きょうのことば 『十字架ーその過去・現在・未来』ー着任礼拝ー
2012年3月25日、インマヌエル盛岡キリスト教会、國光勝美牧師の説教をお届けします。
説教題 『十字架ーその過去・現在・未来』ー着任礼拝ー
聖書引証 第一コリント1章18節~25節
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです
弟67次年会におきまして引き続き盛岡に任命をいただき、きょう着任礼拝を迎えております。全国のインマヌエルの教役者が新しい任地で講壇にお仕えしていることでございます。私たちはちょうど今、イエスさまの御受難を格別に思う時期を過ごしております。4月1日は棕櫚の聖日、4月8日がイースターの記念聖日。つまりその前の金曜日が十字架の日になります。このとき、十字架の御受難に思いを留めるのは相応しいことであろうとこのように思っております。
十字架、それは私たちにとって基礎中の基礎です。これを生涯わかりつづけていることこそが信仰生活であります。ここでまた「福音の手」を思い起こしましょう。大切なものを握る五本の指。さて親指は「神の愛」でした。大切なものを握るときに親指一本で残りの4本の指を引き受ける、すべてが引き受けられる。それほど大切なものです。人差し指は「私は罪人」です。私たちは往々にして人の欠点を指さしがちです。しかしそれを自分に向けて「私は罪人」であると認めることが大切です。中指は「キリストの十字架」です。福音の中心はキリストの十字架です。神は罪のない方を私たちの罪の代りに罪とされ十字架に架けてくださった。そして薬指、これは握ろうとすると自然におりてくる。この薬指が「信仰」です。「神は愛」、「私は罪人である」、「十字架は私の罪の身代わりである」ということがわかりますと、「イエスさまへの信仰」となるのは自然です。逆に言いますと信仰がわからないという場合には、前にあげた三つのどこかがわかっていないのです。
ここで27年前に亡くなられたT兄弟を思い出します。私どもが年会で上京している間に別な病院に転院されました。同室にはクリスチャンの方が入院しておられました。私がお見舞いに伺ったときにそのクリスチャンの方が、「T兄弟から『過越し』について質問されたがうまく説明できないので先生お願いします」と仰いました。そこで、「その昔エジプトで神さまが全土に裁きをくだすときに、子羊の血を鴨居に塗ってある家は裁かずに通り越してくださった。イスラエルの人たちはみなその中に入っていることによって救われた。それが過越しの意味である。これは動物の血によって人の罪を贖うということを行った。これが何を意味しているか、それは、やがてイエス・キリストという子羊が現れて屠られ血を流し人間の罪の過越しをしてくださる、まことの神の子羊の血を信じてその中にあるものは救われる。信じた者を死の使いたちが通り過ぎてくださる、それが聖書の言っている救いなのです」と説明いたしましたところ、ベッドに正座し黙って聞いておられたT兄弟がしばらくして、「それは自分には必要だ」と仰いました。私が、「その必要だという意味がおわかりになりますか」と訊くと、「わかる、それは俺に必要だ」と。「ということはイエスさまを信じるということですか」。「そうだ」とT兄弟。ほんとうに嬉しいことでした。そして間もなくT兄弟は天に召されました。
「それは俺に必要だ」。忘れられません。神は愛であってひとり子をこの世に与えてくださったほどにこの世を愛してくださった。自分はほんとうに神の前に罪人だ、このままでは天国にいくことができない。その私のために神の御子キリストがこの世においで下さって十字架に架かってくださった。それは俺に必要だというのはほんとうに自然なのです。そして信仰を持ったなら、それを確かなものにするのが神さまの約束の「御言葉」です。これを落とさないように握るのが小指です。「彼に信頼する者は失望させられることがない」というローマ10:11にある御言葉、或いは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」というヨハネ3:16でもいい、とにかく自分がいちばん納得できる御言葉でよいのですが、聖書の約束の御言葉をかたく握り信頼することです。
私はきょう皆さま方と共に、この十字架の意味を短く過去、現在、未来という切り口でお話をさせていただきたいと思っております。
十字架とはいったい何でしょうか。何を意味しているのでしょう。これに関してはいくらでも言い方があると思います。
十字架とは、衝撃的ですが、私たち人間が神を殺した出来事であります。私たち人間といっていますが、即ちこの私が神を殺したのです。自分は罪を犯していない、それほど悪いものではない、色々な自分自身の評価があるでしょう。しかし聖書はあなたがキリストを十字架につけたのだ。あなたに罪がないとは言わせない。あなたは神を拒絶し神の愛を拒み、排斥したといっています。キリストの十字架、それはあなたが神を拒絶した出来事であるといえます。しかしもう一つ十字架の意味するものは、神は自分を排斥し自分を拒絶し、自分を殺す者を一心に愛し、そのものたちに代わって神が罪を背負い自分の命を注ぎだしてくださった、これが神の愛であり十字架の意味するものであります。この二つの出来事がクロスする。そのように表現してもいいでしょう。十字架は私がキリストを拒絶した出来事であり、十字架は、その私のためにキリストが罪を背負って死んでくださった、神の愛の出来事なのだということを覚えましょう。これはただの空想ではない、ほんとうにあった出来事なのです。過去にあった、地球の小さな小さな国の小さな小さなところで、しかし確かに、このものすごく大きな大きな出来事があった。私たちはこの出来事を知っている者たちです。感動を覚えます。多くの人たちはこのことを知らないのです。私たちが人間としていちばん大切なことはこのことを知ることなのです。他の何も知らなくてもいい、忘れてもいいのですが、この事実をしっかりと確認し、こういうことなのだと知ることです。
それから十字架の持つもう一つ、現在の事実。しばしば質問されますが、いまから2000年前のそんな片隅に起った出来事と今の私と何の関係があるのですか。人種、時代も違う。いま自分たちはこの日本に、この場所に、この時代に生きているのに、いったいそんな出来事と私とをどうして結びつけなければいけないのか。これは信仰を持って初めて可能となることなのです。神さまの前には過去も現在も或いは地球の距離も、それらは何のこともない。2000年の昔に起きたあの出来事が、実はその後に生まれる人たちの罪の贖いとしても為されたと受け取ったとき、それは今、私にとって、今現実のものとなるのです。信仰というものはそうです。現実に今のことなのです。
また現在の事実というときに、罪の赦し、そして天国に入ることができるようになったという事実の他に、十字架に照準を合わせるときに、心の中にある罪のきよめがもたらされます。これが信仰のわざであります。あの2000年前に、今の私の罪はその罪の性質とともに十字架につけられましたと信じるとき、いま私はキリストの十字架の血潮によってきよめられているのです。いま救われ、いまきよめられる、神さまの御前には信仰があればいつでも今なのです。そして将来も然りです。これも心に留めたいと思います。
黙示録5章9節~12節に出ております。
9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10 私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
11 また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
12 彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」
ここに将来私たちが入る天国が書かれています。イエス・キリストの十字架の救いがいかにほめたたえられているか。私たちはそれをいま、この聖書の箇所からすこしだけ垣間見ているだけなのですが、しかしここに明らかに見えるのはほふられたイエス・キリスト御自身が、御前に高らかにほめたたえられている。イエス・キリストの十字架の血潮を信じる者たち、あらゆる時代あらゆる民族あらゆる言語の中から救われた者たちが、天国でキリストをほめたたえる讃美の声が行き届いている。何という素晴らしい世界に私たちは入っており目が開かれていることでございましょう。
どうか先ほどの福音の手を思い起こし、このキリストの十字架は「我が為なり」と信仰をもってこれを受け止めたく思うのであります。
※短く編集してございます。文責:中ぶんな
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