イースターおめでとう!!
日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をおつたえしております。編集の都合上、一週間遅れの掲載です。そこでイースター記念説教は来週となります。きょうは2012年4月1日の説教を掲載いたします。
説教題『受難のしもべ』/聖書朗読 マルコ14:32~42
いよいよきょうは棕櫚の聖日、今週はイエスさまの御受難を記念する受難週を歩んでおります。
本題に入ります前に、弟67次年会におきまして十和田教会の異動がございました。先週は急遽ひろ子先生が十和田に行き、今度着任される先生を迎える準備の講壇を守ったことでございます。そして別な日に、私どもが新任のお二人の先生方と滝沢SAで待ち合わせまして、十和田教会にご案内しました。主任牧師古川恵子先生(宇都宮教会出身・神学院・高津)と西沢多恵先生(木更津教会出身・新卒)です。十和田教会は10時15分から礼拝が始まりますので、ちょうどいま古川先生が講壇で御用をしておられるでしょう。
きょうはこの盛岡教会では、T兄弟の甥御さんの御葬儀、或いはいま一人のT兄弟姉妹の息子さんの職場に関すること、またSご夫妻がご都合がつかずといつもご一緒に礼拝を守っている方々が欠席となっておりますが、今朝神さまは大湊教会のS兄弟をここにお送りくださいました。
きょうはマルコ伝(マルコの福音書)から主にお話しますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝の四福音書には、共通して書かれている記事が多くございます。イエスさまのゲッセマネの園での祈りもその一つです。この箇所をマタイ、マルコ、ルカの3福音書から挙げてみます。
マタイ26章
36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。
マルコ14章
32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
33 そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34 そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
35 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36 またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
37 それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
38 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
39 イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40 そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。
ルカ伝22章
39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43 すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
ルカ伝22:39には「いつものように」とあります。私たちは何か特別な課題があるときには特に熱心に祈ります。しかしイエスさまは、いつもゲッセマネという場所で、いつものように祈られる。この「いつものように」に質されます。現代のように顔や行動が逐一メディアで流されるなら、イエスさまがどこで何をしているのかはすぐに突き止めることができる。しかし2000年の昔です。それでもユダはイエスさまが何処にいるかを知り捕まえようとする兵を速やかに案内できた。イエスさまは十字架という大きなできごとを前にして尚いつものようにいつものところで祈っておられた。いま私たちの祈りはどう位置づけられているでしょうか。「いつものところ」が設けられているでしょうか。
マタイ26:37に「イエスは悲しみもだえ始められた」とあります。またマルコ14:33「イエスは深く恐れもだえ始められた」。マルコ14:34には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とあります。あのイエスさまが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と仰った。これまで父なる神さまの御愛を一身に受け、その御意を行うことをよろこびとされていた。それがいまつゆ知らない人の罪を背負わされ十字架に架けられ裁かれなければならないという役目が目前に迫っている。イエスさまが「深く恐れもだえ始められた」その心境、意味を知ることができるように思います。
「地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」。主はどれほどの思いをもって訴え祈られたことでしょうか。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」
みなさんはこの祈りができますか。ほんとうに神さまの願っているようにしてください、すべて従います、自分の願いではなくあなたの御意がこの身になりますようにと祈ることができますか。この部分だけはわたしの思い通りにさせてくださいと除外している部分はないでしょうか。だってこれは、だってあれはと色々と理由をつけてはいませんか。好都合な理由はいくらでもつけられる。
私はここでやはり自らを糺します。すると引っかかるものがある。しかし「すべて私の願うところではなくあなたの御心のままをなさってください」、これに100パーセント、アーメンと言い切ることができたなら、イエスさまに従って行く者として相応しいと言えるのではないでしょうか。もしそう祈り得なかったとしたらそれは何なのか。確かに100パーセントアーメンと言い切るのは容易なことではありません。ルカ伝を見ますと天の御使いたちが現れてイエスさまを力づけています。イエスさまでさえ苦しみ悶えながら祈られた。しかしここをクリアできるかどうか、信仰生活の分岐点はここにあります。
ルカ22:46「誘惑に陥らないように祈っていなさい」。私たちの信仰生活、祈りの中で、いえイエスさまのゲッセマネの祈りのときにさえも、悪魔は十字架から遠ざけようと熾烈に戦いを挑んできます。この杯をあなたがのむ必要はない、あなたは何一つ悪いことはしていないと悪魔は隙をねらっています。無理することはない、そこそこにやっておけばいいと囁きます。ここに登場する弟子たちにしても、一生懸命イエスさまに従いたいのです。しかし心は燃えていても弱さがある。悪魔はさまざまな手を尽くして私たちを誘惑してくることがわかります。
第一ペテロ5:8~9
8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9 堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。
あのゲッセマネでイエスさまの祈りを目撃していたペテロがここで「目をさましていなさい」といっています。あのとき弟子たちは眠ってしまっていた。
そうです。私たちは目を覚まして悪魔と戦わなければなりません。悪魔はあらゆる手段を尽くして自分の欲するところを選択するように語りかけ誘惑しつづけます。しかしどうか、目を覚まして、イエスさまが悪魔と戦って勝ち得たように私たちもこの誘惑に打ち勝って神さまの御意に従いゆく在り方を選択させていただきたいと思うのであります。
※先週の復習は割愛しました。写真のイースターエッグとカードは教会からいただいたものです。 文責:中ぶんな
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