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2012年4月

きょうのことばー『待ち望む信仰』ーその2-

 前ページのつづきです。

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ある日突然大きな試みの中に落とされてしまったとき、詩篇62:1「わがたましひは黙してただ神をまつ わがすくひは神よりいづるなり」62:2「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」

作者ダビデは「黙して」いるときにどういうことを考えたのか。先ほども言及しましたけれども、バテシバ事件、ウリヤ殺害事件そしてそれに息子アブシャロムの反逆を重ねたでしょう。もう否応なしにこれまでの自分の在り方について神の御前に追い詰められ悔い改めたことでしょう。しばしば苦境こそ神さまのチャンスだといわれます。そこに追い込まれてやっと赤裸々な自分自身を見つめ直し悔い改める。ダビデも結果的にはこれで救出されました。

 いまの私たちでいうなら、私の罪を主に申し上げ悔い改めたときに、イエス・キリストの十字架によって主は赦してくださった。赦してくださるのみか、私を受け入れ「我生くれば汝等も生くべければなり」と永遠の命をくださった。こういうピンチのときこそ、私たちの信じている神さまはこういう神さまであるともう一度深い納得をくださり十字架の前に立たせてくださるのです。このことがわかると、もうあの人が悪いとかこのことがああだった、こうだったというようなことはある意味問題ではなくなります。

 十字架の前に立ったとき、罪を赦していただき、こんなものを主が受け入れ愛してくださっている、有難うございます。

「我動かされじ」。十字架、そして神さまの愛、これに満たされるとき、「我動かされじ」。

このようになってくるのではないでしょうか。

 ですから最初は「私の救いは神からくる」。でもそれにつづいて、私の救いは神からくるんじゃない、「神こそはわが磐わがすくひ」となってくる。「神からくる救い」以上に「神こそはわが磐わがすくひ」なのです。このように焦点が定まってきます。これが神の前に黙して静まるということではないでしょうか

 62;2には新改訳で「私は決して、ゆるがされない」とありますが、文語訳或いは口語訳でいうのならば「我いたくは動かされじ」。そしてこれが6節の「我はうごかされじ」となっていくのではないでしょうか。

「黙って、ただ神を待ち望む」

 17~19日私は東北教区・北関東教区合同研修会に臨みました。このとき講師の先生が神さまとの深い交わりを持つようにというお話をしました。インマヌエルではよく密室を持つと表現いたします。会衆席から「先生は一日のうちいつ頃それをどのように持たれるのか」という質問がありました。先生は仰いました。たとえば朝早くという場合、女性であるなら食事の支度、きょうの予定など様々な雑念が入ってくる。そういうときの一つの方法があります。先ず大きく深呼吸をしてから言葉を声にして出すこと。思っていてはいけない。言葉にして出すことです。このことによってしだいに心が集中し、雑念から解放されます。こうお答えになりました。

 ここでまたしても初代総理の説教を思い出します。

「君たちは禅僧が座禅を組むときに無の境地になるといっているが、あの人達が言っているようなこと、クリスチャンたちが神さまの御臨在のまえに自らを置くとき、これがほんとうに神さまのまえに静まるとき、密室を持つということの意味なんだ。だからよく密室のときにいきなり神さまにあのことこのことを願う祈りをするんじゃない。先ず神さまのまえに静まって、この神さまがどういうお方であるかを心に留めなさい。こう指導されたんです。

そういう世界に熟達しているアンドリュー・マーレーという人がいたのですが、この人はテイク・タイムということをしばしば言っております。神さまの前に祈るときに、直ぐに何かをしてくださいと祈るのではなく、もっというなら、神さまを誉め称えなさいというのでもなく、先ず聞く。そのために時をとりなさいと。テイク・タイム。詩篇6211で「神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた」とあります。聞くことです。「二度、私はそれを聞いた」というのは、この密室という営みが「6 神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」という確信。今の私たちでいうならば、主の十字架の前に赦された、そして受け入れられ、神さまとの深い交わりの中に満ち足りる。

詩篇6345をご覧ください。

4 それゆえ私は生きているかりぎ、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
5
私のたましいが脂肪と髄に満ち足りるかのように、私のくちびるは喜びにあふれて賛美します。

これは神さまを待ち望んでいるものの心の有り様です。これができるとき、ここに6211「力は、神のもの」12「恵みも、あなたのものです」となるのです。

私が神学校卒業して数年経ったときの年会で、朝比奈寛先生が詩篇62篇から語り、その締めくくりに仰いました。

「私たちの信じている神さまは力の神さま、そして私たちの信じている神さまが恵の神さまであることが私たちのうちに理解され、ほんとうにこの信仰に生きているなら、課題はすでに越えているものです。これはよみがえりの力でしょう。豊かな赦しを与えてくれるお方、力は神のもの。ああ、主よ、憐れみもまた汝のものなり」。

 いま私たちは聖霊を待ち望むペンテコステを前にしているときです。待ち望むということは、ある意味信仰と同じ本質を持っている心の営みであります。主を待ち望む者でありましょう。

※この説教の聖日は10時から地域の会合があり礼拝は欠席しましたが、CDから起こし書かせていただきました。聞き間違いがある場合もございますが、お気づきの点がありましたならご指摘ください。文責:中ぶんな

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きょうのことばー『待ち望む信仰』ーその1-

2012422()インマヌエル盛岡キリスト教会(0196462924)國光勝美牧師の説教をお伝えします。

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説教題『待ち望む信仰』

聖書引証 詩篇62:1~12

1 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。
2
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。
3
おまえたちは、いつまでひとりの人を襲うのか。おまえたちはこぞって打ち殺そうとしている。あたかも、傾いた城壁が、ぐらつく石垣のように。
4
まことに、彼らは彼を高い地位から突き落とそうとたくらんでいる。彼らは偽りを好み、口では祝福し、心の中ではのろう。セラ
5
私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。
6
神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。
7
私の救いと、私の栄光は、神にかかっている。私の力の岩と避け所は、神のうちにある。
8
民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ
9
まことに、身分の低い人々は、むなしく、高い人々は、偽りだ。はかりにかけると、彼らは上に上がる。彼らを合わせても、息より軽い。
10
圧制にたよるな。略奪にむなしい望みをかけるな。富がふえても、それに心を留めるな。
11
神は、一度告げられた。二度、私はそれを聞いた。力は、神のものであることを。
12
主よ。恵みも、あなたのものです。あなたは、そのしわざに応じて、人に報いられます。

【説教】

 私たちはいまペンテコステ、聖霊降臨を記念する日を待ち望みながら歩んでおりますが、この待ち望むということに心を向けながら、みことばからの恵をいただこうとしているところでございます。

きょうお開きしました詩篇62篇、これはダビデが命の危機に瀕したときに書いたものです。彼は自分の息子アブシャロムのクーデターに遭いました。あわや王座を奪われかけたのです。アブシャロムにはアムノンという腹違いの兄がいたのですが、アムノンが自分の妹を辱めたのに対し、父であるダビデはアムノンの犯した罪に中途半端な対処しかできなかった。アブシャロムは激怒しアムノンを殺してしまうのですが、それに対してもダビデの敢然とした対応はなかった。ダビデが毅然と処罰できないのは、実は名君といわれたダビデ自信も重大な過ちを犯したことがあった。忠実な家臣ウリヤの妻バテシバを奪い、ウリヤを意図的に戦死させてしまった事件があった。聖書はこのような事をも赤裸々に記しています。

 アブシャロムはダビデを王座から追うために4年かけて周到に準備をします。巷にもダビデの盟友にも今の執政がいかに妥当を欠くかを浸透させていきました。盟友たちはダビデから離れ去り、彼はついにエルサレムを捨て、ヨルダン川を渡り、荒野に身を潜めなければならなくなった。この詩篇62篇はそのときの心の有り様をそのまま述べたものでしょう。しかし苦境に立たされたとはいえ、ダビデは歴戦の器です。それに対しアブシャロムは、戦略的には稚拙であったかもしれません。このとき、戦いを左右するほどの名参謀アヒトペルはアブシャロムに加担していました。アヒトペルは多くの血を流さずとも即刻、今すぐにダビデ一人を討ち取れば片が付くと進言します。ここにアヒトペルにも並ぶ名参謀フシャイがおりました。実はフシャイはダビデに通じておりダビデに敵側の情報を知らせていた。フシャイはアヒトペルの進言が実行されたなら万事休すと思ったかアブシャロムに別な進言をします。「イスラエル中に使いを出してすべての部族から兵隊を召集し、あなたが先頭にたってダビデの一党を討ち滅ぼしてこそ、あなたの王国は揺るぎないよきものになる」と。それに対しアヒトペルは、大軍を集めているあいだにダビデは戦術を整えるだろう、そんな時間を与えずに今すぐ打つべきと主張。ここでフシャイもろが引かず、あなたが先頭にたって王座を確定するべきだと勧める。そしてアブシャロムはフシャイの進言を容れてしまいます。アヒトペルはここでもう終わったと自ら命を絶ってしまいます。

 このダビデの大ピンチの結果はどうだったでしょう。アブシャロムは荒野の木々のあいだに潜むダビデを捕まえようとラバに乗って駆けていたところが、彼の自慢の髪の毛が木の枝に引っかかり、彼は木に宙づりになり殺されてしまいます。そしてダビデがわが子のために喪に服することになりました。

 きょうの詩篇62篇で神さまから何をレッスン、示しとしていただいているでしょうか。ポイントはひとつ、「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」、このことです。

 いったいダビデがどのような状況のときにこの詩篇にあるような成り行きを経験したのか、私たち一人一人が置かれている状況に合わせてみようではありませんか。ダビデがそうであったように自分にも過ちがあった。置かれている状況が或いはそこからくるところの結果であるかもしれない。それにしてもこれまでは自分の理解者だと思っていた仲間たちが、一緒に神さまを礼拝していた人々が、あろうことかこっそりと自分を裏切り突き落とそうとしている、このような経験をされた方は決して少なくはないでしょう。それがもし自分だったならいったいどのように心が動くでしょうか。「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る」と神さまにぴちっと心を合わせることができるでしょうか。もしできないとしたら、どうしたらよいのでしょう。魂を黙らせる、静まらせるのは容易なことではありません。あの人の誤解を解くにはこうしたらいいのか、ああしたらいいのか。いま自分はここにいるよりもあそこに行った方がいいのか等々。「ただ黙って神を待ち望む」ことは言葉では簡単ですが、一旦ダビデの立場に立ったときにはどうでしょう。

 ここで私たちはダビデがどのようにしてこのところを乗り越えていったかを、きょう恵として受け取らなければならないと思うのです。

 詩篇622に「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私は決して、ゆるがされない。」という訳があります。文語訳ですと「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」。新改訳は「私は決して、ゆるがされない」。新共同訳でも「私は決して、ゆるがされない」。これらの訳のうち、私は文語訳の「我いたくは動かされじ」に思いが残ります。

 初代総理(初代代表)がここから説教されたことがあります。5節に「 私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。」とあり、そのあと6節に「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。」とあります。

 この2節の新改訳では「私は決して、ゆるがされない」、文語訳では「我いたくは動かされじ」と。その「我いたくは動かされじ」と文語訳でいうのならば、6節のところに「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない」とあり、ここに「いたくは」とは書いていないのです。その印象、思いの中に、ダビデは621わがたましひは黙してただ神をまつ」とその苦境の中、しかしそのとき、まだ最初のうちは「我いたくは動かされじ」。ですから多少まだこうであれば動いた、だがやがて「神こそはわが磐わがすくひなれ またわが高き櫓にしあれば我いたくは動かされじ」とずっと神の前に思い巡らしているうちにやがて6節にあるように「我はうごかされじ」とこのように彼の心はしだいに神の前に動かされなくなった、このことが心の中に深くあるものですからご紹介させていただいたわけです。

       ―つづくー

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さあさお茶っこおあげんせ

前を進むは友だちふたり。散歩コースは友だちんち辺り

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こんな樹にもお目にかかり

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こんな樹にもごあいさつ

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桜さくらの並木道

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お茶に招くは友だちんちの猫
「足も疲れやんしたべ。喉も渇いでやんすべ。さあさお茶っこおあげんせ」

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植え替え

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 昨年種子を取っておいたユリ科のアガパンサス20粒を16個の種苗用ポットに植えてみた。花が咲くまで5、6年はかかるということで、これまでやってみる気にはなれなかった。毎年株が大きくなるので株分けしたほうが手っ取り早い。しかしほんとうに種から芽がでるものかどうを見てみたくなったのだ。発芽率はわからないが10株、いや8株、いや3株でもいい、育ってくれたならどんなに愉快だろうか。種から芽吹いたばかりの状態は見たことがないので、いまのところ稲が芽を出したときのような葉っぱの形を想像している。

 ヒガンバナ科のアガパンサスの株が大きくなったので、4つに株分けして土壌改良した区画に植え直した。一口にアガパンサスといっても、系統分類学上の分類の仕方もあるようだが、花の形状から手持ちの二種を私はユリ科、ヒガンバナ科と区別している。

 スナックエンドウの前列にトマト計画を。苗はまだ手に入れていないので、空けておき、その前列にというか、その前のスペースを二分し、片側に二十日大根、もう片側には春菊を播く。トマトの桃太郎品種を種でやってみているが、どの程度発芽し何時定植できるかはあやふや。恐らく説明書き通りにはいかないだろう。

 けっこう日差しの強かった午前中はこうして家庭菜園で汗を流す。午後は説教の起こし。

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 沈丁花のよい香りがしている。まとまりのない庭にさりげなく潤いの空間を作ってくれている。

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 そしてニョイスミレだろうか

 花を一旦掘り起こして、何度もよく耕して肥料を混ぜ込んでまた植え直す、今年はこれを繰り返そう。いまある花たち野菜たち樹木たちが、ここの土に空気に光に風に安んじてのびのびと今年の命を精一杯力強く全うできるように手を貸し、労力を注ぎ込み、見守りたい。

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ことしも白い姫踊り子草

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 塀の内側に白い姫踊り子草が出現しているのに気づいたのは一昨年のことだったと思う。ふつう花の色は明るい赤紫色、白い花を見ることは滅多にない。突然変異などで出ることがあるらしい。そんなわけで一昨年も恐らく今回限りと写真にその姿を留めたのみだった。来年はもう出ないだろう、この写真一枚で十分と思っていた。そしてやはり翌年にその辺りを探したが白はなかった。ところが今年になって塀の出入り口の前に咲いているのに気づいた。ようこそ白い姫踊り子草。

 きょうは裏庭の小さな畑に苗を植えた。キュウリ2本。つるありインゲン2本。そして前庭の小さな花壇の一角にパセリ2株。それからフラワーポット4つにペチュニヤやベゴニアを植え込む。近頃はなぜか珍しい花に心が動かなくなった。むしろ写真の白い姫踊り子草のようなもののほうがよほど新鮮だ。ことしも出現してくれたことに感謝する。

     ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは11時近くにmaruseiさんに立ち寄った。大島紬に難なく身を包んだmaruseiさんには、う~んと唸ってしまった。帯は亡きお姑さんのものだという。ここはカメラだと取り出そうとし、はたと忘れて来たことに気づく。取りあえずは喫茶ママへ。七宝はハヤチネウスユキソウをモチーフとした北欧も感じさせる作品群。そして桜のモチーフ、これはmaruseiさんのブログで。 コーヒー片手におふたりの話に耳を傾け、帰宅は12時半だった。


 

 

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きょうのよき日

 きょうは午後から春子谷地に行ってきました。
春子谷地には、岩手山の南東にある鞍掛山の伏流水によってできた湿原があり、水芭蕉が群生しています。

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 國光牧師夫妻と教会の姉妹

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 ひろ子牧師と姉妹

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第41回盛岡芸術祭管弦楽部門「春のコンサート」 ーシンフォニエッタ・盛岡ー2012年5月19日(土)18時開演 マリオス小ホール

 桜はまだかなと見上げては通りを行き来していたところ、きょうやっと夕刻のTVに開花ニュースが入った。盛岡地方気象台の桜の標本木は盛岡城跡公園内にある。去年は4月20日の開花だった。感覚的には2週間も遅れているのではと思っていた。「春よこい、早くこい」がいつしか「遅い、遅い」となっていたが、実際には去年よりたった4日遅れ。いよいよ盛岡のそちこちの公園、校庭、公民館、街路にはわくわくと桜雲がわく。これで5月への弾みもついた。5月はシンフォニエッタ・盛岡の春のコンサートです。

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          ♪プログラム♪

モーツァルト   :交響曲第5番変ロ長調K22
           オペラ「皇帝ティートの慈悲」序曲
フォーレ     :劇音楽「マスクとベルガマスク」抜粋
佐藤公治編曲集:「岩手の歌メドレー(仮)」
           「涙のトッカータ」ほか


 

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わが家の花事情ー生きててくれてありがとう!!-

 いま外は雨がふっている。きょうは終日小雨がぱらついていた。買い込んだ土はミニばらの鉢植の植え替えに使ってしまい、ベゴニヤやビオラのためにはまた準備しなければならない。
 庭の花事情はこの春の足踏みでどうなっているのか。ムスカリはまだ蕾らしき粒 が底に見えているだけ。もっとも日陰という好まない位置にひたすら忍従しているわけで、そうすんなりと咲いて見せるわけにもいかないのだろう。さすがに福寿草とクロッカスだけは真っ先に賑わいを見せていまは咲き疲れてげんなりとしている。けれどももう咲き出でるばかりとスタートラインで足踏みをしているものたち。日の光がまっしぐらにさして、さあ弓を引こう、笛を吹こう、弦をかき鳴らそうと振り下ろされるタクトを待っているものたち。

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 そして気まぐれな空模様をみてはタイミングよく光をあびて咲いた花たち。

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 がんばった蕾のままでありがとう! せいいっぱい咲いたね そのままありがとう! 咲き終えて疲れしおれて そのままで みんなみんなありがとう! 生きててくれてありがとう!!

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きょうのことばー『主イエスを待ち望む』

 2012415日インマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教をお届けします。

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説教題『主イエスを待ち望む』

聖書引証 使徒の働き1:3~5

3 イエスは苦しみを受けた後、四十日の間、彼らに現れて、神の国のことを語り、数多くの確かな証拠をもって、ご自分が生きていることを使徒たちに示された。
4
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
5
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」

 過ぐる聖日(48)にはイースター礼拝をともに守らせていただきました。そして幸いな愛餐のあとで教会の墓地を中心に天に帰られた兄弟姉妹の墓前に参り、お花を飾り讃美歌を歌い、亡き方々を偲ぶとともに私たちの信仰をいよいよ新たにさせていただきました。当日は麗しい好天に恵まれましたが、その翌日は随分と寒くなりまして、これが一日ずれなくて良かったと帰宅してから家内と喜びあったことでした。

 教会の庭の根雪が解けましたのは41日。真っ先に教会の庭に咲く花を楽しみにしていたところ、ちょうどイースターのときに福寿草が咲き春を実感したことでした。

 このように私たちは春を待ち望みましたけれども、私たちが何よりも待ち望んでおりますのは、引証聖句にございます「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」とあるこのことです。まもなくペンテコステ。いまはこのペンテコステを待ち望むときです。きょうはこの「待ち望む」ということに焦点を合わせてみましょう。

 第一ペテロ121をお開きします。

21 あなたがたは、死者の中からこのキリストをよみがえらせて彼に栄光を与えられた神を、キリストによって信じる人々です。このようにして、あなたがたの信仰と希望は神にかかっているのです。

 ここにありますように、私たちはよみがえられたイエスさま、そして彼に栄光を与えられた神を、復活されたイエスさまによって信じる者たちです。だから私たちの信仰と希望は神にかかっている。このことを先ず覚えましょう。

 「らみい」という月刊児童伝道マンガ雑誌があります。これを教会学校に来ているMちゃんがとても楽しみにしています。「百万人の福音」とともにずっとある書店から取り寄せておりました。ところがどういう事情でか届くべき月に届かないのです。Mちゃんが指定されているファイルの置き場所を見ては、「先生、まだ来ていない」とがっかりするのです。私は意を決しその書店から取るのを止めました。4月からは入荷した時点で連絡をくれ遅れのない書店にお願いしています。書店の側の都合はどうであれ、一ヶ月遅れは雑誌の記事には致命的です。子どもには子どもの待ち望みもあります。

私たちは神さまをどのように待ち望んでいるでしょうか。

「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」「もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるから」

あのペンテコステという大きなできごとの前に、弟子たちはどんな想いをもってこの約束を待っていたことか。それは命がけの切実な待ち望み方でした。

詩篇63篇をみなさんでお読みしましょう。

1 神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

 これはこの詩篇を書いたダビデの渇いた心の状態そのままです。私たちは日曜毎に礼拝に集いますが、果たしてどのような想いでこの日を待っているでしょう。いつの間にか待ち望む真剣さ切実さが失われてはいませんか。さまざまな事情を引き合いに出して、まあ仕方ないじゃないかと済ませてしまってはいませんか。これは待ち望む姿勢ではありません。警戒を与えられることです。切実に待ち望む心をもって日曜毎に神さまに出会い主を礼拝するべきところを、神さまに何も期待するところなく惰性で神さまの前に出てはいませんか。

 私の失敗談もお話しましょう。夏の岩手山登山のときのことです。私は水を3本準備しました。一本は登り用、1本は昼食用、一本は下り用です。早朝登山前に車の中で朝食を食べました。その時に一本の水の蓋を取ってすこし飲み、あとは残しておきました。予定通りに登りはじめ途中で1本を飲み、頂上での昼食に1本飲みました。さていよいよ下山となり途中で喉が渇いて飲もうとしたところ水がありません。やっと入れ忘れたことに気づきました。もう下りはじめたときから喉は渇いていたのです。乾ききったところで飲もうとしたところが無かった。もう、猛烈な喉の渇きでした。下りながら妄想が浮かんで来るんです。自販機のコカ・コーラを飲んでいる自分の姿です。妄想にふらふらしながらやっと車にたどり着くと、蓋が開いたペットボトルが中で熱くなっていました。私はこれを思い出すたびに、いまでも詩篇23篇が頭の中を回り始めます。渇くとはこういうことなのですが、私たちが神さまをまっているときに切実なる渇きがあるでしょうか。私はここに信仰の実質があるように思います。

詩篇130:5に「 私はを待ち望みます。私のたましいは、待ち望みます。私は主のみことばを待ちます」とあるように、私たちが神さまを待ち望むときにはみことばを待ち望みます。

詩篇631
1
神よ。あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない、砂漠の衰え果てた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたを慕って気を失うばかりです。

8 私のたましいは、あなたにすがり、あなたの右の手は、私をささえてくださいます。

この8節にある「すがり」の意味は、もっと切迫した「すがりつく」という言葉が使われています。私の魂は神さまにすがりつき、そして神さまの力強い御手が私を支えてくださる。それほどまでに、どうぞ神さまに向かって切なる待ち望みをさせていただきたいと思います。

 締めくくりに入りますが、あなたは渇きを感じていますか。渇きを感じるということは、ある意味健康な証拠です。そしてまたよく聞くことですが、若いうちは喉の渇きを自覚して水分を補給することができるのだそうです。ところがお年を召して体力が衰えてきますと自分が渇いているということがなかなか自覚できなくなる。そこで意識して水分補給を水分補給を心がけるのだそうです。

 私たちは一日のうちどれだけ渇いて主を待ち望んでいますか。どれだけ渇いて朝に神さまの前にみことばを慕い求めているでしょうか。詩篇63篇にあるダビデのように神さま無しではやっていけないというまでのこの渇きをもって主を待ち望んで、折あるごとに主に祈りすがりついて、主の力強い右の手に支えられて一日を歩むことができるようにと心から思うことであります。

※編集上割愛した部分がございます。写真は教会堂。そして礼拝を終え帰られるS兄弟と見送っていらっしゃるのは國光ひろ子牧師です。文責:中ぶんな

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いのちの躍動

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 きょうは一日静養。昼近くに耳鼻科、眼科で花粉症対応の処方を受ける。
PCに向かい、ほっとする景色の写真はと選びだそうとするがなかなか。松園墓園からの岩手山の写真をやっと一枚。

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 フクジュソウ

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 ヒメオドリコソウ

 夕方庭に出ると涼しい風が心地よかった。神を知ろうとして聖書を読み教会に行くもよし、けれども身の回りのささやかなものに目を凝らし耳を澄ますとそこにある草にも花にも神さまの現れがある。咲きはじめた水仙。そろそろ咲きそうなチューリップ。それを見出すのには立派な見栄えのする花ではなくともいい。むしろ目立たない小さなひとつひとつにそれは表されている。

 


 

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大信田時子人物画展6 2012/5/1(火)~5/15 (火)画廊喫茶ママ(盛岡市本町通り)

 昨日わたしが一日がかりの検査のために病院に行っているあいだに、友だちが玄関先にそっと置いていってくれた椿です。その方はそうとは知らずに置いてくださったのですが、わたしはこれを見たとき、天からのお見舞いだとすっかり嬉しくなりました。きょうになってその方が庭先に来られ、これが大船渡市三陸町越喜来の椿であることを知りました。被災地にもたしかに春が来ている。ほんとうに嬉しかった。誰もがどんなにこの春を待ちわびたことでしょうか。

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 つぎは絵画展のお知らせです。時子さん宅にお邪魔すると必ずイーゼルには描きかけのキャンバスが置かれています。家事、ガーデニング、所用などの合間にこまめに創作に打ち込んでおられます。どうぞご覧ください。

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わたしが生きるので

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 「きょうはちょっと疲れたな。さ、疲れたのできょうのブログはお休みにしますと一行だけ書こうっと」。こういって二階への階段を上ろうとしたとき、

わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。

 このことばがすとんと心に落ちてきた。イエスさまのおことばだ。わたしはいま復活の命に生きている。だからあなたも生きている。疲れていてけっこう。あなたはいま生きている。主はこのように仰っていると思った。

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文集『葡萄樹』ー特集・私と讃美歌ー2012(平成24)年4月インマヌエル盛岡キリスト教会刊行

 インマヌエル盛岡キリスト教会では毎年一回、文集『葡萄樹』を発行しています。今回は「特集・私と讃美歌」と題し、2012(平成24)年4月に刊行されました。企画、編集、装幀は國光牧師夫妻です。

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 私は、自分が癒される讃美歌として『アメイジング・グレイス』を取上げました。

 「東北・希望の祭典」の中で新垣勉さんが歌われたアメイジング・グレイスは神の御前にもすばらしい捧げものであり三日間の入場者11、000人余の聴衆にとっても徹頭徹尾そのまま受け入れられた讃美であったと思う。新垣さんのタラントの大きさを得心したひと時でもあった。
 またこの曲のもつ霊妙さを想う。これまで幾度か書いたこともあるが、この曲が聞こえるところは何処でも、たとえそれが駅のホームであれ、バスの中で迂闊に鳴った携帯の着信メロディーであれ、売り出しのデパートの雑踏の中で聞こえたそれであれ、流れる場所の空気が一変するのだ。懐かしさ、温かさに心が癒される。まして神への讃美として教会の兄弟姉妹方によって歌われるアメイジング・グレイスに心洗われるのは当然のことである。
 朝は爽やかであるという方々もあるが、必ずしもそうではない場合もある。時としてマイナスな想いが脳内に押し寄せ、或いはそれに苦しめられることもある。これは良からぬ司どもが、精神、脳内が解放されている明け方という間隙を狙って忍び込んでくるのかとも思われる。しかし、そのような時に、御聖霊さまが、まるでそれを救うかのように、このアメイジング・グレイスを脳内に流してくださることがある。そして靄が晴れるのだ。


アメージング・グレース
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる
道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる


 この曲、この歌詞こそは、神がご自分の愛と恵とを誰にでも理屈なしにわかるように、人類に、このような私にもお与えくださった不思議な魂の曲であると思う。

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美しい田園風景

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河川敷の窪みに川からあふれた雪解け水が流れ込んでいます。花巻に住んでいたとき、最初の住居から東北自動車道に架けられた橋を渡ると広々とした田圃が広がっていたのを思いだしました。春先に水が満たされたときの景観はそれはすばらしいものでした。田は水の面に青空を映しその底を雲が悠然と流れるのです。からりと並んだ早苗が水面に風に揺れるさまも心安まる景観です。しかし、1年暮し、2年暮らすうちに、春になっても水が入らない田が増え、そして7年を経る頃には目に見えて休耕地が幅を利かせ、タンポポが群生するようになりました。田が畑となったところもあります。耕作が放棄された田畑もありました。数年で簡単に荒れ地になってしまうのです。

 いまの住居の近く、隣接する町内にも小さな田圃が残っていて、宅地化に抵抗するかに稲を作っていましたが、ついにこのところも昨年宅地となり、田圃を見るためには盛岡市の郊外に行かなければ見ることができなくなりました。

 TPP参加となれば、米生産は90パーセント無くなるそうです。米も除外は困難だということでした。食糧自給率も深刻ですが、水田耕作が創り出す豊かな景観が次々になくなってしまうと思うと残念でなりません。数十年後に上空から地上を見たならば、果たしてそこにはいったいどんな光景が広がっているのでしょうか。 

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きょうのことば『復活された主イエス』ーイースター講壇ー

 先週はイースターでした。1週間遅れではありますが、きょうその説教をお伝えいたします。

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 201248日インマヌエル盛岡キリスト教会(℡0196462924)國光勝美牧師の説教です。

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説教題『復活された主イエス』ーイースター講壇ー

聖書引証 ルカ伝24112

1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着いた。
2
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
3
入って見ると、主イエスのからだはなかった。
4
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふたりの人が、女たちの近くに来た。
5
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
6
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。
7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
8
女たちはイエスのみことばを思い出した。
9
そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告した。
10
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
11
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用しなかった。
12
〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだところ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕

先週は強風が吹き荒れ降雪にも見舞われましたが、今日は晴天にも恵まれ、ようやく春らしい中でイースターを迎えるときが来たなと思うことでございます。

この礼拝が終わりましたら、午後に有志の方々と、かつてともに信仰生活を送った方々のお墓に参ります。何カ所かございますが、穴口の墓地、私どもの教会の墓地であります松園公園墓地、新庄墓園の順に多くの方々とともに行くことができたなら嬉しく思います。

 それではきょうはルカ伝24章から、復活された主イエスさまのお話をさせていただきます。

1、神さまからのお知らせ

 先ずこれが神さまからのお知らせであったことに心を向けましよう。

5 恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あなたがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
6
ここにはおられません。よみがえられたのです。

復活は人間の作り話ではなく神さまからのメッセージです。私たちはお墓に行きます。数年前に「千の風になって」という歌がヒットしました。これはアメリカのインディアンが歌っていた詩を荒井満が訳詩・作曲したものです。慰めになります。しかし復活はそれとは違います。このイエスさまの復活が私たちにとってどんな意味があるのか。

スペースシャトルが何回も発射されました。打ち上げられるロケットに飛行機の形をしたシャトルが一緒に打ち上げられる。ロケットは切り離され、シャトルが使命を果たしてまた地上に帰ってくる、あの場面を思い起こしながら、私たちもシャトルのようだと思います。イエスさまがよみがえる。「ここにはおられません。よみがえられたのです」とございます。そこに私たちはシャトルのように信仰をもって結び合わされている。だからこそイエスさまの復活がいまの私たちの大きな励ましとなり約束となり保障となっているのです。

 2、神のご計画

6…まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。
7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
 これは神さまの強い意志、或いは確かなご計画の中になされている。謂わんとするところは、これが単なる成り行きで起ったことではない。これはむしろ綿密に企画され、そして遂行されている中でイエス・キリストの復活が為されている。「よみがえらなければならない」。神さまのいとなみに偶然はないはずです。私たちは今日の午後に墓園を回ろうとしておりますが、すでに天に帰られた方々、そしてそこを回ろうとしている私たちも偶然の結果としてここにいるのではない。神さまの深いご摂理の中に、ご計画の中にいま私たちはこのように集められて主の復活、イースターを喜んでいる。このことを併せて思うことでございます。

3、みことばの保障

6 ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話になったことを思い出しなさい。
7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。」
8
女たちはイエスのみことばを思い出した。

 「イエスのおことばを思い出した。」

 「お話になったことを思い出しなさい。」

 「そして女達はイエスのおことばを思い出した。」

同じくルカ244548

45 そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、
46
こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、

47 その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。
48
あなたがたは、これらのことの証人です。

「あなたがたはこれらのことの証人です」。このおことばが、私たちが復活を信じるいちばんの土台になっています。聖書にはこのように記されていることを私たちはしっかりと握りましょう。それによって福音が人々にのべ伝えられていくのです。どうか確かにみことばにつながった信仰生活を送らせていただきたいものです。そしてそれが福音のはじまりであります。

※この他に、プロジェクターを用いて天に召された方々のお墓の墓碑銘、故人の紹介、或いは地図、写真の解説がなされておりますが、割愛してございます。一、二枚目の写真はインマヌエル盛岡キリスト教会の墓地、三枚目の写真はひろ子牧師のフラワーアレンジメントです。きょうは午後から墓参があるために短いメッセージでした。文責:中ぶんな



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カメラ片手に

 ブログに載せる写真がなくなり、散歩がてらカメラ片手にでかけてきました。

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久方ぶりのパーティー

 きょうは「高橋克彦さん日本ミステリー文学大賞受賞を祝う会」に参加させていただいた。参加者が500人かとも聞き、それでは埋没しにでかけようかとグランドホテルまで主人に送ってもらった。その他大勢の頭数となるのもそう悪くはない。とはいうものの頭数若干1名ということなのだが。ざっと300人ぐらいかと見たが、明日記事になるとしたら何人と出るものやら。
 岩手日報社三浦社長の発起人代表挨拶。高橋克彦さんのほんとうは辞退したかったが岩手のみなさんがもたらしてくれた賞である、賞金300万にもすこし心動かされたとの挨拶。また参加者の会費の一部が義援金として寄附された。歌手弘田三枝子さんも登場。
 第一部では高校の時の恩師佐々木エツ子先生が「ここにすわりなさい」と。ラッキーでした。やはり学校で一度でも教えていただいた方には「さん」付けとはならないこのふしぎ。左席には新渡戸関係の藤井茂さん、ご挨拶。第二部で乾杯、祝辞はないと聞き拍手拍手拍手。エツ子先生と美味しそうなご馳走を前に「さあいただきましょうよ」と小皿に山盛りに取り分ける。ステージでは何やら次々に祝いの音楽が。後ろに陣地を構えてみると何とか聞こえはしてもほとんど見えず。やがてエツ子先生にはどこぞのご婦人がご挨拶に。私は別のところに入り知り合ったのが何と岩手県弦楽研究会副会長のKさんだった。これも神さまのお導き。わらび座にヴァイオリンを教えに行ったときのお話を伺った。遠くには北の文学などでお目に掛かる作家の方々も見えていた。プロの先生方はもはや敷居が高く、ご挨拶も遠慮させていただいた。及川先生が話題となり、「村長ありき」を書かれたのはこちらとKさんをご案内。しているうちにエッセイストで北の文学を長らくお世話下さった工藤なほみさんといまSFマガジンに光瀬龍の評伝を連載している立川さんがお近くに。紹介がてらご挨拶。そして第57号北の文学受賞者の菅原裕紀さん。頑張っておられるようだ。
 すこし疲れをおぼえていたところ、Kさんも帰るとのこと。Kさんが自宅まで送ってくださるという。これもほんとうにラッキーだった。8時帰宅。お腹の隙間を炊き込みご飯でなだめすかし後片付けとブログ書きできょうはどんと晴れ。

 

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輝く野菜たちへのオマージューTPP反対!ー

きょうはすばらしい青空が広がった。裏庭の小さな野菜畑に石灰をたっぷりと撒いておいた。野菜を作ろう。こう背伸びしてみても、せいぜい苗を確保したスナックエンドウ4本、5月になったらトマトの苗6本、ピーマンの苗3本ばかりを買い込む。そして小松菜、二十日大根の種を播く。これだけで手一杯だ。今年になって野菜だ、野菜だと気持が急くのも、放射能がやはり気になっているのと、TPP(環太平洋連携協定)が頭にこびりつき、猫の額の土に望みをかけたところでどうなるものでもないと知りつつ、食料はいったいどうなるかの不安にせめてもの対策、対策にもならない対策だけれども、対策をとったつもりになりたい、そんな程度のことではある。

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 TPPに参加すると、農林水産物の関税は無くなり、輸出大国アメリカ、オーストラリアから米、乳製品がなだれ込む。米生産は90パーセントが無くなり、食料自給率は40パーセントから13パーセントにダウン。農林水産業の壊滅で食品加工、流通販売など関連産業への影響で約350万人の失業者が出る。地域経済は破壊され、農山村が維持できず、森林整備ができず、山は荒れ放題、環境破壊が加速する。異常気象で世界的な旱魃が起きた場合、穀物不足、価格高騰で輸入できなくなったときにはすでに耕作地がなくなっている。朝ドラで終戦直後食べ物が無く、農家に買い出しに行っているが、その買い出しに行く農家さえ無くなってしまうのだ。
 全品目で関税が無くなれば、繊維、皮革、履物分野にも外国産が大量に入る。金融、保険、医療に外国企業が参入。日本医師会は「TPPへの参加によって日本の医療に市場原理主義が持ち込まれ、最終的には国民皆保険の崩壊に繋がりかねない面もある」という見解を発表しているという。

 手狭な畑を耕したところで、米や麦の収穫ができるわけではない。つぶれゆく田畑へのオマージュとして、せめてピカピカのツヤツヤの野菜が自分の目の前に実るさまを見たい、そんな思いで土を耕す。

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天沼三津子第11回 七宝に遊ぶ展 ー喫茶ママ2012/4/16(月)~4/30(月)ー

 ことしの2月に第25回国際七宝・ジュエリーコンテストで奨励賞を受賞した天沼三津子さんが盛岡市本町通りにある喫茶ママで個展を開きます。手間を厭わない丹念な手仕事、春のつまったジュエリーの数々をご覧ください。

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         ☆  ☆  ☆  ☆  ☆

 きょうは一日苦にならない程度の小雨がぱらついていましたが、夕方から道行く人たちが傘を片手にしていました。
 きのうはほんとうにこの不順な天気の間隙にもたらされた好天だったようです。談話室で、口調はゆっくりであるけれども、活き活きとお話をしておられた95歳の三田照子さんの表情が思い出されます。活き活きした表情は年齢の如何を問わず周囲の人々の心を明るくし元気をくれるものだと思いました。

 インドネシア・スマトラ沖地震が東日本大震災のちょうど13ヶ月目のきょう起きている。ふといま一旦資料的なものを漁ったあとにはがらりと口調が変わる自分に気づいたが、それは兎も角、この辺りでは2004年~12年にかけてM7、2~9、1が9回観測されている。きょうはM8、7。2004年が9、1で20万人が犠牲になっている。勿論数字だけで測れない深刻さがどれほどにあることか。私はあのとき、心は痛んだけれども正直まだまだ対岸の火事のような感覚であった。けれども3・11以降は他人事ではない。被害状況が明らかになるのには時間がかかるだろう。

 この雨音を聞くにつけても、このようなときに緊張感を持ちながらも平常心でできる限り明るくいたいものと思う。眉間に皺は周囲の人たちの心をどれほど暗くするかに気づく。それでなくとも不安材料の多いこの頃だ。「できます」と断言できないまでも、せめてそのように心がけよう。

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奇跡的な復活

 きょうは95歳で携帯電話を買い求め人世これからとまもなく著書を出版される三田照子さんを花巻市内の一時入院先までお見舞いに行ってきました。一緒に行ってくださるというT子さんを同行。照子さんは仰いました。「あしたは今日よりももっといい日になる。あさっては明日よりももっといい日になる」と。1時間の歓談。玄関まで送って来られ、昨年12月骨折で入院したとは信じられないお元気さ、奇跡的な復活でした。

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 途中花巻在住のころに賢治関連の行事で葛丸ダム湖畔で仲間達とヴァイオリンを演奏したことを思い出し、葛丸渓流をたどりダム湖を見てきました。

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 以下はわが家の庭の花です。

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立川ゆかりさんの連載4回目「是空の作家光瀬龍」ーSFマガジン5月号〈早川書房〉

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 立川ゆかりさん(「北の文学」出身作家。文芸誌「天気図」編集長。もりおか童話の会会員」) がSFマガジン(早川書房)に「是空の作家・光瀬龍」を連載していますが第4回目となりました。何しろ諸般の事情できょうやっと書店へ。ブログ掲載がすこし遅れましたが是非ご覧ください。

 今回は光瀬龍が1955(昭和30)年の8月15日に飯塚千歳にプロポーズをしたことから稿を起こしています。立川さんは、明日をも知れぬ数々の経験の積み重ねから導き出された千歳への愛とし、その経験とはどのようなものであったかを後述している。
 光瀬の両親は岩手県胆沢郡前沢町の出身。光瀬は1928年北豊島郡南千住町に出生。昭和8年に練馬区南町に転居。小学生だったときに疫痢に罹患。死を免れたが気管支炎を繰り返すなど病弱であった。学年を2年落としている。この療養生活をどのように過ごしたか、どういった傾向の雑誌を愛読していたか、愛唱していたのはどのような趣の曲であったかが述べ、立川さんは、「光瀬作品を言いあらわす言葉に、よく『東洋的無常観』という表現が使われる。この滅びゆく者たちの悲しさやはかなさに魅かれる気持が、作品を書いていく下地になったのではないかと思われる。」としている。
 第二次世界大戦勃発で昭和17年川村学園川村中学校に進学。軍事色の中で光瀬の好むところの情趣は相容れぬものとされる。昭和19、20年の東京大空襲に遭遇。虚実ないまぜの体験談も紹介し、併せてなぜそういえるかの根拠を述べている。以上のような体験の後に千歳と出会った光瀬だったのだ。
 千歳とつき合いだした昭和29年、ふたりの共通項は文学と演劇。よく伊勢丹デパート近くの喫茶店『ぷろばんす』だったようだ。ここで慣れ親しんだ常連客、後に小説のモデルともなった強烈な個性を持った人々のエピソードも興味深い。意外だったのは光瀬が映画評論も書いていたことだ。
 今回個人的に耳が痛かったのは、私は喫茶店が嫌いではない。コーヒーの香りに引き寄せられてしまう。そこに知人が勤めていたりするといよいよ入りやすい。しかし光瀬は『ぷろばんす』に集まる常連についてこう言っている。
「彼らに『生活者』はない。…彼らは先ず『生活者』にならねばならない。『生活者』としての強い人間になって其処から改めて芸術や文学を考えるべきである…」と。恐れ入りました。この部分も面白いので5月号でどうぞご覧下さい。

 それにしても、北の文学の合評会で光瀬先生にお会いしたときには、容易くは近づけない厳格そうな方とお見受けしたのですが、この立川さんの評論中の千歳夫人によると、「女の子の話などいっさいせず飲み歩くこともない、非常に真面目な男性と感じていた」ということです。

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イースターおめでとう!!

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 日曜日はインマヌエル盛岡キリスト教会(0196462924)國光勝美牧師の説教をおつたえしております。編集の都合上、一週間遅れの掲載です。そこでイースター記念説教は来週となります。きょうは201241日の説教を掲載いたします。

説教題『受難のしもべ』/聖書朗読 マルコ143242

いよいよきょうは棕櫚の聖日、今週はイエスさまの御受難を記念する受難週を歩んでおります。

本題に入ります前に、弟67次年会におきまして十和田教会の異動がございました。先週は急遽ひろ子先生が十和田に行き、今度着任される先生を迎える準備の講壇を守ったことでございます。そして別な日に、私どもが新任のお二人の先生方と滝沢SAで待ち合わせまして、十和田教会にご案内しました。主任牧師古川恵子先生(宇都宮教会出身・神学院・高津)と西沢多恵先生(木更津教会出身・新卒)です。十和田教会は1015分から礼拝が始まりますので、ちょうどいま古川先生が講壇で御用をしておられるでしょう。

きょうはこの盛岡教会では、T兄弟の甥御さんの御葬儀、或いはいま一人のT兄弟姉妹の息子さんの職場に関すること、またSご夫妻がご都合がつかずといつもご一緒に礼拝を守っている方々が欠席となっておりますが、今朝神さまは大湊教会のS兄弟をここにお送りくださいました。

 きょうはマルコ伝(マルコの福音書)から主にお話しますが、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ伝の四福音書には、共通して書かれている記事が多くございます。イエスさまのゲッセマネの園での祈りもその一つです。この箇所をマタイ、マルコ、ルカの3福音書から挙げてみます。

マタイ26

36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」
37
それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。
38
そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」
39
それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
40
それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。
41
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
42
イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」
43
イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

マルコ14

32 ゲツセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」
33
そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。
34
そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」
35
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、
36
またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
37
それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目を覚ましていることができなかったのか。
38
誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
39
イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。
40
そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。

ルカ伝22

39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
40
いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われた。
41
そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
42
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
43
すると、御使いが天からイエスに現れて、イエスを力づけた。
44
イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
45
イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
46
それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
 

 ルカ伝2239には「いつものように」とあります。私たちは何か特別な課題があるときには特に熱心に祈ります。しかしイエスさまは、いつもゲッセマネという場所で、いつものように祈られる。この「いつものように」に質されます。現代のように顔や行動が逐一メディアで流されるなら、イエスさまがどこで何をしているのかはすぐに突き止めることができる。しかし2000年の昔です。それでもユダはイエスさまが何処にいるかを知り捕まえようとする兵を速やかに案内できた。イエスさまは十字架という大きなできごとを前にして尚いつものようにいつものところで祈っておられた。いま私たちの祈りはどう位置づけられているでしょうか。「いつものところ」が設けられているでしょうか。 

 マタイ2637に「イエスは悲しみもだえ始められた」とあります。またマルコ1433「イエスは深く恐れもだえ始められた」。マルコ1434には「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」とあります。あのイエスさまが「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです」と仰った。これまで父なる神さまの御愛を一身に受け、その御意を行うことをよろこびとされていた。それがいまつゆ知らない人の罪を背負わされ十字架に架けられ裁かれなければならないという役目が目前に迫っている。イエスさまが「深く恐れもだえ始められた」その心境、意味を知ることができるように思います。

「地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように」。主はどれほどの思いをもって訴え祈られたことでしょうか。

「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」

 みなさんはこの祈りができますか。ほんとうに神さまの願っているようにしてください、すべて従います、自分の願いではなくあなたの御意がこの身になりますようにと祈ることができますか。この部分だけはわたしの思い通りにさせてくださいと除外している部分はないでしょうか。だってこれは、だってあれはと色々と理由をつけてはいませんか。好都合な理由はいくらでもつけられる。

 私はここでやはり自らを糺します。すると引っかかるものがある。しかし「すべて私の願うところではなくあなたの御心のままをなさってください」、これに100パーセント、アーメンと言い切ることができたなら、イエスさまに従って行く者として相応しいと言えるのではないでしょうか。もしそう祈り得なかったとしたらそれは何なのか。確かに100パーセントアーメンと言い切るのは容易なことではありません。ルカ伝を見ますと天の御使いたちが現れてイエスさまを力づけています。イエスさまでさえ苦しみ悶えながら祈られた。しかしここをクリアできるかどうか、信仰生活の分岐点はここにあります。

 ルカ2246「誘惑に陥らないように祈っていなさい」。私たちの信仰生活、祈りの中で、いえイエスさまのゲッセマネの祈りのときにさえも、悪魔は十字架から遠ざけようと熾烈に戦いを挑んできます。この杯をあなたがのむ必要はない、あなたは何一つ悪いことはしていないと悪魔は隙をねらっています。無理することはない、そこそこにやっておけばいいと囁きます。ここに登場する弟子たちにしても、一生懸命イエスさまに従いたいのです。しかし心は燃えていても弱さがある。悪魔はさまざまな手を尽くして私たちを誘惑してくることがわかります。

 第一ペテロ5:89 

 8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。
9
堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

 あのゲッセマネでイエスさまの祈りを目撃していたペテロがここで「目をさましていなさい」といっています。あのとき弟子たちは眠ってしまっていた。

 そうです。私たちは目を覚まして悪魔と戦わなければなりません。悪魔はあらゆる手段を尽くして自分の欲するところを選択するように語りかけ誘惑しつづけます。しかしどうか、目を覚まして、イエスさまが悪魔と戦って勝ち得たように私たちもこの誘惑に打ち勝って神さまの御意に従いゆく在り方を選択させていただきたいと思うのであります。

※先週の復習は割愛しました。写真のイースターエッグとカードは教会からいただいたものです。 文責:中ぶんな




 

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あすはイースター

  いま外を見るとまるい月が冴え冴えと夜空に軌道を確かにしていた。寒い一日。まだ雪の花が咲きそうだ。明日はイースター。主に期待しよう。

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ああ、あれはね ーカルバリの十字架ー

 

 いまは受難週。そしてきょうはイエスさまが十字架に架かられたことを覚える日だ。
初めてのことだが、さっきまで世界の犯罪を検索していた。多くの犯罪が列挙されていた。おそらく多くの方々は、キリストが人類の罪を背負って十字架に架けられたといっても、文化の土壌によっては身近に感じられないのではないかと思われた。人が驚愕するような罪を犯した人々のための十字架であるといえば、案外頷けるものがあるのかもしれない。そしてその連鎖から実はこの私もおなじようなものと言いたかった。この罪人である私のための十字架と言いたかった。しかし読んでいるうちに、犯罪を犯してしまう人たちは、ある意味、飢餓、貧しさにある人々よりもやるせない気の毒さを負っている側面があると感じられた。そのようなことを持ち出すべきではない、そして事例を書くことは止めた。
 誰でも罪を犯す可能性はある。聖書はすべてのものは罪人であるといっている。罪人が罪人を引き合いに出す資格はほんとうはないだろう。これは社会の秩序を守る法の番人を否定していうのではない。
 私はイエスさまが自分の罪を背負って十字架についてくださったことを信じる。だからこの受難週のこの日にイエスさまの十字架に思いを致している。そして感謝している。この他にいったい言うべき何があるだろう。

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最後の晩餐

 日常にも食事の機会はさまざまにある。育つ過程では実の両親や兄弟姉妹との食事。そして就学してからは学校でクラスの全員と食べる給食。中学校、高校は弁当だったがこれもクラスの皆と同じ時間に同じ場所で食べた。遠足、修学旅行、結婚披露宴、法事での食事。高校の帰りに親戚でご馳走になったこともある。職場での昼食。忘年会、新年会。結婚してからは主人と子どもたちとの食事、そして義父、義母、義兄弟姉妹と。また友だちとの食事。教会に行くようになってからは愛餐会があり兄弟姉妹とともに持ち寄りの手料理を食べる機会にも恵まれた。

 Serra - The Last Supper

 この他に食べ物をいただくにしても特別ないただき方があり、小さなパンきれ、パンきれというにもごく小さなものだが、それと葡萄液。これはお腹の足しにはならない。腹をみたすためにいただくものではない。これは嚼みながら飲みながらイエスさまをいただく思いをもっていただく。つまりは儀式として食する。クリスチャンたちと一緒のテーブルで。ただここで重要なのはイエスさまとご一緒にイエスさまの御身体を食させていただくのだ。

 最後の晩餐でイエスさまはイスカリオテのユダが自分を裏切ることをご存じだった。いまここでイエスさまは、おまえはどうだね、と私に仰っておられる。そしてずきりとしたところを悔い改めなさいと仰っておられる。
 いまは受難週。そしてこの木曜日は最後の晩餐の日にあたっている。

 

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心やすかれ

けさ目をさましたときに聖書のことばが浮かんだ。
心やすかれ。
たしかこれはひろ子牧師がイエスさまを信じたときに与えられたおことば、
「子よ心やすかれ、汝の罪ゆるされたり」であったと思う。
10日は國光ひろ子牧師のお誕生日だ。

婦人会でお話くださった讃美歌『朝風静かに吹きて』が思い出された。何とこの作詞者は『アンクル・トムの小屋』の著者ストウ夫人だったのだ。これまで気づかずに歌ってきた。
   

     あさかぜしずかにふきて、 
     小鳥もめさむるとき、
     きよけき朝より清く、、
     うかぶは神のおもい。

     ゆかしき神のおもいに 

     とけゆくわがこころは、
     つゆけき朝のいぶきに
     いきづく野べの花か。

     かがやくとこしえの朝、

        生命にめさむるとき、
     この世のうれいは去りて、
     あおぎみん 神のみかお。

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大荒れ

 列島に台風なみの低気圧。さきほどパトカーのサイレンが駆け抜けていった。雨音で方角はわからない。そして今いっときの小康に雨音が消えている。

シェルターに守られてある心地する友の祈りのうちにしあれば

 遠隔にいる長男は早々と帰宅命令が出たらしい。二男はこの小康のうちに用足しに出たが流石に直ぐ帰宅、いま階段を上る足音が。

 明日は明日の風が吹くなどと言えるのは平穏無事なとき。

気ままには吹いてくれるな風よ風傷む地見なばゆくりそろりと

 そういえば今朝8時頃白鳥が二つに大編成を組んで帰って行った。間をおいて3羽の白鳥が心もと無さそうにそれを追っていた。この低気圧襲来を察したのだろうか。

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雑感短歌

一日のあれもこれもが冗談と思わるる日よエイプリルフール

               spade

また揺れてまたもや揺れて崩れざるこの家は築後34年

               diamond

こっちだよ芽が出ているよほらごらん赤や黄色の花はもうじき

               club

携帯電話買ったと声はずむ友はたしかに95歳

               heart01

また雪に凍えないでねチューリップ春は来ているもうそこにいる

 

 

 

 

                

                 

                 

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きょうのことば 『十字架ーその過去・現在・未来』ー着任礼拝ー

2012年3月25日、インマヌエル盛岡キリスト教会、國光勝美牧師の説教をお届けします。

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説教題 『十字架ーその過去・現在・未来』ー着任礼拝ー

聖書引証 第一コリント118節~25
18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。
19 それは、こう書いてあるからです。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしくする。」
20 知者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の議論家はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21 事実、この世が自分の知恵によって神を知ることがないのは、神の知恵によるのです。それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。
22 ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。
23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
25 なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです

 弟67次年会におきまして引き続き盛岡に任命をいただき、きょう着任礼拝を迎えております。全国のインマヌエルの教役者が新しい任地で講壇にお仕えしていることでございます。私たちはちょうど今、イエスさまの御受難を格別に思う時期を過ごしております。41日は棕櫚の聖日、48日がイースターの記念聖日。つまりその前の金曜日が十字架の日になります。このとき、十字架の御受難に思いを留めるのは相応しいことであろうとこのように思っております。 

十字架、それは私たちにとって基礎中の基礎です。これを生涯わかりつづけていることこそが信仰生活であります。ここでまた「福音の手」を思い起こしましょう。大切なものを握る五本の指。さて親指は「神の愛」でした。大切なものを握るときに親指一本で残りの4本の指を引き受ける、すべてが引き受けられる。それほど大切なものです。人差し指は「私は罪人」です。私たちは往々にして人の欠点を指さしがちです。しかしそれを自分に向けて「私は罪人」であると認めることが大切です。中指は「キリストの十字架」です。福音の中心はキリストの十字架です。神は罪のない方を私たちの罪の代りに罪とされ十字架に架けてくださった。そして薬指、これは握ろうとすると自然におりてくる。この薬指が「信仰」です。「神は愛」、「私は罪人である」、「十字架は私の罪の身代わりである」ということがわかりますと、「イエスさまへの信仰」となるのは自然です。逆に言いますと信仰がわからないという場合には、前にあげた三つのどこかがわかっていないのです。

ここで27年前に亡くなられたT兄弟を思い出します。私どもが年会で上京している間に別な病院に転院されました。同室にはクリスチャンの方が入院しておられました。私がお見舞いに伺ったときにそのクリスチャンの方が、「T兄弟から『過越し』について質問されたがうまく説明できないので先生お願いします」と仰いました。そこで、「その昔エジプトで神さまが全土に裁きをくだすときに、子羊の血を鴨居に塗ってある家は裁かずに通り越してくださった。イスラエルの人たちはみなその中に入っていることによって救われた。それが過越しの意味である。これは動物の血によって人の罪を贖うということを行った。これが何を意味しているか、それは、やがてイエス・キリストという子羊が現れて屠られ血を流し人間の罪の過越しをしてくださる、まことの神の子羊の血を信じてその中にあるものは救われる。信じた者を死の使いたちが通り過ぎてくださる、それが聖書の言っている救いなのです」と説明いたしましたところ、ベッドに正座し黙って聞いておられたT兄弟がしばらくして、「それは自分には必要だ」と仰いました。私が、「その必要だという意味がおわかりになりますか」と訊くと、「わかる、それは俺に必要だ」と。「ということはイエスさまを信じるということですか」。「そうだ」とT兄弟。ほんとうに嬉しいことでした。そして間もなくT兄弟は天に召されました。

 「それは俺に必要だ」。忘れられません。神は愛であってひとり子をこの世に与えてくださったほどにこの世を愛してくださった。自分はほんとうに神の前に罪人だ、このままでは天国にいくことができない。その私のために神の御子キリストがこの世においで下さって十字架に架かってくださった。それは俺に必要だというのはほんとうに自然なのです。そして信仰を持ったなら、それを確かなものにするのが神さまの約束の「御言葉」です。これを落とさないように握るのが小指です。「彼に信頼する者は失望させられることがない」というローマ1011にある御言葉、或いは「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」というヨハネ316でもいい、とにかく自分がいちばん納得できる御言葉でよいのですが、聖書の約束の御言葉をかたく握り信頼することです。 

私はきょう皆さま方と共に、この十字架の意味を短く過去、現在、未来という切り口でお話をさせていただきたいと思っております。

十字架とはいったい何でしょうか。何を意味しているのでしょう。これに関してはいくらでも言い方があると思います。

十字架とは、衝撃的ですが、私たち人間が神を殺した出来事であります。私たち人間といっていますが、即ちこの私が神を殺したのです。自分は罪を犯していない、それほど悪いものではない、色々な自分自身の評価があるでしょう。しかし聖書はあなたがキリストを十字架につけたのだ。あなたに罪がないとは言わせない。あなたは神を拒絶し神の愛を拒み、排斥したといっています。キリストの十字架、それはあなたが神を拒絶した出来事であるといえます。しかしもう一つ十字架の意味するものは、神は自分を排斥し自分を拒絶し、自分を殺す者を一心に愛し、そのものたちに代わって神が罪を背負い自分の命を注ぎだしてくださった、これが神の愛であり十字架の意味するものであります。この二つの出来事がクロスする。そのように表現してもいいでしょう。十字架は私がキリストを拒絶した出来事であり、十字架は、その私のためにキリストが罪を背負って死んでくださった、神の愛の出来事なのだということを覚えましょう。これはただの空想ではない、ほんとうにあった出来事なのです。過去にあった、地球の小さな小さな国の小さな小さなところで、しかし確かに、このものすごく大きな大きな出来事があった。私たちはこの出来事を知っている者たちです。感動を覚えます。多くの人たちはこのことを知らないのです。私たちが人間としていちばん大切なことはこのことを知ることなのです。他の何も知らなくてもいい、忘れてもいいのですが、この事実をしっかりと確認し、こういうことなのだと知ることです。

それから十字架の持つもう一つ、現在の事実。しばしば質問されますが、いまから2000年前のそんな片隅に起った出来事と今の私と何の関係があるのですか。人種、時代も違う。いま自分たちはこの日本に、この場所に、この時代に生きているのに、いったいそんな出来事と私とをどうして結びつけなければいけないのか。これは信仰を持って初めて可能となることなのです。神さまの前には過去も現在も或いは地球の距離も、それらは何のこともない。2000年の昔に起きたあの出来事が、実はその後に生まれる人たちの罪の贖いとしても為されたと受け取ったとき、それは今、私にとって、今現実のものとなるのです。信仰というものはそうです。現実に今のことなのです。

また現在の事実というときに、罪の赦し、そして天国に入ることができるようになったという事実の他に、十字架に照準を合わせるときに、心の中にある罪のきよめがもたらされます。これが信仰のわざであります。あの2000年前に、今の私の罪はその罪の性質とともに十字架につけられましたと信じるとき、いま私はキリストの十字架の血潮によってきよめられているのです。いま救われ、いまきよめられる、神さまの御前には信仰があればいつでも今なのです。そして将来も然りです。これも心に留めたいと思います。

黙示録59節~12節に出ております。

9 彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、
10
私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」
11
また私は見た。私は、御座と生き物と長老たちとの回りに、多くの御使いたちの声を聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍であった。
12
彼らは大声で言った。「ほふられた小羊は、力と、富と、知恵と、勢いと、誉れと、栄光と、賛美を受けるにふさわしい方です。」

 ここに将来私たちが入る天国が書かれています。イエス・キリストの十字架の救いがいかにほめたたえられているか。私たちはそれをいま、この聖書の箇所からすこしだけ垣間見ているだけなのですが、しかしここに明らかに見えるのはほふられたイエス・キリスト御自身が、御前に高らかにほめたたえられている。イエス・キリストの十字架の血潮を信じる者たち、あらゆる時代あらゆる民族あらゆる言語の中から救われた者たちが、天国でキリストをほめたたえる讃美の声が行き届いている。何という素晴らしい世界に私たちは入っており目が開かれていることでございましょう。

どうか先ほどの福音の手を思い起こし、このキリストの十字架は「我が為なり」と信仰をもってこれを受け止めたく思うのであります。

※短く編集してございます。文責:中ぶんな

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