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きょうのことばー『待ち望む信仰』ーその1-

2012422()インマヌエル盛岡キリスト教会(0196462924)國光勝美牧師の説教をお伝えします。

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説教題『待ち望む信仰』

聖書引証 詩篇62:1~12

1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
2
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
3
おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。
4
まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ
5
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
6
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
7
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
8
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ
9
まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。
10
圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。
11
神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。
12
主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

【説教】

 私たちはいまペンテコステ、聖霊降臨を記念する日を待ち望みながら歩んでおりますが、この待ち望むということに心を向けながら、みことばからの恵をいただこうとしているところでございます。

きょうお開きしました詩篇62篇、これはダビデが命の危機に瀕したときに書いたものです。彼は自分の息子アブシャロムのクーデターに遭いました。あわや王座を奪われかけたのです。アブシャロムにはアムノンという腹違いの兄がいたのですが、アムノンが自分の妹を辱めたのに対し、父であるダビデはアムノンの犯した罪に中途半端な対処しかできなかった。アブシャロムは激怒しアムノンを殺してしまうのですが、それに対してもダビデの敢然とした対応はなかった。ダビデが毅然と処罰できないのは、実は名君といわれたダビデ自信も重大な過ちを犯したことがあった。忠実な家臣ウリヤの妻バテシバを奪い、ウリヤを意図的に戦死させてしまった事件があった。聖書はこのような事をも赤裸々に記しています。

 アブシャロムはダビデを王座から追うために4年かけて周到に準備をします。巷にもダビデの盟友にも今の執政がいかに妥当を欠くかを浸透させていきました。盟友たちはダビデから離れ去り、彼はついにエルサレムを捨て、ヨルダン川を渡り、荒野に身を潜めなければならなくなった。この詩篇62篇はそのときの心の有り様をそのまま述べたものでしょう。しかし苦境に立たされたとはいえ、ダビデは歴戦の器です。それに対しアブシャロムは、戦略的には稚拙であったかもしれません。このとき、戦いを左右するほどの名参謀アヒトペルはアブシャロムに加担していました。アヒトペルは多くの血を流さずとも即刻、今すぐにダビデ一人を討ち取れば片が付くと進言します。ここにアヒトペルにも並ぶ名参謀フシャイがおりました。実はフシャイはダビデに通じておりダビデに敵側の情報を知らせていた。フシャイはアヒトペルの進言が実行されたなら万事休すと思ったかアブシャロムに別な進言をします。「イスラエル中に使いを出してすべての部族から兵隊を召集し、あなたが先頭にたってダビデの一党を討ち滅ぼしてこそ、あなたの王国は揺るぎないよきものになる」と。それに対しアヒトペルは、大軍を集めているあいだにダビデは戦術を整えるだろう、そんな時間を与えずに今すぐ打つべきと主張。ここでフシャイもろが引かず、あなたが先頭にたって王座を確定するべきだと勧める。そしてアブシャロムはフシャイの進言を容れてしまいます。アヒトペルはここでもう終わったと自ら命を絶ってしまいます。

 このダビデの大ピンチの結果はどうだったでしょう。アブシャロムは荒野の木々のあいだに潜むダビデを捕まえようとラバに乗って駆けていたところが、彼の自慢の髪の毛が木の枝に引っかかり、彼は木に宙づりになり殺されてしまいます。そしてダビデがわが子のために喪に服することになりました。

 きょうの詩篇62篇で神さまから何をレッスン、示しとしていただいているでしょうか。ポイントはひとつ、「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」、このことです。

 いったいダビデがどのような状況のときにこの詩篇にあるような成り行きを経験したのか、私たち一人一人が置かれている状況に合わせてみようではありませんか。ダビデがそうであったように自分にも過ちがあった。置かれている状況が或いはそこからくるところの結果であるかもしれない。それにしてもこれまでは自分の理解者だと思っていた仲間たちが、一緒に神さまを礼拝していた人々が、あろうことかこっそりと自分を裏切り突き落とそうとしている、このような経験をされた方は決して少なくはないでしょう。それがもし自分だったならいったいどのように心が動くでしょうか。「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」と神さまにぴちっと心を合わせることができるでしょうか。もしできないとしたら、どうしたらよいのでしょう。魂を黙らせる、静まらせるのは容易なことではありません。あの人の誤解を解くにはこうしたらいいのか、ああしたらいいのか。いま自分はここにいるよりもあそこに行った方がいいのか等々。「ただ黙って神を待ち望む」ことは言葉では簡単ですが、一旦ダビデの立場に立ったときにはどうでしょう。

 ここで私たちはダビデがどのようにしてこのところを乗り越えていったかを、きょう恵として受け取らなければならないと思うのです。

 詩篇622に「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」という訳があります。文語訳ですと「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」。新改訳は「私は決して、ゆるがされない」。新共同訳でも「私は決して、ゆるがされない」。これらの訳のうち、私は文語訳の「我いたくは動かされじ」に思いが残ります。

 初代総理(初代代表)がここから説教されたことがあります。5節に「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」とあり、そのあと6節に「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」とあります。

 この2節の新改訳では「私は決して、ゆるがされない」、文語訳では「我いたくは動かされじ」と。その「我いたくは動かされじ」と文語訳でいうのならば、6節のところに「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない」とあり、ここに「いたくは」とは書いていないのです。その印象、思いの中に、ダビデは621わがたましひは黙してただ神をまつ」とその苦境の中、しかしそのとき、まだ最初のうちは「我いたくは動かされじ」。ですから多少まだこうであれば動いた、だがやがて「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」とずっと神の前に思い巡らしているうちにやがて6節にあるように「我はうごかされじ」とこのように彼の心はしだいに神の前に動かされなくなった、このことが心の中に深くあるものですからご紹介させていただいたわけです。

       ―つづくー

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