ああ、あれはね ーカルバリの十字架ー
いまは受難週。そしてきょうはイエスさまが十字架に架かられたことを覚える日だ。
初めてのことだが、さっきまで世界の犯罪を検索していた。多くの犯罪が列挙されていた。おそらく多くの方々は、キリストが人類の罪を背負って十字架に架けられたといっても、文化の土壌によっては身近に感じられないのではないかと思われた。人が驚愕するような罪を犯した人々のための十字架であるといえば、案外頷けるものがあるのかもしれない。そしてその連鎖から実はこの私もおなじようなものと言いたかった。この罪人である私のための十字架と言いたかった。しかし読んでいるうちに、犯罪を犯してしまう人たちは、ある意味、飢餓、貧しさにある人々よりもやるせない気の毒さを負っている側面があると感じられた。そのようなことを持ち出すべきではない、そして事例を書くことは止めた。
誰でも罪を犯す可能性はある。聖書はすべてのものは罪人であるといっている。罪人が罪人を引き合いに出す資格はほんとうはないだろう。これは社会の秩序を守る法の番人を否定していうのではない。
私はイエスさまが自分の罪を背負って十字架についてくださったことを信じる。だからこの受難週のこの日にイエスさまの十字架に思いを致している。そして感謝している。この他にいったい言うべき何があるだろう。
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