きょうのことば『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-2』 その2
※前ページの続きとなっています。
今週はガラテヤ書5章からメッセージをと導かれております。ガラテヤ書の手紙は論争の手紙、お叱りのお手紙といったらいいでしょうか。パウロがせっかく福音をのべ伝えたのにも拘わらずガラテヤの人たちがいとも容易く異なった教えに惑わされて、私たちが伝えもしなかったような教えに流れてしまっている。いったいこれはどういうことなのか。もし私が伝えた福音と異なるものをあなた方に伝え惑わしたものがいるなら、よしそれが御使いであったとしても、それは決して赦されるべきことではないとパウロは非常に激しく、私たちは信仰によって救われるものなのだ、律法によって救われるのではないということをはっきりと宣言したものでございます。きょうはその中から御霊に導かれて進もうではないかというこのところに焦点を合わせて、ペンテコステ、聖書との関わりにおいて私たちの在り方を留めていただきたいと願っていることでございます。
最近横浜の幾代子先生からおもしろいことを聞きました。或る方のお葬儀で故人の思い出を語っていただきたいと依頼があったそうです。しかし幾代子先生はその方が病床にあられたときに3回しかも短い時間お会いしただけでした。これには背景があるのですが、故人の娘さんが神学院の教会におられる方だった。夫以外の親族はクリスチャンではなかった。お父さんの在世中に何とかイエスさまの救いに与ってもらいたいという切なる祈りがありました。娘さんは病床のお父さんに向かって「お父さんは戦争に行ってきたでしょう。悪い事もいっぱいしたでしょう。このままでは天国に行けないからはやくイエスさまを信じてちょうだい」と言ったらしい。お父さんは「お前は自分の亭主をクリスチャンにしただけでは気がすまなくて俺までクリスチャンにするつもりか」と立腹。娘さんは諦めずに「じゃ、私がお連れする方のお話を聞いてちょうだい」と幾代子先生を呼んだのです。初めてお会いしたのは今年であったと聞いています。こども讃美歌「まことの神さまただひとり」を歌ったところが教会学校に行っていた頃を思い出され心を開いてくださった。2回目でも讃美歌で心が整えられていった。お父さんが「お前の話は聞きたくないがこの人の話なら聞いてもいい」と仰ってついに罪を悔い改めイエスさまを信じ救われたそうです。そして「俺の葬式は神学院教会でやってくれ」と言ったときに、お父さんの頑固さをよく知る娘さんの親族はみな、「ほんとうにそうお願いするのか」と驚いたそうです。実際ついこの前そのようにお葬儀が執り行われました。
幾代子先生はお葬儀でこの3回面会したときのようすを語りました。参列した親族のぞくん方々が、なぜ父がこのようなことを言ったのかわかりましたと深く頷かれたそうです。たった3回の面会でも心を開いていただきお救いに与っていただくことができる。
磁石や電流の磁場には磁力が発生します。私たちが神さまと交わりを持つとき、この交わりを電流にたとえるなら、そこには霊的な感化力を生じる。そういう存在に私たちは成りうる。面会がたった3回だったとしても、その人が神さまと交わって生き続けているとき、その周りには霊的な感化力が及んでお救いに与る方々が与えられる。聖書には「人は新しく生まれなければ神の国を見ることができません」とございます。私たちは新しく生まれることにより聖霊というお方のお力による影響力をもって、周囲の方々に思わない祝福を与えていくことができます。このような先達として旧約聖書の創世記に出てくるエノクがおります。彼は死を見ずして天に帰っていった人物です。
22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
23 エノクの一生は三百六十五年であった。
24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。
このように創世記5章に、エノクという人物が神と共に歩んだ器であったことが書かれております。
またノアがいます。創世記6章9節
9 これはノアの歴史である。ノアは、正しい人であって、その時代にあっても、全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
それからアブラハムという人物も。創世記17章1節
1 アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。
エノクにしてもノアにしてもアブラハムにしても、御霊によって歩むということをその生涯をかけて自分のものとしていった。
第一テモテ4章7~8節には
7 俗悪で愚にもつかぬ空想話を避けなさい。むしろ、敬虔のために自分を鍛錬しなさい。
8 肉体の鍛錬もいくらかは有益ですが、今のいのちと未来のいのちが約束されている敬虔は、すべてに有益です。
このようにあります。御霊によって歩むということがどれほど重要であるかはロマ書8章にもあります。
6 肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です。
さあ、では私たちがどのようにしたらエノクやノア、アブラハムのように御霊によって歩むことができるのでしょうか。具体的にどうすれば可能なのでしょう。
きょうは「うちにいたもうお方にきく」ということに焦点を合わせてみたいと思っています。御霊によって生きる、つまり神の声を聞く技術、スキル、これを挙げてみたいと思います。
先ず神さまの声を聞くための防音壁を持っているでしょうか。もう一つ、私たちは神さまの声を聞く集中力を持っているでしょうか。そして私たちは神さまの声を聞く習性を持っているでしょうか。これらのことが適切に為されているときに、私たちには御霊の実というものが結実されていきます。きょうの残るときをこの三つのことに心を向けてみましょう。
先ず、エノクにしてもノアにしてもアブラハムにしても、彼らは防音壁を持っていました。つまり、世の中の声に煩わされない神の声を聞く自分自身の場所、これを持っていた。イエスさま自身「イエスは朝はやくまだ暗いうちに起きてさびしいところへ出ていき、そこで祈っておられた」。世の中の慌ただしさ喧噪な社会から離れて謂わば防音壁に囲まれたその場所を持っておられた。世の中の価値観のざわめきが大きいときに、どうか神さまのお声を聞くために、防音壁のある場所に身を置くこと、これは一つの提案であります。
またそれとともに、御霊によって歩んだ人々は、神の声を聞く集中力を持っていた。よし防音壁のある場所ではないとしても、世の中に身を置きながら神さまのお声を聞き分けることができる。マイクは音の全部を拾ってしまいますが、人間の耳は音を選択的に拾うことができる。人間の耳は関心のあることに集中することによって、他の雑音にそれほど煩わされなくても聞くことができる能力があります。「わたしの羊はわたしの声を聞く」、この能力が与えられているのが私たちです。
世の中の価値観は、AがよいBではない、というでしょう。しかし神に従おうとする私たちの道の選択の仕方は、AではないBという道を、誰も選ばない狭い道、細い狭い道だけれどもBを選ぶようにという命に至る道を選び取っていくことです。エノクもノアもアブラハムもそのそうな耳を持っていたはずです。
ノアは山のてっぺんで箱舟を造りました。みなが彼をあざけった。しかし洪水から救われている。
アブラハムは神の声を措いて周囲の声に負け、女奴隷のハガルを通してイシマエルという子どもを得ました。イシマエルが生まれてからアブラハムへの神の声は途絶えたともいわれています。しかしアブラハムが99歳のときに神があらわれて「汝わがまえに歩みて全かれ」とお声をくださった。「我が羊は我が声をきく」。
もし私たちがアブラハムのように誤った選択をし、神の声が遠くなったとき、悔い改めて御前に出ていくならば、「これが道なりこれを歩むべしと後ろべにて語る声を聞かん」とイザヤ書の中にありますが、それを聞く耳を私たちは持つことができるのではないでしょうか。そしてこのことが、信仰の先達たちにとっても習性となっていたはずです。
私は特に皆さまがたに提案したいと思います。御霊とともに歩みましょう。もしそう願うなら第一テサロニケ5章16~18
16 いつも喜んでいなさい。
17 絶えず祈りなさい。
18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
ものごとに当たるとき、いつでもこのおことばに立ち戻って、人と会ったり、或いは行動の選択をしてみてはいかがでしょうか。
いつも祈っていることは難しいと仰るでしょうか。密室に籠もりきりでは仕事が何もできないと。でもそうではない。磁石が北を向いているように、私たちの心を神さまに向けているならそれは祈りになる。いつも喜び絶えず祈りすべてのことに感謝して生きてゆくなら、神との交わりが強くなります。そして周囲にも良い感化力をもって臨むことができる。周りも何らかを感じ取ってくださるのではないでしょうか。御霊の実は「愛、喜び、親切、善意、柔和、自制、誠実、寛容、平安」です。
私たちは御霊によって生かされたものです。神の命が与えられたものです。ですから、どうぞ神さまのお声をしっかりと、神さまとの交わりを豊かにし、そこに生じる磁力線が周囲の祝福となり、また自らも実をたわわに実らせることができるような生き方をさせていただきたいとこのように思っていることでございます。
文責:中ぶんな
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