きょうのことばー『主イエスを待ち望む』
2012年4月15日インマヌエル盛岡キリスト教会(℡019-646-2924)國光勝美牧師の説教をお届けします。
説教題『主イエスを待ち望む』
聖書引証 使徒の働き1:3~5
3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4 彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5 ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」
過ぐる聖日(4月8日)にはイースター礼拝をともに守らせていただきました。そして幸いな愛餐のあとで教会の墓地を中心に天に帰られた兄弟姉妹の墓前に参り、お花を飾り讃美歌を歌い、亡き方々を偲ぶとともに私たちの信仰をいよいよ新たにさせていただきました。当日は麗しい好天に恵まれましたが、その翌日は随分と寒くなりまして、これが一日ずれなくて良かったと帰宅してから家内と喜びあったことでした。
教会の庭の根雪が解けましたのは4月1日。真っ先に教会の庭に咲く花を楽しみにしていたところ、ちょうどイースターのときに福寿草が咲き春を実感したことでした。
このように私たちは春を待ち望みましたけれども、私たちが何よりも待ち望んでおりますのは、引証聖句にございます「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」とあるこのことです。まもなくペンテコステ。いまはこのペンテコステを待ち望むときです。きょうはこの「待ち望む」ということに焦点を合わせてみましょう。
第一ペテロ1:21をお開きします。
21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。
ここにありますように、私たちはよみがえられたイエスさま、そして彼に栄光を与えられた神を、復活されたイエスさまによって信じる者たちです。だから私たちの信仰と希望は神にかかっている。このことを先ず覚えましょう。
「らみい」という月刊児童伝道マンガ雑誌があります。これを教会学校に来ているMちゃんがとても楽しみにしています。「百万人の福音」とともにずっとある書店から取り寄せておりました。ところがどういう事情でか届くべき月に届かないのです。Mちゃんが指定されているファイルの置き場所を見ては、「先生、まだ来ていない」とがっかりするのです。私は意を決しその書店から取るのを止めました。4月からは入荷した時点で連絡をくれ遅れのない書店にお願いしています。書店の側の都合はどうであれ、一ヶ月遅れは雑誌の記事には致命的です。子どもには子どもの待ち望みもあります。
私たちは神さまをどのように待ち望んでいるでしょうか。
「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるから」
あのペンテコステという大きなできごとの前に、弟子たちはどんな想いをもってこの約束を待っていたことか。それは命がけの切実な待ち望み方でした。
詩篇63篇をみなさんでお読みしましょう。
1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
これはこの詩篇を書いたダビデの渇いた心の状態そのままです。私たちは日曜毎に礼拝に集いますが、果たしてどのような想いでこの日を待っているでしょう。いつの間にか待ち望む真剣さ切実さが失われてはいませんか。さまざまな事情を引き合いに出して、まあ仕方ないじゃないかと済ませてしまってはいませんか。これは待ち望む姿勢ではありません。警戒を与えられることです。切実に待ち望む心をもって日曜毎に神さまに出会い主を礼拝するべきところを、神さまに何も期待するところなく惰性で神さまの前に出てはいませんか。
私の失敗談もお話しましょう。夏の岩手山登山のときのことです。私は水を3本準備しました。一本は登り用、1本は昼食用、一本は下り用です。早朝登山前に車の中で朝食を食べました。その時に一本の水の蓋を取ってすこし飲み、あとは残しておきました。予定通りに登りはじめ途中で1本を飲み、頂上での昼食に1本飲みました。さていよいよ下山となり途中で喉が渇いて飲もうとしたところ水がありません。やっと入れ忘れたことに気づきました。もう下りはじめたときから喉は渇いていたのです。乾ききったところで飲もうとしたところが無かった。もう、猛烈な喉の渇きでした。下りながら妄想が浮かんで来るんです。自販機のコカ・コーラを飲んでいる自分の姿です。妄想にふらふらしながらやっと車にたどり着くと、蓋が開いたペットボトルが中で熱くなっていました。私はこれを思い出すたびに、いまでも詩篇23篇が頭の中を回り始めます。渇くとはこういうことなのですが、私たちが神さまをまっているときに切実なる渇きがあるでしょうか。私はここに信仰の実質があるように思います。
詩篇130:5に「 私は主を待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」とあるように、私たちが神さまを待ち望むときにはみことばを待ち望みます。
詩篇63:1
1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。
8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。
この8節にある「すがり」の意味は、もっと切迫した「すがりつく」という言葉が使われています。私の魂は神さまにすがりつき、そして神さまの力強い御手が私を支えてくださる。それほどまでに、どうぞ神さまに向かって切なる待ち望みをさせていただきたいと思います。
締めくくりに入りますが、あなたは渇きを感じていますか。渇きを感じるということは、ある意味健康な証拠です。そしてまたよく聞くことですが、若いうちは喉の渇きを自覚して水分を補給することができるのだそうです。ところがお年を召して体力が衰えてきますと自分が渇いているということがなかなか自覚できなくなる。そこで意識して水分補給を水分補給を心がけるのだそうです。
私たちは一日のうちどれだけ渇いて主を待ち望んでいますか。どれだけ渇いて朝に神さまの前にみことばを慕い求めているでしょうか。詩篇63篇にあるダビデのように神さま無しではやっていけないというまでのこの渇きをもって主を待ち望んで、折あるごとに主に祈りすがりついて、主の力強い右の手に支えられて一日を歩むことができるようにと心から思うことであります。
※編集上割愛した部分がございます。写真は教会堂。そして礼拝を終え帰られるS兄弟と見送っていらっしゃるのは國光ひろ子牧師です。文責:中ぶんな
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