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きょうのことばー『主イエスの御手の中で』

日曜日にはインマヌエル盛岡キリスト教会(0196226304)國光勝美牧師の説教をお送りしております。きょうは3月11日、東日本大震災の1周年の日ですが、編集の都合上掲載が一週間遅れとなっておりますので、3・11のメッセージは来週となります。きょうは、201234日(日)の説教をお届けいたします。

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説教題『主イエスの御手の中で』

聖書引証 ヨハネの福音書6章3~14節

3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れと、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。
14 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ」と言った。

東北希望の祭典が323、4日と開かれております。仙台の本会場以外にも7つのサテ日曜日ライトを設けて中継されます。先ほどもあるご婦人から問い合わせのお電話がありましたが、最終日の今日、よき締めくくりがなされますよう願っているところでございます。

 きょうは5000人の施食という聖書のお話を拠りどころとして、神さまが今回の大きなイベントを通して語りたく願っておられることを私なりに受け止めご紹介したいと思います。

 おなじみのヨハネ福音書の6章です。5つのパンと2匹の魚のお話、これは4つの福音書に共通して出ている奇蹟です。今回の祭典で私たちが臨む姿勢を考えるときに、この御言葉が心に留まりました。祭典を前にして自分自身、また教会を知れば知るほどまさに、これしかないといういう想いを持ちます。世の中の圧倒的な勢力に対して、日本の東北の盛岡の見た目に何と小さいものかと思いますが、しかしこれで十分であること。ギデオンが語ったように自分自身の小ささ乏しさに目をとめますが、神さまは、それで十分なのだと仰る。この5000人の施食をみるときに、空腹になった群衆の前にあるのは、少年の持っていた小さなお弁当、これしかなかった。それは5つのパンと2匹の魚。しかしイエスさまはそれで十分だ、それをわたしのところに持ってきなさい、こう仰ってくださる。

まだ何が起きるかまったく分らないその時点で、お弟子さんたちはこれをどう捉え何を思っていたのでしょう。イエスさまは弟子たちに、人々を座らせなさいと仰った。私たちはふつう目的が分って初めて行動に移る。無目的に動くことはまずない。弟子たちは右往左往しながら大変な思いをして人々を座らせたでしょう。そしてイエスさまは少年のお弁当を持ってきなさいと仰った。何のためにこんなことをするのかと言いたくなるでしょう。

イエスさまの初めての奇蹟であるカナの婚宴のとき、ふるまう酒がなくなったときに、マリアがあの人の言うとおりに水瓶に水を満たしなさいと言いました。人々は何が起きるのかわかってはいない。結果的にはイエスさまが水を酒に変えるという大きな奇蹟、栄光が現れるのですが。イエスさまがこれをしなさいあれをしなさいと仰ることがあります。こんなことをして何になるか。結果がわかればいいのですが、そうでないときに、単に命令だというだけではなかなか素直に応じることができない。目の前にあるのは5つのパンと2匹の魚だけです。このイベントに於いても、どの局面をとっても、それが当てはまる気がします。マシェリ広告を2回出すことができました。有料で一回、無料で一回。チラシも盛岡用に7000枚準備しました。これも少年のお弁当です。世の中の方々が見れば数ある情報の中の一つにすぎません。これも少年のお弁当に過ぎない。あのとき、お弟子さんたちは人々を座らせながら、しだいにこれは何かあるに違いない、そうでなければイエスさまが自分たちにお命じになるはずがない必ず何かがあると信仰による期待、希望を抱いたに違いありません。私たちもそうでした。私たちのできることをさせていただきながら、きっと神さまがこれを通して何かをしてくださるに違いない。それはもう信仰なのです。またしても思い出を語るのですが、蔦田二雄先生の講壇の中でインパクトのある言葉は、「兄弟姉妹、信仰をはたらかせるということは、今この世にあるからできるのです。もう天国にいったなら、信仰によって歩むということは無いのです。なぜなら目の当たりに愛するお方とまみえて、まさに目と目を合わせてそのお方を知るときに、もはやそこに信仰によってイエスさまを知るなどということはない。だからそのお方が見えない今のところで見えないお方をあるがごとくに信じて進んでいく信仰をはたらかせることは、いまクリスチャンたちにできる最高の特権なのです」と語られたこのことでした。信仰をはたらかせる、これは今ある者たちの特権なのです。

私たちは今目に見えるお方があり、トマスのように触って確かめられるお方があったならどんなに幸いかと思うのですが、もしそれができたなら信仰によって歩むという特権はなくなってしまう。いまこの世にあるからこそ、このような環境にあるからこそ、このお方を期待し見えないお方を信じ、そのお方をあてにして歩むことができる。そして神さまは、このような神の子たちの信仰の在り方をお喜びになっておられる。「神に来るもの、神の在すことと、神を求むるものに必ず報いたもうことを信ずべければなり」。

見えないお方をあるがごとくに信じて進みだす神の子ども達の姿を神さまは何よりもお喜びになる。お弟子さん達はイエスさまの御手から託されて、草の上に座らせた多くの人々にパンを魚を配っていきます。それは増えていきました。何時どのように増えていったのかは書いてありません。でも増えたことは事実です。お弟子さん達は配りながらお弟子さん達自身神さまの奇蹟を体験しながら配っていった。神さまの大いなる栄光を直に感じながら驚きと興奮を持ちながら配っていく。配っても配ってもまだボクの駕籠の中にあるよ。まだあるよ。それはどんなに大きな喜びだったでしょう。瓶の油は尽きざりきとはエリシャシャのときですが。その真中にあって奉仕したお弟子さんたち、私たちはこの奉仕をさせていただく中に、神様の恵を知る喜びを感じます。昨日も盛岡会場で一人の姉妹が決断されました。その喜びはそれに携わったものの特権です。ほんとうに大きな喜びが溢れてきます。メッセージを準備しながら、どんな味がしたのかなと思いました。質素なお弁当です。しかしどんな豪華なレストランの料理にも勝る美味しい神さまからの恵のパンです。さらにいうならば、これは命の糧です。人々に配るまことの命のパン。「われはまことの命のパン、まことの命の食物なり」と仰るお方の提供しているそのご奉仕にも繋がっている。  「東北・希望の祭典」は今日で締め括られます。初日の仙台の金曜日は雪でした。シャーベット状の雪、車を動かすにも先ず雪を車から落とさなければならないような夕暮れでした。しかし仙台会場に待機した出迎えの「ようこそいらっしゃいました!」「おばんです!」というグラハム伝道団のスタッフの明るい日本語の声。が迎える。初日の参加者は1600、或いは1700だったかと聞いています。きのうのスタッッフからの情報では6000人と聞きました。副実行委員長の仙台青葉荘教会の島隆三先生は事前に会場を視察され、ご自分のブログの中で、「ほんとうに会場がいっぱいになるのか」と書いていらっしゃいました。それが結果は大きな恵、歓びとなって現れました。決心し前に出てゆかれる方々をフォローさせていただくヘルパーの数が足りないほどだったようです。

きょうは最終日。きょう締め括られます。どうか私たちも盛岡会場に於いてこのように小さな者でありますけれども、主の御手の中にあって用いられて、そしてその者たちが知る喜び味わい深さを共にさせていただきたいと、このように思うことでございます。

※文責:中ぶんな

 

 

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