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きょうのことば『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-3』

 2012年5月20日(日)インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお伝えします。

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説教題 『聖霊とともに歩むこと 聖霊と私たち-3』
聖書引証 ガラテヤ5:16~26

16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。
17
なぜなら、肉の願うことは御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、そのためあなたがたは、自分のしたいと思うことをすることができないのです。
18
しかし、御霊によって導かれるなら、あなたがたは律法の下にはいません。
19
肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
20
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
21
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんなことをしている者たちが神の国を相続することはありません。
22
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
23
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
24
キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
25
もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。
26
互いにいどみ合ったり、そねみ合ったりして、虚栄に走ることのないようにしましょう。

一年のうちで今がいちばん過ごしやすいときかと思います。よく山が笑うといいますが、盛岡周辺の山々、ほんとうに若々しく瑞々しい緑が豊かです。

 来週はいよいよペンテコステを迎え、聖餐のテーブルがもたれます。この日ひろ子先生は青森の教会でのご奉仕となりますが、このことも併せ、すべてが最善に為されますようにと思うことでございます。

―このあと聖宣神学院の創立記念日のお祈りがなされましたー

先週の礼拝の恵を簡単に振り返りますけれども、ガラテヤ人への手紙第5章に「御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか」というおことばがあります。クリスチャンの基礎はすべて新生経験にあります。聖霊によって新しく生まれ、そして聖霊との関わりを持って生きることにより信仰生活が成長していきます。前回は旧約聖書から神と共に歩んだ人物としてエノク、ノア、アブラハムを挙げましたが、みな神と格別な生命的な関係のあった人たちです。

私の育った松本市に女鳥羽川という川があり、よく沢ガニを捕ったりして遊んだものですが、川底には金色に光る砂がありました。小学校のときに金というものがあると知ったとき、私はその光る砂を拾い集め、「川でこんなに金が取れたよ」と家に持ち帰ったことがあります。しかしそれは金ではなかった。金ではないものを金だと思いこんで後生大事に持ち帰ったのでした。世の中にも往々にして本物ではないものを本物だと思いこみ、失うまいと握りしめている方がいらっしゃいます。すばらしい人格、立派な生活態度等々。しかしそこに神のいのちがないならば、それは本物であるとは言えません。

私たちも始めは世の中の人たちと同じものでした。しかしある時にイエスさまを信じて命が与えられました。聖霊という神さまと関わりのある命を持つことができるようになったのです。さきほどの例でいうなら本物の金を持つようになった。それゆえに神さまに感応できる性質を私たちは持っている。これが新生したクリスチャンです。先週も申しましたが、ただの鉄線のようであった私たちに一たび信仰によって電流が流れたときに、そこには強力な磁界が発生し、周囲に影響を与える力を生じる。これが、使徒の働きの1章に書かれている「8 しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」というこのことなのです。

このようにせられた私たちは、まず神さまの前に出て静まることです。そして聖霊を通して神さまから与えられるおことばを待つことです。これに対して私たちは願い事をする。これは祈りです。いきなり願い事をするのではなく、まず神さまの側からのおことばを待ち、そして願い事をする。するとまた神さまはおことばを加えてくださいます。それに対してさらに私たちが応答する。このような心の営みが聖書を媒体として行われるとき、さっきの磁力線ではありませんが、これが頻繁に為されるほど、私たちには霊的な影響力、感化力が増し加わってくる。一日を始めるにあたって静まり、みことばを受け取り、そしてどれだけ多く受け入れたかで一日が非常に祝福されたものとなる。

蔦田二雄先生は、もし聖書を一日1章読むのが大変なら、デーリーライトといったものをテキストにしてもいい、それを読み、おことばを捕えて一日を始めるだけでも随分違うのだと仰いました。

私たちはよく、大きな課題或いは試練のときに神さまからおことばを与えられる経験をします。それを有難うございますと受け取って神さまの前に備えられるときに、みことばとそして願い、応答というものが非常にしげくなる。これが多いほどなお一層大きな感化力となります。

ところが私たちの心には依然として罪の性質が混じっている。これが神さまとの純粋な交わりを妨げている。しかしこの罪の性質が一つまた一つと消えてゆくときに、みことばと願いの応答とが順調にいくようになります。今まであんなに大変だったことが、自在に高速でなす事ができる。旧式のパソコンでは写真の取り込みに数分かかっていたのが、最新のパソコンでは数秒で事足りるようになるといったようなものです。かつての自分なら長い間悩んだことが、信仰に成長してくると、いとも容易くその課題を消化し乗り越えてゆくことができるようになることを経験します。

「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」

このガラテヤ5章25節は、まさに今お話したような信仰生活をいっているのではないでしょうか。心に罪があると、せっかくのおことばの通りが悪くなったり、或いは与えられたおことばを都合の良いように曲解してしまったりします。罪はみことばをストレートに受け取ることを妨げます。罪があると応答が遅かったり自分に都合の良い応答になってしまう。パウロは第二テモテ4章で「 人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。」といっています。

あなたの心の中にある罪が問題だと指摘されたときに、それが人間だなどというところに逃げてしまうことが有り得る。

ガラテヤ524節には「キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。」とあります。罪が一つあったから十字架につける、また一つあったから十字架につける、また一つあったから…というのではなく、「我キリストとともに十字架につけられたり、最早我生くるにあらず、キリスト我がうちにありて生くるなり」とあるように、「十字架につけてしまった」のであり、「つけ続けます」ということではありません。「つけてしまった」、これが私たちの依って持って立つきよめというものの恵です。

罪の性質をいつまでも持っていたならば、その人の信仰生活は祝福されないし、成長もしません。罪の性質がいつまでも残っていると素直におことばが入ってこないし、手前勝手な応答になってしまう。しかしキリストの十字架によってほんとうに罪が解決したときに、私たちは、ガラテヤ52223にある「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。」というこのような実を豊かに結ぶことができることでございます。どうぞ御霊によって生きるなら御霊によって歩ませていただこうではありませんか。

40分間の説教のうち、用いられた図や例話など一部割愛してございます。文責:中ぶんな

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