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きょうのことばー『待ち望む信仰』ーその2-

 前ページのつづきです。

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ある日突然大きな試みの中に落とされてしまったとき、詩篇62:1「わがたましひは黙してただ神をまつ わがすくひは神よりいづるなり」62:2「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」

作者ダビデは「黙して」いるときにどういうことを考えたのか。先ほども言及しましたけれども、バテシバ事件、ウリヤ殺害事件そしてそれに息子アブシャロムの反逆を重ねたでしょう。もう否応なしにこれまでの自分の在り方について神の御前に追い詰められ悔い改めたことでしょう。しばしば苦境こそ神さまのチャンスだといわれます。そこに追い込まれてやっと赤裸々な自分自身を見つめ直し悔い改める。ダビデも結果的にはこれで救出されました。

 いまの私たちでいうなら、私の罪を主に申し上げ悔い改めたときに、イエス・キリストの十字架によって主は赦してくださった。赦してくださるのみか、私を受け入れ「我生くれば汝等も生くべければなり」と永遠の命をくださった。こういうピンチのときこそ、私たちの信じている神さまはこういう神さまであるともう一度深い納得をくださり十字架の前に立たせてくださるのです。このことがわかると、もうあの人が悪いとかこのことがああだった、こうだったというようなことはある意味問題ではなくなります。

 十字架の前に立ったとき、罪を赦していただき、こんなものを主が受け入れ愛してくださっている、有難うございます。

「我動かされじ」。十字架、そして神さまの愛、これに満たされるとき、「我動かされじ」。

このようになってくるのではないでしょうか。

 ですから最初は「私の救いは神からくる」。でもそれにつづいて、私の救いは神からくるんじゃない、「神こそはわが磐わがすくひ」となってくる。「神からくる救い」以上に「神こそはわが磐わがすくひ」なのです。このように焦点が定まってきます。これが神の前に黙して静まるということではないでしょうか

 62;2には新改訳で「私は決して、ゆるがされない」とありますが、文語訳或いは口語訳でいうのならば「我いたくは動かされじ」。そしてこれが6節の「我はうごかされじ」となっていくのではないでしょうか。

「黙って、ただ神を待ち望む」

 17~19日私は東北教区・北関東教区合同研修会に臨みました。このとき講師の先生が神さまとの深い交わりを持つようにというお話をしました。インマヌエルではよく密室を持つと表現いたします。会衆席から「先生は一日のうちいつ頃それをどのように持たれるのか」という質問がありました。先生は仰いました。たとえば朝早くという場合、女性であるなら食事の支度、きょうの予定など様々な雑念が入ってくる。そういうときの一つの方法があります。先ず大きく深呼吸をしてから言葉を声にして出すこと。思っていてはいけない。言葉にして出すことです。このことによってしだいに心が集中し、雑念から解放されます。こうお答えになりました。

 ここでまたしても初代総理の説教を思い出します。

「君たちは禅僧が座禅を組むときに無の境地になるといっているが、あの人達が言っているようなこと、クリスチャンたちが神さまの御臨在のまえに自らを置くとき、これがほんとうに神さまのまえに静まるとき、密室を持つということの意味なんだ。だからよく密室のときにいきなり神さまにあのことこのことを願う祈りをするんじゃない。先ず神さまのまえに静まって、この神さまがどういうお方であるかを心に留めなさい。こう指導されたんです。

そういう世界に熟達しているアンドリュー・マーレーという人がいたのですが、この人はテイク・タイムということをしばしば言っております。神さまの前に祈るときに、直ぐに何かをしてくださいと祈るのではなく、もっというなら、神さまを誉め称えなさいというのでもなく、先ず聞く。そのために時をとりなさいと。テイク・タイム。詩篇6211で「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた」とあります。聞くことです。「二度、私はそれを聞いた」というのは、この密室という営みが「6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」という確信。今の私たちでいうならば、主の十字架の前に赦された、そして受け入れられ、神さまとの深い交わりの中に満ち足りる。

詩篇6345をご覧ください。

4 それゆえ私は生きているかりぎ、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
5
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

これは神さまを待ち望んでいるものの心の有り様です。これができるとき、ここに6211「力は、神のもの」12「恵みも、あなたのものです」となるのです。

私が神学校卒業して数年経ったときの年会で、朝比奈寛先生が詩篇62篇から語り、その締めくくりに仰いました。

「私たちの信じている神さまは力の神さま、そして私たちの信じている神さまが恵の神さまであることが私たちのうちに理解され、ほんとうにこの信仰に生きているなら、課題はすでに越えているものです。これはよみがえりの力でしょう。豊かな赦しを与えてくれるお方、力は神のもの。ああ、主よ、憐れみもまた汝のものなり」。

 いま私たちは聖霊を待ち望むペンテコステを前にしているときです。待ち望むということは、ある意味信仰と同じ本質を持っている心の営みであります。主を待ち望む者でありましょう。

※この説教の聖日は10時から地域の会合があり礼拝は欠席しましたが、CDから起こし書かせていただきました。聞き間違いがある場合もございますが、お気づきの点がありましたならご指摘ください。文責:中ぶんな

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