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きょうのことば『聖霊と私たち-1 』 その2

※前ページの続きです。

【説教】

 ペンテコステを待ち望む月を迎えております。すでによく親しまれておりますヨハネの福音書でございますが、今一度「聖霊と私たち」という視点から、この基礎的な部分に心を向けてみたいと思います。

 前ページの引証の中で特にヨハネ伝3章3節「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」は大切です。

 行楽に各地が賑わっているこのゴールデンウィークに、皆さま方はきょうも礼拝出席するためにこの場所に集っておられます。いったい世の中の人々と私たちとはどこが違うのでしょうか。そうです。私たちクリスチャンは聖霊という神さまとの関係を持っている。つまり「新しく生まれる」という経験をした者、知っている者なのです。それは外見からはわかりません。けれどもこれが明らかに決定的に世の中の人々とは違っている点です。 

 よく聖書の神さまは三位一体であるといいます。この三位一体という言葉は聖書中にはなく、後に神学的な必要からいわれた言葉です。しかし聖書は神が唯一のお方であることをはっきりと宣言しており、その主張とともに、「父なる神」、「子なるキリスト」、「聖霊なる神」とそれぞれの表現を使わざるを得ないのですが、このように別なご人格をもったお方がいらっしゃる。それは決してうやむやであったり支離滅裂になったり、混ざり合ったりするというものではないのですが、しかしその個別なるものが完全にひとつである。これが三位一体の神さまです。もしこれが、人間が考え出したものであるなら、必ずどこかで辻褄を合わせようとするでしょう。しかし聖書にそんな気配は微塵もない。神は唯一であるとして何の妥協もなく聖書の主張として父なる神、子なるキリスト、聖霊なる神はそれぞれの人格をもち、それぞれの働きをする神であることが述べられています。このように一見矛盾と思われることが明確に提示されているところにこそ神さまの御本質の凄さがある。ちっぽけな人の理解に収まってしまうものほど寧ろ怪しげで不確定であると思われます。 

 それでは「父なる神」はどのような立場であられるのか。それは全宇宙に存在する事物のことごとくを造られ、そしていまも保持しておられるお方です。しかしそれとともに大切なことは、人間の救いを意図され計画されたお方である。突然ここに「救い」ということばを用いました。神に似せて造られた人間は神に背き堕落がはじまったのですが、神さまはこの罪から私たち人間を救おうとご計画されたお方であり、父なる神さまを思うときにこれを決して忘れてはならないのであります。 

 それでは「子なるキリスト」とはどういう神さまなのか。これは世の始めから存在しておられる神さまです。三位一体の神さまは世の始めから存在しておられる。そして子なるキリストは「父なる神」にとって最愛のひとり子です。キリストは馬小屋で誕生しこの世に送られ十字架に架けられ復活されたことがよく知られています。これは罪を犯した人間を何とか救いたいとの父なる神の御意に添おうとして、イエスさま自らその贖罪の御目的をもって、歴史の中に、この罪の人間世界にやって来られたということなのです。罪を犯した者が代って罪を引き受け裁きを受けることはできません。罪のないお方が人としてこの世に来られることが必要でした。それがイエス・キリストさまです。そしてこの罪のない方が私たちに代って十字架に架けられ裁きを受け死んでくださいました。

 神と人との関係をこのような角度からみるとき、イエスさまの誕生、十字架と復活が如何にすばらしいできごとであるかを私たちはアーメンと頷くことができます。世の中の人には荒唐無稽で信じるなど愚かだとしか思われないかもしれない、しかし、だからこそ神さまは、世の中の人々が愚かだとしか思わないものを用いて、信じる者を救うをよしとしてくださった。これが最も神さまらしい方法なのです。罪はこれを拒絶します。しかし神さまのご計画の素晴らしさは、世の知恵が信じないその知恵の判断の逆転にあります。これが神さまの知恵です。 

 「聖霊なる神さま」はキリスト御自身を私たちに示してくださいます。世の中の人々があれほど拒絶した、これほど拒絶しているキリストによる救い、「あなたのためにキリストは十字架に架かってよみがえってくださった」と心の中に示し教えてくださるのが聖霊なる神さまです。このままではわたしは罪のためにほんとうに死んでしまう、このことを教えてくれるのは世の中の知恵、学問、知識、理解ではありません。

 私事ですが、去年12月に父がイエスさまを信じてくれました。正直どの程度分っているだろうかという懸念もありました。イエスさまの話しを聞いて父は「わかった」と単純に信じ、母と一緒に洗礼を受けてくれました。それが年の改まった1月に父から電話がありました。感極まった声で「ありがとな、ありがとな。俺ぁ嬉しいよ、行くところが決まった」と言います。90過ぎという年齢で行くところ…最初ピンと来ませんでした。後になって「行くところが決まった、だから俺は嬉しい、安心だ」ということだと思い当たりました。それは御聖霊さまが私の父に相応しく、或いはそれを受け取る人それぞれに相応しく、罪を教え示し、「イエスさまが十字架に架かられたのはこの私のためである」ことに心を向けるように働いてくださる、聖霊さまはこういうお方なのです。 

 きょうの引証に出てくるニコデモがイエスさまに、いったいどうしたら天国に行くことができるかを問うたとき、イエスさまは「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」とおこたえになりました。新しく生まれる、それはキリストの十字架が私の罪のためであるとわかったときに神から与えられる新しい命なのです。それがどのように為されるかその方法はわかりません。けれども、「ああ私はもう安心だ」という救いの実感。それはもう天国の住人となる新しい命の誕生をしている。ですからそれに感応するのです。

 ここで私はまたインマヌエルの丸の内の講壇を思い出します。世の中の人たちが解るような話をしているのはほんとうの福音を話しているところではない。世の中の人たちが何を言っているのかわからないぐらいの話をしているそこにこそほんとうの福音がある」。

 みなさんがたはイエスさま、十字架、復活、救いには素直に頷くことができる。これは神の命が与えられているからです。けれどもこれが無い人たちにはわかりません。ほんとうにそうなのです。このように新しく生まれるという経験をし、いま神の子どもとされている者たちがいるのです。

 では信仰生活の成長は何かというと、いま信じる私たちの内にいらっしゃる聖霊なる神さまとどのように歩調を合わせて一緒に歩み続けるかにあります。きよめの問題というのはまさにこれです。生まれ変わっても尚神さまに従うことにブレーキをかけてしまう自我がある。これがいまだ残っている罪の性質なのです。その理由、原因に光が与えられたときに、罪の性質に十字架の血潮を充て嵌め、私はキリストに従いますというきよめの決断をすることです。きよめの決断をして後も、性格的な弱さのゆえに過ちを犯すことはあります。そのたびに主の前に憐れみを請いながら歩み続けてゆくことです。これこそがクリスチャン信仰のあり方です。 

 私たちは5月の最終聖日にペンテコステを迎えようとしております。きょうこの聖霊なるお方が私たちの心の中にあることをしっかりと捉え、このお方とどのような関わりを持ちながら歩んでいくかということに尚光をいただきながら、ペンテコステを待ち望みたいと思うことでございます。 

※文責:中ぶんな

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