつも祈っていることは難しいと仰るでしょうか。密室に籠もりきりでは仕事が何もできないと。でもそうではない。磁石が北を向いているように、私たちの心を神さまに向けているならそれは祈りになる。いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝して生きてゆくなら、神との交わりが強くなります。そして周囲にも良い感化力をもって臨むことができる。周りも何らかを感じ取ってくださるのではないでしょうか。御霊の実は「愛、喜び、親切、善意、柔和、自制、誠実、寛容、平安」です。

私たちは御霊によって生かされたものです。神の命が与えられたものです。ですから、どうぞ神さまのお声をしっかりと、神さまとの交わりを豊かにし、そこに生じる磁力線が周囲の祝福となり、また自らも実をたわわに実らせることができるような生き方をさせていただきたいとこのように思っていることでございます。

 

文責:中ぶんな

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きょうのことば『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-2』 その1

 2012513日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお送りします。

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説教題 『聖霊とともに歩むこと』―聖霊と私たち-2―

聖書引証 ガラテヤ書51626

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架にけてしまったのです。

26 互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

※説教は次ページとなります。
フォームの始まり

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第41回盛岡芸術祭管弦楽部門「春のコンサート」 ーシンフォニエッタ・盛岡ーを聴く

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【プログラム】

1 WAモーツァルト オペラ「皇帝ティヌートの慈悲」序曲 2 WAモーツァルト 交響曲弟5番変ロ長調K22 3 Gフォーレ 劇付随音楽「マスクとベルガマスク」より抜粋 4 ~Growing of Koji~佐藤宏治編曲集 ウィーンの森の物語/シバの女王/涙のトッカータ/小雨降る径/岩手の歌メドレー(星めぐりの歌/南部牛追い歌/外山節/チャグチャグ馬コ/北上夜曲/岩手県民の歌)

きょうはシンフォニエッタ・盛岡の『第6回春のコンサート』でした。賢治のまねをしたつもりはありませんが、最近はもっぱら裏の畑の土おこしに明け暮れ、たまに空気がどこか物足りなく感じられるときにCDを聴くといった暮しをしていたために、主人とともにでんでん虫バスでマリオスに駆け付け、小ホールに入ったときには齟齬を感じたほどでした。どこか感覚が鈍っているような感じがしながら、弟1部の出だしの管楽器がこれでいいのかなと迷ううちに曲は進み次第に会場に慣れるうちにプログラム2番のWAモーツァルトの交響曲第5番第2楽章アンダンテ。張り巡らされた樹木のような神経系を感じながら聴いておりました。畑村代表の挨拶の中に、「モーツァルトに関しては、弦パートはビブラートを用いない“ピリオド奏法”を採用してきました」と知り、これまでこの違いを意識しないでこの曲を聴いてきたことに気づきました。ある意味、指揮者によって、演奏される時代によって如何様にも独自の解釈を散りばめることができるところを、当時の演奏様式にならっての演奏を心がけているという。
 3番のGフォーレは初挑戦だという。劇付随音楽『マスクとベルガマスク』からの抜粋。2のパストラールの特徴的な音色、4のガボットでの管の響き、5のパヴァーヌには共鳴するものがあった。解説によると一応フォーレが74歳のときに作曲したとされているが、その大部分は過去に作曲されたものの改作だという。74歳で芸術の創造、夢のような話である。

 第2部、プログラムの4番『岩手の歌メドレー』、これは佐藤公治さんの今年の書き下ろし新譜であった。

 今回は成田浩先生が佐藤公治さんにインタヴューといったちょっとした対談があった。成田先生は佐藤さんの大学の恩師で佐藤さんは英語を教わっていた。佐藤さんの専攻は作曲。そこで成田先生が佐藤さんにシュトラウスの「ウィーンの森の物語」の録音から楽譜を起こして欲しいと頼みこんだという。これが1992年、付き合いの始めだったようだ。きょうはこれがピアノトリオで演奏された。演奏を聴きながら、私は、大正の昔にあった仁王トリオを重ねていた。下総晥一(ピアノ)、梅村保(セロ)、原彬(ヴァイオリン)だった。また、この成田先生は、やはり大正にあった盛岡の弦楽四重奏団太田カルテットのメンバーの一人である赤沢長五郎(ヴァイオリン)の弟子である。太田カルテットのメンバーから直接に学んだのはもう成田先生お一人となってしまった。
 話は逸れたが、佐藤さんが『岩手の歌メドレー』を編曲するにあたっては、できるだけ原曲には遠い仕上がりを目指したという。演奏時間は15分くらいだが編曲には2、300時間をかけ、3ヶ月に亘って取り組まれている。

 盛んな拍手と会場からの「アンコール!」の声に応えて1曲目はシュトラウスの『ピチカート・ポルカ』、2曲目は『ラデッキー行進曲』。大いに手拍子をし楽しんで第6回春のコンサートは終演となった。

【演奏メンバー】

指揮:櫻和幸  ヴァイオリン:相川直子/及川由香利/大森久仁/北川貞之/熊谷友見子/鈴木道子/高橋文二/武田浩/中村邦子/姫野千世子/宮野ゆかり☆/及川靖子♪/佐藤敦子♪  ヴィオラ:小原学/佐藤俊樹/橋本剛行/中安貴子♪  セロ:安保尊/佐々木松子/畑村保裕/松尾真理/民部田里美  コントラバス:高橋友佳子/寺山貫大  フルート:佐々木宏/細川佳代子  オーボエ:今野朋恵/佐藤光彦  クラリネット:堀江淳/森亜矢子  ファゴット:佐藤雅宏/西舘ゆかり  ホルン:畑澤巧/小林杜子♪  トランペット:中台雅之♪渡辺則之♪  パーカッション:袴田万里奈♪

☆コンサートミストレス♪エキストラ

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花が咲き友だちがいて私も

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写真一枚目、三枚目は友だちM子さんの庭で
写真二枚目はきのうわが家に立ち寄ってくださったmさん。

 

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第41回盛岡芸術祭管弦楽部門「春のコンサート」 ーシンフォニエッタ・盛岡ー2012年5月19日(土)18時開演 マリオス小ホール

 開花をあれほど待ちわびた桜もいまは葉桜。しかし緑のグラデーションが美しいこのとき、コンサートは如何でしょうか。

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        ♪プログラム♪

モーツァルト   :交響曲第5番変ロ長調K22
           オペラ「皇帝ティートの慈悲」序曲
フォーレ     :劇音楽「マスクとベルガマスク」抜粋
佐藤公治編曲集:「岩手の歌メドレー(仮)」
           「涙のトッカータ」ほか

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木島由美子作曲「Lumiere~彩り~」for Bass Trombone & Piano が 東京国際芸術協会主催のTIAA全日本作曲家コンクールソロ部門に於いて二位(一位無し)を受賞

 毎日のように作曲家うに・木島由美子さんのブログ「うにの五線ノート」を訪問しています。きっかけは、コンサート評を読んだときに、その時点ではうにさんがどのような方かも知らなかったのですが、この方の評は正確だと直感的に思ったからでした。それから間もなく、うにさんは木島由美子作品集CD「Lumiere~リュミエール」をリリース。是非お聴きください。お申し込みは「うにの五線ノート」からどうぞ。

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 この作品集には9曲収められていますが、9曲目「Lumiere~彩り~」for Bass Trombone & Pianoが 東京国際芸術協会主催のTIAA全日本作曲家コンクールソロ部門に於いて二位(一位無し)を受賞。以下の5番目にこの曲の紹介があります。

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 読みにくいのでここに書き出します。
「Lumiere~彩り~」 Bass Trombone solo
初演は2009年、ピアノ伴奏は佐々木香奈氏。山形交響楽団バストロンボーン奏者・高橋智広氏からの委嘱作品。オーケストラを支える力強い響きの楽器ですが「バストロンボーンらしくない、パステル調の曲が欲しい」とのご注文でした。トロンボーンは光(仏語でリュミエール)とし、ピアノは光を受けてさまざまな彩りに変化していきます。冒頭のエピソードを間にはさむ、主題と三つの変奏曲として構成しました。


 またお知らせ♪ですが、この岩手において、木島さんが作曲した合唱曲の演奏を聴くチャンス到来です。

第35回全日本おかあさんコーラス東北支部大会
平成24年6月10日(日)岩手県民会館

「高橋直子さんの指揮と、菅野清香さんのピアノで、コールファンタジーのみなさんがこの譜面を音にして下さいました。」とうにさん。
このコーラス大会は一日がかりですが、うに・木島さんの曲は12時20分以降の演奏になります。

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りんご畑 de コンサート 6 ー

 自分が行けなかったコンサートを見ずして聴かずして書くのは初めてなのですが、これが大変よかったらしい。演奏がりんごの花咲く木の下でとなれば行きたかったのは勿論です。しかし日曜日でもあり私は教会の礼拝に出かけてきました。代ってというわけでもありませんが、主人はチラシを見たときから行く心づもりであったらしい。
 りんごの花がどんなにきれいなものか。果樹の花の中ではいちばんか思う。そのようなところで音楽を聴くことができたなら。毎年TVニュースを見ながらそう思ってはいました。しかし主人が情報とプログラムを持ち帰ってくれました。チャリティーコンサートです。

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 実は当日は新聞にも載っていたようですが、コンサート付近の自動車修理販売店で火災がありました。主人のはなしではコンサート会場が一時煙に包まれたとか。40分遅れで継続されたようです。とはいうものの爽やかで明るく楽しいコンサートだったということでした。来年も開かれるでしょう。

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きょうのことば『聖霊と私たち-1 』 その2

※前ページの続きです。

【説教】

 ペンテコステを待ち望む月を迎えております。すでによく親しまれておりますヨハネの福音書でございますが、今一度「聖霊と私たち」という視点から、この基礎的な部分に心を向けてみたいと思います。

 前ページの引証の中で特にヨハネ伝3章3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」は大切です。

 行楽に各地が賑わっているこのゴールデンウィークに、皆さま方はきょうも礼拝出席するためにこの場所に集っておられます。いったい世の中の人々と私たちとはどこが違うのでしょうか。そうです。私たちクリスチャンは聖霊という神さまとの関係を持っている。つまり「新しく生まれる」という経験をした者、知っている者なのです。それは外見からはわかりません。けれどもこれが明らかに決定的に世の中の人々とは違っている点です。 

 よく聖書の神さまは三位一体であるといいます。この三位一体という言葉は聖書中にはなく、後に神学的な必要からいわれた言葉です。しかし聖書は神が唯一のお方であることをはっきりと宣言しており、その主張とともに、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊なる神」とそれぞれの表現を使わざるを得ないのですが、このように別なご人格をもったお方がいらっしゃる。それは決してうやむやであったり支離滅裂になったり、混ざり合ったりするというものではないのですが、しかしその個別なるものが完全にひとつである。これが三位一体の神さまです。もしこれが、人間が考え出したものであるなら、必ずどこかで辻褄を合わせようとするでしょう。しかし聖書にそんな気配は微塵もない。神は唯一であるとして何の妥協もなく聖書の主張として父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神はそれぞれの人格をもち、それぞれの働きをする神であることが述べられています。このように一見矛盾と思われることが明確に提示されているところにこそ神さまの御本質の凄さがある。ちっぽけな人の理解に収まってしまうものほど寧ろ怪しげで不確定であると思われます。 

 それでは「父なる神」はどのような立場であられるのか。それは全宇宙に存在する事物のことごとくを造られ、そしていまも保持しておられるお方です。しかしそれとともに大切なことは、人間の救いを意図され計画されたお方である。突然ここに「救い」ということばを用いました。神に似せて造られた人間は神に背き堕落がはじまったのですが、神さまはこの罪から私たち人間を救おうとご計画されたお方であり、父なる神さまを思うときにこれを決して忘れてはならないのであります。 

 それでは「子なるキリスト」とはどういう神さまなのか。これは世の始めから存在しておられる神さまです。三位一体の神さまは世の始めから存在しておられる。そして子なるキリストは「父なる神」にとって最愛のひとり子です。キリストは馬小屋で誕生しこの世に送られ十字架に架けられ復活されたことがよく知られています。これは罪を犯した人間を何とか救いたいとの父なる神の御意に添おうとして、イエスさま自らその贖罪の御目的をもって、歴史の中に、この罪の人間世界にやって来られたということなのです。罪を犯した者が代って罪を引き受け裁きを受けることはできません。罪のないお方が人としてこの世に来られることが必要でした。それがイエス・キリストさまです。そしてこの罪のない方が私たちに代って十字架に架けられ裁きを受け死んでくださいました。

 神と人との関係をこのような角度からみるとき、イエスさまの誕生、十字架と復活が如何にすばらしいできごとであるかを私たちはアーメンと頷くことができます。世の中の人には荒唐無稽で信じるなど愚かだとしか思われないかもしれない、しかし、だからこそ神さまは、世の中の人々が愚かだとしか思わないものを用いて、信じる者を救うをよしとしてくださった。これが最も神さまらしい方法なのです。罪はこれを拒絶します。しかし神さまのご計画の素晴らしさは、世の知恵が信じないその知恵の判断の逆転にあります。これが神さまの知恵です。 

 「聖霊なる神さま」はキリスト御自身を私たちに示してくださいます。世の中の人々があれほど拒絶した、これほど拒絶しているキリストによる救い、「あなたのためにキリストは十字架に架かってよみがえってくださった」と心の中に示し教えてくださるのが聖霊なる神さまです。このままではわたしは罪のためにほんとうに死んでしまう、このことを教えてくれるのは世の中の知恵、学問、知識、理解ではありません。

 私事ですが、去年12月に父がイエスさまを信じてくれました。正直どの程度分っているだろうかという懸念もありました。イエスさまの話しを聞いて父は「わかった」と単純に信じ、母と一緒に洗礼を受けてくれました。それが年の改まった1月に父から電話がありました。感極まった声で「ありがとな、ありがとな。俺ぁ嬉しいよ、行くところが決まった」と言います。90過ぎという年齢で行くところ…最初ピンと来ませんでした。後になって「行くところが決まった、だから俺は嬉しい、安心だ」ということだと思い当たりました。それは御聖霊さまが私の父に相応しく、或いはそれを受け取る人それぞれに相応しく、罪を教え示し、「イエスさまが十字架に架かられたのはこの私のためである」ことに心を向けるように働いてくださる、聖霊さまはこういうお方なのです。 

 きょうの引証に出てくるニコデモがイエスさまに、いったいどうしたら天国に行くことができるかを問うたとき、イエスさまは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とおこたえになりました。新しく生まれる、それはキリストの十字架が私の罪のためであるとわかったときに神から与えられる新しい命なのです。それがどのように為されるかその方法はわかりません。けれども、「ああ私はもう安心だ」という救いの実感。それはもう天国の住人となる新しい命の誕生をしている。ですからそれに感応するのです。

 ここで私はまたインマヌエルの丸の内の講壇を思い出します。世の中の人たちが解るような話をしているのはほんとうの福音を話しているところではない。世の中の人たちが何を言っているのかわからないぐらいの話をしているそこにこそほんとうの福音がある」。

 みなさんがたはイエスさま、十字架、復活、救いには素直に頷くことができる。これは神の命が与えられているからです。けれどもこれが無い人たちにはわかりません。ほんとうにそうなのです。このように新しく生まれるという経験をし、いま神の子どもとされている者たちがいるのです。

 では信仰生活の成長は何かというと、いま信じる私たちの内にいらっしゃる聖霊なる神さまとどのように歩調を合わせて一緒に歩み続けるかにあります。きよめの問題というのはまさにこれです。生まれ変わっても尚神さまに従うことにブレーキをかけてしまう自我がある。これがいまだ残っている罪の性質なのです。その理由、原因に光が与えられたときに、罪の性質に十字架の血潮を充て嵌め、私はキリストに従いますというきよめの決断をすることです。きよめの決断をして後も、性格的な弱さのゆえに過ちを犯すことはあります。そのたびに主の前に憐れみを請いながら歩み続けてゆくことです。これこそがクリスチャン信仰のあり方です。 

 私たちは5月の最終聖日にペンテコステを迎えようとしております。きょうこの聖霊なるお方が私たちの心の中にあることをしっかりと捉え、このお方とどのような関わりを持ちながら歩んでいくかということに尚光をいただきながら、ペンテコステを待ち望みたいと思うことでございます。 

※文責:中ぶんな

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きょうのことば『聖霊と私たち-1 』 その1

 このブログでは日曜日には、インマヌエル盛岡キリスト教会(019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けしております。きょうは2012年5月6日(日)のメッセージです。



説教題 『聖霊と私たち-1』
聖書引証 ヨハネの福音書3章1~15節


1 さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。
2 この人が、夜、イエスのもとに来て言った。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなければ、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」
3 イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」
4 ニコデモは言った。「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」
5 イエスは答えられた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。
6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。
7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。
8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」
9 ニコデモは答えて言った。「どうして、そのようなことがありうるのでしょう。」
10 イエスは答えて言われた。「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか。
11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。
13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。
14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」


※今回は聖書の引証が長いので、説教内容は次ページとなります。

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我なり恐るな

 早朝に目覚めてさまざまなことが脳裡に去来していた。心の中で祈ったときに、釘の痕のある手が大きく浮かび、「我なり恐るな」という聖書のことばが通った。客観的に見れば単純にこれだけのことではある。たったこれだけのことではあるが書き残しておこう。

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ほっと一息

 遠路はるばるかけつけた義姉夫婦。また遠いところを明日、明後日と新幹線の乗り継ぎとなる。
 冠婚葬祭が滅多に集まることのない人々を離合集散させる。3・11のような場合、或いはさまざまなこういった類の場合にはこのような言い方はできるものではないが、今回の舅1周忌姑13回忌は一応90、80まで寿命を全うした形でもあるので、こうした人の動きも普段にはない交流ともなりよいものだと今回思うことができた。以前は義理のあいだである場合にはやたらに神経が疲れるということもあった。接待が苦手なので重く感じられてもいた。それが今回自然に受け止められた。アメイジング・グレイスが時折心に通った。
 生きていて一同に集まることができる。これはよいことだ。あまりに度重なると互いに大変さもあるだろうが、このぐらいの頻度であれば若干疲れるという側面もあるが楽しいこともある。何れみな息災で集まることが出来るのはよいことだ。

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舅の一周忌&姑の13回忌

 キリスト教にも理解を示し、孫のために牧師さんに祈ってもらってほしいとよく献金を私に託してくれた舅。幼いときには教会学校にも通っていたこともあったようだ。青年時代、肋膜を病んだ頃かと思うが一時期教会に通った時期もあったらしい。結局、姑が仏式で葬られていることなどがあり自らも仏式の葬儀で旅立っている。それが1周忌。姑は13回忌。ふしぎだが危篤に陥る前に最後に面会したのは舅も姑も私だった。その時のことはいまも鮮やかに思い出す。
 舅とは意見の違いで自分の考えを説明し納得してもらったことが1度だけある。大方は舅に反旗を翻すことはなかった。比較的合理的な考えをもっており因習を押しつけることはなかった。さまざまなやり方に関しては、私はいいえこれはこうしましょうと言ったことは無かった。舅のやり方を覆したところで大差はない。争うほどのことではない。それが大方のわたしのやり方だった。主人と舅の意見が異なったときは私は基本的に主人の側におるべきであろうと行動した。舅は若い頃は短気でもあったようだが、随分と他人の面倒見もよくこまめに動く人だった。一周忌がきて思いだしたのは、「最後まで起き上がろう立ち上がろうとした強靱な人だった」事実である。葬儀を終えて寺の外に出たときに桜が吹雪のように舞っていた。華やかに旅立ったという印象がある。

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 姑にはただの一度も嫌なことを言われたり強いられたりした記憶はない。認知症が出始めたときでさえ、こちらが為したことに対して最後まで「ありがとう」といってくれた。所謂嫁いびりをされた経験はない。わたしに対しては拘らず優しい姑だった。これは美化していっているのではない。何事も焦らず庭の草花が好きだった。一度だけ「きゅうりは2ミリの厚さに」といったことがある。勿論小言ではなく楽しそうにいったことばである。以来私は1ミリの厚さに刻んでいたきゅうりを2ミリに刻むようになった。今でもきゅうりを刻むときにはそれを思い出すことがある。

 きょう10時からの法要を終え新庄墓園に墓参り。途中岩山に。眼下にビリジャンが眩しかった。会食し2時頃に散会。夕方はぐんと冷え込んだが好天に恵まれた一日であった。

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ひとこと

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 さてどんな写真をと思っても写真を撮っておらず、さしあたってアップしたいものもなし。時間のかかる込入ったものはきょうは厳しい。しかしひと言ぐらいあるだろう、ひと言だけでもと。

    我が恵汝に足れり

 そういえばきょう行ったスーパーでお見かけしたのは、かつては東京で華やかに短歌の世界で活躍されていたYさん。
 「Yさんのこれからの時間を是非輝かせてください。やりたいことを悔いなくなさって」と申し上げると、「わたしはもう80過ぎよ。でも短歌だけは病気と闘いながら続けているの」とおっしゃっていた。そして「あなたこそ」と創作活動を勧められた。
 スーパーを出ようとしたとき、こんどはmaruseiさんにばったり。実家のお父さんとご一緒だった。取り立てて会話をかわさなくとも気心が知れている。こんちは!じゃまた!といった具合。彼女の元気さを前に若干疲れ気味の自分を意識。自家発電のモーターを稼働させるように自分を活気づけて車に買い物の袋を積みこむ。
 こういう気構えでいたせいかどうかは分らないが、みなで食事をすることになっていたのだが、小姑さんが4品目も料理を作って早い目の時間に持参してくれ、しかも私が作ろうとするものを手伝ってくれたのでかなり楽な食事したくとなった。ここは素直に感謝感謝。

 ひと言のつもりで書けば次ぎつぎに感謝感謝の言の葉つもる
 

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そうじ・せんたく・ガラス拭き

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 最近は自治会のことに関心が向いている。何かにお世話になっている、せめてお茶くみでもせねばという意識だ。しているうちに舅の1周忌が迫り、宿泊客が明日くるというところで見えてきたのは、そう、こんなときに第三者の目で家を見回すのだが、あららら、ここも拭かなくちゃ、あららら、これもどけなくちゃと片付け方、掃除の必要に迫られてしまう。もっともきょうは主人がガラス拭きを担当。高いところもらくらく磨ける“新兵器”を駆使。けっこう短時間で磨き上げてしまった。

 立川さんの光瀬龍の評伝がのった月刊マガジンも2日には手に入れていたが、じっくりと読む暇がない毎日。法要が終わってからになってしまうかも。

 帰省していた長男は6日に勤務地に戻った。こんどは義姉たちの接待となる。

 しかしあれから1年。大震災最中の入退院だった。今年は落ち着いて庭や畑作りができた。ゆとりある気持で花も眺められる。仲間達はそろそろ原稿に向かっているだろう。絵も描きたい気分だけれども部屋は画材を出せそうもないほど何やら訳の分らないものがいっぱいに堆積している。

 

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大信田時子さんの人物画展

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きょうは午後からmaruseiさんと一緒に大信田時子さんの人物画展に行ってきました。案内状にある写真には多くの方々が見入っておられました。当然実物のほうが顔の表情や色彩が格段によいので是非ご覧ください。写真はmaruseiさんのブログ(blog.livedoor.jp/marusei529/)でどうぞ。

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きょうのことばー『新しく力を得る、新しい力』

2012429日インマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教をお届けします。

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説教題『新しく得る力、新しい力』

聖書引証 イザヤ書402731

27 ヤコブよ。なぜ言うのか。イスラエルよ。なぜ言い張るのか。「私の道は主に隠れ、私の正しい訴えは、私の神に見過ごしにされている」と。
28
あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
29
疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
30
若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
31
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

【説教】

 全国ニュースで盛岡のきょうの最高気温が25度になると報道されておりました。桜が一気に開花するでしょう。所用で盛岡地方裁判所を通りかかりましたが、国の天然記念物の石割桜には観光バスから降り立った多くの人たちがカメラを向けていました。春を待ちわびていた私たちの心がここにも表れているような気がいたします。

 いまは「待ち望む」ということに心を留めながらおりますが、きょうはイザヤ書402731節をお開きしております。預言書であります。聖書の預言書には、イザヤ書の他にもエレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書等々があります。いったい預言書とは何でしょうか。たまにテレビを見ますと、マヤの長期暦は201212月には重大事が起ることを予言しているとか、また過去にはノストラダムスが1999年に人類が滅亡すると予言したと書かれた本に惑わされた人々がありました。しかし聖書に書かれている預言は、一般にいわれるそういった予言とは意味が大きく違います。

聖書でいう預言とは、まず第一には、イザヤ書でいいますと、BCC頃にイザヤという預言者が活躍していた時代に、その民族に神さまが語られたメッセージのことです。そして第二には、やはり、後々に起ることに関するメッセージでもあります。

預言者イザヤは、彼が生きた時代よりもはるか後に救い主イエス・キリストが生まれることを預言しています。特にイザヤ書53章には、あたかも、イエス・キリストの十字架に立ちあった者が書いたかと思われるような十字架の場面が記されています。それだけではなく、彼は、やがてこの国がバビロンによって滅ぼされること、そしてその国が再び回復されること、神は滅びの預言とともに回復の希望の預言をも与えて下さっていること等、さまざまなメッセージを語っています。

第三には、預言書は、今日の私たちクリスチャンたちへのメッセージであるということです。昔も今も同じ神さまが私たちにどのようなお約束をくださり励ましをくださっているのか、この視点が預言書を学ぼうとするときには大切です。

第二ペテロ121を引用しましょう。

 「なぜなら、預言は決して人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神のことばを語ったのだからです。」

 またイエスさま御自身がエマオ途上で旧約聖書を引用して語られたことがルカ242527に出ております。

24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。25 するとイエスは言われた。『ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。』
27
それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。」
 

 イザヤ書は139章、そして4066章の二つに分けることができます。大まかにこの時代背景をいいますと、イスラエルは南王朝のユダと北王朝のイスラエルとに分裂しておりました。イザヤは南のユダで活躍しておりました。彼の時代にイスラエルはアッシリヤに滅ぼされてしまいます。ユダはアッシリヤの脅威からは逃れますが、イザヤは、しかしユダもやがてはバビロンによって滅ぼされることを預言します。しかし神さまは必ず顧み救い主を与えてくださること、イスラエルの将来に栄光を与えてくださることをも預言します。

 イザヤ書4031に目を留めましょう。

 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

 「主を待ち望む者」とは、消極的にいうならば人に頼らない者、積極的には神にのみ頼る者ということです。私はこの二つの意味あいにおいて、きょうイザヤ402731をとりあげてみたいと思っています。

 新改訳では「新しく力を得」と訳しています。新しく力を得る。力が更新されるということです。402930にあるように若い男も疲労困憊し躓き倒れることがあります。私はまもなく60歳になるというときに、念願だった北アルプスの常念岳に登りました。ふつうは山小屋で一泊するのですが、日程に余裕が無かったのでその日のうちに下山しました。下山途中、何のこともない沢で足を取られ転んだのです。疲労困憊とはあのことだろうなと思います。若者も疲れ躓き倒れる。

 しかし、ここに、イエス・キリストへの信仰のあるところには、泉が湧く。「私を信じる者はそのからだの中に生ける水が川々と湧いて流れ出る」。主を待ち望む者、神さまのみに頼っている者にはこの力の更新がある。色々な人たちがさまざまな方法で疲労回復すべく手段を試しているけれども、神のみをあてにし、神のみを避け所としている人には、神さまがそれを越える力を更新してくださる。決して涸れることのない水が私たちに与えられることを覚えたいと思います。

 またいま一つ、「新しく力を得」は、世の中の人たちが持っている力とはまったく質の違う力とも訳することができるその力とは、それは霊的な力、霊的な力を得ることができる。霊的というと誤解されやすいのですが、世の中が与える力とクリスチャンが神さまを待ち望むときに与えられる力は違います。それは先ず罪に勝つ力です。罪を犯し罪をそのままにして勝利はありません。しかし十字架によって罪が赦され解決したときに新しい霊的な力が与えられます。

 霊的な力と言いながら、病の癒し、或いは異言を語るといった現象にのみ足場を置き偏っていく教会があるのですが、聖書のいうところの霊的な力はキリストのような人格になる力であり、キリストの証人たり得る力であって、このキリストの人格ということを離れて“力”ということに行ってしまったなら、それは、微妙なことですが、ほんとうの福音からは外れたものとなってしまいます。

 新しい力を得て御霊に満たされ生きている方には、イエスさまをそのうちに感じることができます。先週も合同研修会の話をしましたが、そのとき長老派の先生が御講義くださいました。そして近しく交わりをさせていただいたとき、先生にすばらしいキリストの香りを感じたのです。神学的にはインマヌエルとは違った整理の仕方、背景、表現があるわけですが、先生が仰るところは、まさしく私たちがいうところのきよめに生き円熟しておられるというものでした。

 先生は奥様から、「あなたはAさんに対する挨拶とBさんに対する挨拶には差があります」という指摘を受けたそうです。よく自分を吟味したときに、自分にどういう立場を取ってくれるかで区別していたことに気づいたそうです。そしてイエスさまが接するような在り方を試されたと仰いました。きよめというのはそのようなところに光が与えられて、それがしだいに成長してゆき、気がつかなかったところにも光が届き、それを示されたときに自己弁護をせずに、主よその通りですどうぞ私をあわれんでくださいといって出ることです。このように歩んでおられる先生はまさにきよめの生涯を歩んでおられるのだという思いを強く深くしたのであります。

 キリストのような人格的な成長、それが新しい力なのです。私たちが日々主を待ち望むときに、イエスさまのようになっていく。イエスさまが「わたしの証人になる」というような新しい力、これは一番目に申し上げました「新しく力を得る」こととある意味セットになっております。

「鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」

どうぞこの恵の中に、私たちは主を待ち望みつつ歩ませていただきましょう。

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ぐんぐん伸びる野菜たち

 きょうはおじいちゃんの一周忌に休みが取れない息子たちとともに墓参り。そして外食。二男は再び勤務地に。無事を祈りながら見送る。

 こどもの日、曇り空のもと、庭の開花と生育。

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やまぶき

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二十日大根

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春菊

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スナックえんどう

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きゅうり

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さやいんげん

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ムスカリ

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水仙

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これらは庭にある水仙だけれども、聖書の中にはフサザキスイセンが出てくる。写真と説明はこちらです。

 きょうもあと20分ほどで閉じられます。といいながらふと閉じられるという言い方は間違っているという気がした。永遠の時間という延長線上にあるまま、あしたと認識される時間にいま存在するまま時間的に移動するだけなのではないか。時間はすべて解放されており、閉じられている時間などというものは存在しない、そんな気がした。

 外は雨。季節外れの大雨がそちこちにまたしても困った被害をもたらしているようだ。せめてこの水仙の写真でそちこちに咲く水仙を思い出し、ワーズワースの詩にあるような水仙の明るい豊かさを心によみがえらせよう。

                     

 
         
                   

 

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チューリップ事件

 

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 すこしでもこの界隈が明るくと思い植え込んだチューリップの花がみな切り落とされているのに気づいたのは昨日の昼頃。花が5~10センチ丈に切り落とされていた。隣に勤めていらっしゃる方が教えてくださった。「可哀想に」としきりに残念がってくださる。見事にぼたぼたと落ちていた。なぜかわからないが不思議に腹がたたなかった。花を拾い集めて花器に飾るととても豪華だ。
 塀の外側に植えたものは無くなってもよいという意識で植えている。鈴蘭が、勿忘草が姿を消したことがある。それらはたぶん何処かで生きて咲いているに違いない。しかしこのチューリップは謂わば無益な殺生ともいうべきものだ。尤も球根は残っているわけでいのちまでを失ったわけではない。けっこう増えるので塀の内側のそちこちにまだたくさん咲いている。
 どうして切ったのだろう。きょうは一日小雨。流石にこのスペースがものさびしい。さてどうしたものか。

 種苗ポットでは現在パンジーが48ポット植え込んだうち黄色15ポット、白が5ポット、ペチュニアは30ポット植えたうち5ポット芽がでている。定植するにはいましばらくの時間が要るだろう。しかし後陣は着々と育っている。まだ二種類の花の種苗ポットも芽が出ないまでも発芽のためのウォーミングアップぐらいはしているだろう。
 午前中は増えたばかりのサクラソウも丹念に植え替えた。沿岸の方には気の毒な雨となっている、けれどもここではそう悪戯なあめというわけでもなく、この雨のお陰で元気に育ちそうな気配だ。

 苗から植えたスナックエンドウ4本、キュウリ2本、サヤインゲン2本、ゴーヤ2本はまずまずに育っている。今朝見ると、二十日大根、春菊の芽が一斉に発芽し、地の表を緑色に覆っていた。どの程度に大きくなるかは兎も角ほんとうにすばらしい光景だ。

 税金対策で畑地を手放さざるを得なくなった友人が、その畑に工事車輌がはいり先祖代々耕し続けてきた畑が宅地化されるため簡単に破壊されていく音に耐えられず電話で「この音を聞いてちょうだい」と受話器に流して聞かせてくれたがその気持がわかるような気がした。
 土が命を育み産物を、実をもたらしてくれる光景が失われることが如何にさびしいことであるか、それはどんな優れた工業製品を手にしたとしても埋め合わされるものではないだろう。

 思えば買い込んだ花の種も野菜の種も中国のものだった。
花が切られたチューリップはそれでも来年はまた咲くだろう。しかし見捨てられ放棄された耕作地の多くはただの荒れ地となってゆく。多くの豊かなすばらしい景観が失われてしまうのだ。
 

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わがやの晩餐

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 最後の晩餐で主は弟子達と共に食事を摂った。この意味をさまざまに思い巡らすようになってからは、それをどのように認識していようとも同じテーブルに着くことには大変な意味があると思うようになった。

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 息子の帰省できょうは家族4人が揃っての夕食。仰々しいセレモニーはないけれども、同じテーブルに着き同じ料理を食する。晩餐といえば宮中晩餐会などを思い浮かべるかもしれない。題字に晩餐と書いたからにはかなり豪華な食卓かというとそうではない。皆が揃って同じ時間に同じものを食しありきたりの会話をする、それで晩餐は成立する。今回は東京で私の姉とその息子達と食事したときのことなどが話題となった。

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 二男が食べたいといっていたカキフライ、そして二男が美味しいといった鯖の味噌煮、それにもやしと春菊の芥子醤油和え。デザートは二男の好きな葡萄とゴールデンキューイのスライス。長男の喜ぶ山菜は明日からのメニューとなる。長男も鯖の味噌煮のショウガと味噌の味が絶妙と喜んで食べていた。キャビア、フォアグラ、トリュフはないが、これがわが家の晩餐である。ノンアルコールだ。これは主人がアルコールを飲む習慣が無いからである。習慣がないだけで、年に2、3回ビールを一杯だけ飲むことはある。息子たちは外で友人と飲むことはあるようだ。

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  この家に大臣、博士はいないが今のところ皆平穏無事。このことを感謝したい。

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一気に開花 ーいのちといういのち輝くー

いのちといういのちが五月の光をあびて力いっぱいに輝きますように!!

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しだれ桜201251_027           ぼけ

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うめ(背景はお隣の家)

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        すみれ201251_023_2

        ゆきやなぎ

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